唐突にアケルの気配が変わる。戦闘を前にした騎士のように。そう思ったラウルス自身、気づけば腰の剣に手をかけていた。
「ついて来てもらおう」
 すぐ目の前に、神人が立っていた。いつ現れたものか見当もつかない。が、すでに二人とも慣れてもいる。呆れてもいたが。
「どこへ、だ。なんの用事で、だ」
 険のある声でラウルスが言えば、思わずアケルの口許に苦笑が浮かぶ。それを目に留めた彼が少しばかり意外な顔をした。
「なんだ?」
「いえ……」
「喧嘩っ早いな、と呆れられるのはわかっては――」
「違いますよ、我が王。そうではなくて、いま気づいたんですが、神人と言う生き物は、たぶん言わなければわからない、と言うことが理解できないんです」
 そうではないのか、とアケルが目の前の神人に問う。それこそ意外なことを聞いたと言いたげに神人の目が丸くなる。
 ラウルスは、それに内心で驚きの声を上げていた。神人の表情がこれほど変化するところをはじめて見た。何かが変わっている、不意に気づく。
「えぇ、そうですね」
 アケルに聞こえた声ならば。神人にも聞こえたはず。ラウルスはそう思うけれど、神人はそれにはなにも言わなかった。言うべき言葉がないのかもしれない。伝えなくてはならないとは思わないのかもしれない。いずれにしても癇に障ることだった。
「……人間が。三叉宮と呼んでいるところへ招きたい。人間に関しての意見を聞きたい、と考えている」
 アケルに言われたことを神人は考えたのだろう。ゆっくりとした口調だった。それでも一応は意を汲んだ誠意に免じてアケルは一歩を踏み出す。そしてラウルスを振り返った。
「わかったよ」
 わずかに首を振って本意ではない、とアケルに伝える。それでもアケルの意思には従おう、と。
「……尋ねたいが」
 神人の声は感情を読みにくかった。あるいは感情と呼ぶほどのものがないのではないかとアケルは考えている。だが先ほどの驚いた顔。ないわけでもないらしい。もしかしたら人界に降りてから感情が生まれた、と言うことがあるのかもしれない。そんなことを思った。
「なんだ」
 神人に対しては愛想の欠片もないラウルスだった。神人はそれをどう思うのだろう。感情が生まれつつあると仮定するのならば、あまりよい気分ではないかもしれない。
「……世界の歌い手は、言わなければわからない、と言った。だが」
「なるほど。我々の間に言葉が必要だとは感じられない、と言うことだな」
「そう感じる」
「それは貴重な例外、というものだ。わかるか、神人殿。人間にとって、意思の伝達とは会話だ。アクィリフェルが言わねばわからん、と言ったのはそういう意味だ。我々は、わかる。が、そちらが考えていることがわかるわけでなし、他の人間の思考が読めるわけでもない」
 神人には隔意があるせいか、ラウルスは彼らと相対するとき、自然とかつての王の口調になる。アケルはそれを面白そうに眺めていた。そうでもしていなければ、ラウルスが一方的に腹を立てるばかりと知っている。
「参りましょうか、我が王?」
 からかうよう言えば、自分の態度に気づいているラウルスは苦笑する。わかっているがどうにもならないとばかり肩をすくめた。それが詫びだとわかるのもまた、アケルだけ。にこりと微笑んで神人に目を向ける。
「お供いたしましょう」
 招く、と言っているのだからそこまで下手に出ることもない、と思うがこれは均衡と言うものだった。ラウルスが傲然としている分、アケルはできるだけにこやかに応対する。どちらが決めたわけでもない役割。アケルが我慢できなくなれば、ラウルスは矛を納めてなだめ役に回るだろう。
「側に」
 寄れ、と言っていることくらいは言葉が足らなくともさすがにわかる。それを咎め立てする気は二人ともなかった。わずかに目を見交わし、首をかしげる。
 その瞬間、二人は三叉宮にいた。かすかな眩暈にも似た失調を覚えた途端だった。何が起こったのかラウルスには見当もつかない。
「アケル?」
 青ざめるアケルの肩にラウルスは手を置く。そのわずかなぬくもりとも言えない温度にアケルは息をつく。
「こうやって、神人たちや、まぁ他の色々見ましたよね? あの人たちは移動しているんだと思って。自分で体験するとは思いませんでしたよ」
 アケルが言っているのは黒き御使いのことだ、とぴんときたラウルスは唖然として声をあげそうになる。
 確かに黒き御使いも神人も、一瞬にして出現していた。これはその場に突如として現れたのではなく。移動していたのか、とはじめてわかる。
「理解できん」
「同様に。むしろ理解したくないですよ、僕は」
「人間だしな?」
 くっとラウルスの唇がつりあがる。不快をこらえて好戦的な彼の顔。国王時代には見せたくとも見せられなかった顔だろう、とアケルは思う。彼本来の魂の手触りを知っているのは自分だ、と不意に誇らしくなった。
「こちらへ」
 神人が足を進めていく。ついていく二人は、目を奪われていた、三叉宮に。大陸中を旅して周っている二人であっても、さすがに三叉宮の中に入ったのは初めてだ。
「これ、何でできてるか、わかるか」
 どことなく透明で、それでいて見るからに堅固な建物。透き通っているのに、向こう側が見えない扉などラウルスには何がどうなっているのかまったくわからない。
「あなたにわからないことがどうして僕にわかるんです、我が王?」
 どう見ても石造りではない。明らかに木材でもない。ならばなんだと問われても、わかるはずがない。おそらくは人間世界に存在するものではないのだろう、とアケルは思う。
「世界の声が聞こえるかと思ってな」
「異物がある、異物があるって叫んでるのは聞こえますけどね。その異物が何か、となるとわかりませんよ」
「――気に入らないだろうか。我らは非常に美しいもの、と思うが」
 神人に問われてアケルは驚く。問われたことが、ではない。言葉を交わさねばわからない、と言った意思を尊重する神人に。ずいぶんと素直に人の話を聞く気になった、それにアケルは呆気にとられていた。
「美しいとは思う。が、この世界にあるものではないせいだろうな。私個人の感想としては、落ち着かない」
「人間は物質に縛られるものであるのだから。致し方ないこととは思う。が、残念だ」
「いいえ、ないはずのものがある、と言うことに対して居心地が悪いのであって、綺麗だとは思いますよ」
 二人の言葉が神人には通じなかったのだろう、わずかであっても神人は首をかしげた。人間の仕種を学んだのかもしれない。
「例えば……。そうですね、あなたは我が王を目にして、落ち着かないのではないかと思います、想像ですが」
 アケルの問いに、神人ははっきりとうなずいた。そしてその青い目がラウルスの腰へと眼差しを流す。ラウルスはその目の青に、アケルを見つめた。彼の青のほうが遥かに美しいと。
「我が王? どうぞ真面目に」
 にやりとしてアケルが唇を歪める。神人には、その意味はわからないだろう。ラウルスはそう思った。が、アケルは違う。神人は人間の女との間に子を儲けた。と言うよりもむしろ女を愛した。ならばわかるものもいるだろう、と思う。この神人がそうかは、わからなかったけれど。
「えぇ、あなたはいま彼の剣に目を留めた。ご存知でしょうけれど、彼の佩剣は魔王の剣。あなたがたにとって、ないはずのものでは?」
 決して目にすることのないもの。存在すら認めたくないもの。それが目の前にある違和感。アケルの伝えようとしていることを理解したのだろう神人がうなずいた。
「だが、それは悪の――」
 言った途端、ラウルスの眼差しが厳しくなる。アケルは軽く手を抑え、神人に向けて微笑む。その目だけが笑っていない。
「おい」
「あなたが言うよりたぶん、ましですから」
「似たようなものだろうが」
 小声で文句を言うラウルスに、アケルの肩から力が抜けた。ふっと浮かんだ笑みは、今度は真実。
「善悪はやめましょう。あなたがたにとって悪であろうとも、僕らにとってはそうではない」
「いや――」
「善悪論を語るなら、帰らせてもらおう。所詮、善悪と言うのは限定された状況においてかつ主観で語るものだ。少なくとも人間世界に絶対善、絶対悪というものは存在しない。ならばそれを振りかざすのは会話の拒否と断ずるよりない」
「絶対的な善悪なんて、この世界にあるわけがない。わかりますか、天なる御使い? あなたがたがどう思おうと、この世界は魔王と天使長の合作です」
「いいや、我らが長が作り上げたものを悪魔が汚したのだ。合作とは協力して作り上げた、と言う意味の言葉であろう。ならばそれには値しない」
「ですから、あなたがたがどう思おうと、と先に申し上げましたよ。お忘れですか? 僕はこの世界の代弁者。この世界の声を聞く者。僕は世界が自らの成り立ちを語る歌を聞きましたよ。あなたがたがどう思おうと、この世界自身は両者によって作られた、と認識しているんです」
「魔王と天使長の合作ならばどちらも等分にあるのが自然。善も悪も。そうだな、アケル?」
「ないほうが変ですよ。どちらが過分になっても世界の均衡は崩れる。崩壊しかけたことがあったのを、この場の誰もが知っていますね?」
 混沌の侵略だ。言外に言うアケルにラウルスはうなずく。神人の表情は読めなかった。だからこそ、指摘が不快だったのだとラウルスは思う。間違っているとは思わなかった。
「ちなみに。神人降臨によっても、均衡は崩れましたからね。あのときには混沌の侵略の傷がまだ残っていたからよかったようなものです。そうでなければ、世界にとっては同じこと。あなたがたがこの世界を壊しかねなかった、と言う事実を知るべきでしょう」
「この世界に絶対善、絶対悪が存在しない証左と言うわけだな」
 ついに神人は足を速めた。聞きたくない、との明らかな態度にアケルの唇はほころぶ。それだけ痛いところを突いたのだとの確信があった。




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