ラウルスを悲しませることが起ころうとしていた。アケルとて、案じられてならないけれど、どうにもならない。せめてなにかできはしないか、とハイドリン近くの町に滞在していた。 「しょうがないけどな」 ぼそりとラウルスが言う。本当はそうは思っていないのだろうことが如実に伝わるその口調。アケルは問うようにリュートの弦を弾く。 「シャルマークとラクルーサのことさ」 「それはわかってますけど?」 「だからさ――」 戦争が起ころうとしていた。シャルマークとラクルーサの間に広がりつつあった間隙が、いつからそこに至るまで育ってしまったのかは二人にはわからない。それでも人々の間に囁かれる噂だけは聞こえてくる。 「シャルマーク王は、姫様のお孫様でしたっけ?」 「あぁ。ラクルーサはケルウスの孫だな」 「だったらどちらもあなたの曾孫ってことですよね。親戚じゃないですか。だったら、どうして戦争なんか……」 アルハイド王国時代には戦争などなかったものを。アケルの内心の呟きが聞こえたかのようラウルスは苦笑する。 「なかったんじゃない。一国じゃ戦争にはならん。それだけだ。内戦がなかったわけじゃないぞ? 俺の代には偶々平和だった、それだけだ」 「それでも……」 ティリアとケルウスは仲のよい姉弟だった。ティリアは弟を慈しんでいたし、ケルウスは姉を敬愛していた。その孫たちが、と思えばアケルは暗澹とする。 「あのな、アケル。曾孫どもにとっちゃな、祖父母が姉弟だったってだけだぞ? 親戚もへったくれもあるもんか」 「でも」 「思い出せ、アケル。言いたくないがな、俺とロサはそういう意味じゃ同じ王族で親戚だぞ? でも俺はロサと親戚だと思ったことはない」 亡き王妃の名にアケルが少しばかり嫌そうな顔をした。もっとも、それはラウルスをからかうためであって、アケル自身が亡き王妃に遺恨があるというわけではない。それをラウルスもまた知っていたから取り合わなかった。 「王妃様とあなたは?」 「ロサは俺の祖父様の双子の弟、アントラル公爵の孫娘。だから、状況は同じだろ? あっちはラクルーサ、こっちはシャルマーク。結婚するまでろくに顔見たこともない。四六時中顔を合わせてるんだったらともかく、そうじゃなかったらその程度の血の繋がりなんかほとんど他人だ」 きっぱりと言ってラウルスは遠い目をする。亡き王妃を思う目ではなく、今現在を見つめる目。他人も同然と言いつつ、顔も知らない曾孫たちを案じるラウルスを愛おしい、そうアケルは思う。 「ましてな、アケル。ラクルーサ王は俺の長男の孫だ。言ってみればな、アルハイド王国の王冠を約束されていたはずの王子の孫、だな? つまり、どういうことだと思う?」 「自分こそが正当な君主のはずだって思ってるってことですか? なんですか、それ。馬鹿馬鹿しい。いまだって正当な国王じゃないですか。シャルマークに喧嘩売る意味がわかりませんよ」 「問題はシャルマークのほうが豊かだって所だな」 溜息をつき、ラウルスは散歩に行こう、とアケルを誘う。町の中にずっといては息が詰まってしまう。かといって、旅に出てしまうこともはばかられる。一朝事あったとき、せめてどちらからも等分の距離にいたい。何もできないとしても。 「豊かだって言っても……でも、シャルマークは国土が狭いですよね。ラクルーサのほうがずっと広いじゃないですか。努力次第でなんとかなるような気がしますし、現状で国力は似たようなものだと思うんですけど」 さすがにあちらこちらと旅して周っているだけはある。一介の庶民の身でありながらもアケルの分析は確かだった。ラウルスはにやりとし、それでも目許に疲労の影。 「それで納得するのがアルハイド王家のあり方ってもんなんだけどな。さすがに代を重ねてるからなぁ、新しい三王家も」 「領土的野心ってものですか? 話に聞いたことはありますけどね」 無論、アケルが知っているのはアルハイド王国時代の、領主たちの話だ。豊かな所領を攻め取る、あるいは婚儀を重ねて奪い取る。そういうことがなかったわけではない、と昔話として知ってはいた。 「質が落ちたのか時代なのか。欲しいと思えば手に入れる。それはアルハイド王家がしていいことじゃないんだけどな」 ラウルスの言葉にアケルは悟る。そのようなことをしたアルハイド王がかつていなかったわけではないのだと。 「まぁな。義務をわきまえ責務に励むのがアルハイド王――と言われちゃいるがな。俺の先祖も人間だしな」 「あなたは……。その名のとおりでしたよ。あなたこそがアルハイドの精華でした。少なくとも僕は、そう思います」 「違うよ、アケル」 「え――?」 「アルハイド王家が生んだ最高傑作はな、アケル。俺じゃない。ティリアだよ。だからこそ――」 その孫が戦争をはじめようとしている。それがラウルスにはたまらない。戦争となれば、仕掛けたのがどちらかなど関係はない。ラクルーサ側が遺恨を持っている、それはわかっている。ならばシャルマークだとて何かがあるはず。そしてそんなものは戦争の勝利者が正当化するもので、敗者にはいかなる理由も与えられない。それをラウルスは知っている。そしてどのような理由があったとしても、犠牲になるのは名もなき庶民だと。 「それでも、僕にはあなたこそがアルハイド王。最も偉大な国王です」 いまなおそうして人々を守ろうとするラウルスこそが。何の益もない、何の手段もない。それでもラウルスは何かをしようとする努力だけは惜しまない。彼の肩に人々の命がかかっていた時代はすでに遠い。それなのにラウルスは今でも。 「黄金の王冠はなくても、あなたには頭上に星々を戴く。花の褥に安らぎ草原の香りをまとう。いかなる豪華な居城より、あなたの住まう大地は絢爛ですよ」 「よせ」 「なんだ、照れましたか?」 にやりとするアケルに向けて、ラウルスは戯れに拳を上げた。決して落としはしない。あの後悔と痛みを忘れてはいなかった。代わりにすっかり伸びた赤毛を指で梳く。 「あのね、ラウルス。そこで遠慮されるとやりにくいんですよ。別に痛くないですから、平気ですよ?」 「痛いのは俺だっての」 「なに軟弱なこと言ってるんですか、それでも国王ですか、陛下!」 かつての口調で敬称を口にすればラウルスは大きく笑った。逞しい腕が伸びてきてはアケルを抱き寄せる。 一度は抗った。人目というものが気になる質のアケルは身をよじって離れようとする。が、すでに町の郊外。気にするような人目などどこにもない。 「俺はな、アケル。同じ過ちを繰り返す馬鹿にはなりたくない」 一度思い知った痛みだから。自分のそれではなく、アケルのそれを思うとき、二度と再び同じことは決してできない、ラウルスはそう思う。 「そうですよね、ラウルス。だったら……こんなこと、言っちゃだめだと思うんですけど。だったら、一度は痛い目にあってもらうのも、手だと思うんですよ」 「うん?」 「シャルマークとラクルーサ。戦争がどれほど悲惨で意味がないか、やってみたらわかるでしょうに。そうしたら、次はないと思うんです」 「それはずいぶんと楽観がすぎるな」 「そう、ですか?」 「勝負事って言うのは時の運とも言うしな、一度負けたから次もとは限らない。だからこそ繰り返す。痛い目にあったら、相手にも痛い目を見せてやろうと思うのが人間だしな。それに、俺とお前みたいにな、二人の間で話し合えば理解しあえることでも、集団になると話は違う」 「でも、ちゃんと話せば――」 「狩人の集落ではどうだった?」 「え?」 唐突に言われた言葉に理解が追いつかない。アケルはしばしの後、言葉を返す。どうだったか、と思い出すような時間だった。 「それはまぁ、それこそ人間ですし。話し合いが平行線ってことはありましたよ? それでも長が絶対に喧嘩なんてさせませんでしたし。思い出してください。僕らは狩人なんです。つまり、いつでも手の届くところに武器を持ってるんです。喧嘩はすなわち殺し合いになりかねません」 「だろ?」 「え……」 「だからな、アケル。その場合の喧嘩ってのは個々人の喧嘩じゃないだろ。あっちの説とこっちの説、どっちを取るかで喧嘩になりかねない状況になったりするわけだろ」 「あ……。えぇ、はい。そうですね」 「狩人には長がいたから、それを上手に押さえ込んだり回避したりしてきたんだろう。アルハイド王国の場合もそうだ。歴代国王が領主のいざこざを治めてきたわけだが」 もうアルハイド王家はない。あるのは対等な三王家。せめてミルテシアが仲裁の労を取れればいいのだが、ミルテシアは巻き込まれることを恐れて静観しているらしい。 「と言うより。あれかな? シャルマークとラクルーサが潰しあってくれれば幸運だ、と思ってないとも言いがたいところがなんともなぁ」 天を仰ぐラウルスにアケルは何を言うこともできなかった。せっかく豊かになった大地なのに、そう思えば胸が痛む。大異変の傷跡がやっと覆い隠されたというのに。 「それにな、アケル。痛い目にあって学ぶ人間ばかりとは限らん。俺は幸い、学習できたがな。わからなければ何度でも同じことをする」 「でも。あなたの血を受けた方々です」 「俺同様の馬鹿ばっかってことだ」 肩をすくめてラウルスは言い放つ。かつての自分を思い出しているのかもしれない。二人の間にあった憎悪の応酬を思い出し、アケルは微笑む。 「それとアケル。大事なことを忘れてる」 「なんです? 僕はあなたが好きですよ? ちゃんと覚えてますけど」 「……おい。まぁ、確かにそれは大事なことだけどな、そうじゃないだろうが」 咄嗟のことでうっかりと口にしてしまったアケルだった。大事なこと、と言われて即座に思うのがそれとは、アケルはほんのりと頬を赤らめそっぽを向いた。 「俺が言いたいのはな、アケル。そっちじゃなくて、だ。いや、俺もお前を愛してるよ、アケル? 問題はだからそこじゃなくてな。――戦争なんざ始めた日には、学ばない馬鹿が繰り返す可能性を生むだけじゃない。なんの関係もない、ただその王を戴いているってだけの民が命を落とす。俺が避けたいのはそっちだよ。曾孫どもが殺し合おうが知ったことか。やるならやるで民を巻き込まないで勝手にやれって言うんだ。当事者同士で殴り合いでもすりゃいいんだ」 嘘をつけ。とはアケルは言わなかった。顔も知らない曾孫たち。それでもティリアの孫。ケルウスの孫。彼らを慈しむ気持ちがないなどとは、アケルは思わなかった。 |