話しながら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ラウルスは暗くなった湖畔で目を覚ます。隣を見やれば、アケルがいなかった。 「アケル……」 夢だったのか、やはり。即座にそう思った。だが違うと感じるもの。ふと耳を澄ませば夜に響く歌声が。 水辺に立ち、アケルが歌っていた。さざめく波と月光に洗われた世界で、アケルが歌っていた。踏み出した足が、水辺の白い砂を踏む。さくりと音が聞こえそうなほどの静寂。彼の歌は静けさを乱すことなく響いていた。 「どうしたんです? 起こしちゃいましたか」 アケルは振り返りはしなかった。足音を忍ばせて、それでも足早に近づいてきたラウルスが、黙って背中から抱きしめてきたその腕。首筋に顔を埋めるラウルスに、アケルは前を向いたまま微笑む。 「いや……」 ぼそりと呟く声にある感情の響き。恐れと憧れと。ラウルスの心をまざまざと感じてアケルは身を震わせる。恐怖ではなく、歓喜に。 「笑うなよ?」 「努力はしますよ」 「お前な……」 少しばかり呆れた声でラウルスが言えば、やはりアケルは詫びるように小さく笑う。それになぜか意を強くして、ラウルスは言葉を続けた。 「また、お前が攫われちまいそうな気がして」 強く抱きすくめるというよりは、ぎゅっとすがりついてくる彼の腕。アケルはその腕に軽く触れ、そっと囁くように歌った。柔らかな安堵の気配が聞こえるまで。 「本当に、あなたって人は。攫われるってなんですか、攫われるって」 「実際、メイブ女王に攫われたんだろうが」 「手を下したのはサティーですよ。だいたい、攫われたはやめてください。誘拐されたって言ってください!」 「一緒だろ?」 「語感の問題です」 すげなく言ってアケルはけれど朗らかに笑った。夜の静寂に彼の笑い声が溶けていく。まるでそれが目に見えるかのようで、ラウルスは瞬く。ひどく美しい物を見た、そんな気がした。 「アケル」 軽く頬に手を添えれば、彼が振り向く。その目にラウルスは射抜かれた気がした。鼓動すら止めて、北の海の青をした目に見入った。魅入られていたのかもしれない。 「僕の顔に何かついてますか?」 からかう声音にラウルスは答えない。代りに、そっと唇を触れさせた。それだけで離せば、眼前でアケルが睨んでいる。 「おい」 「なんですか!」 「それは俺の台詞だろうが。この状況で睨まれたら俺はどうすりゃいいんだよ?」 「中途半端なところでやめるからじゃないですか!」 「お前な――」 「それで、ラウルス? まだ睨まれたいんですか?」 「遠慮したい」 だったら続けろと言われる前にラウルスは行動に移す。いまでも少し、怯えていた。触れれば触れるだけ、アケルが遠くなっていくような不思議な気配。何度か唇をついばんで、不意に胸苦しさを覚える。 「ラウルス。泳ぎませんか?」 唐突なアケルの言葉に、ラウルスは首をかしげる。続けろ、と言われた気がしたのだが。そんな疑問が顔に浮かんだのか心を聞かれたのか。アケルは悪戯をするような目でラウルスの服を剥ぎ取った。 「おい!」 「よもや服を着たまま水浴をする、なんて言いませんよね、ラウルス?」 「さっき着ろって言ったくせに今度は脱げかよ!? 忙しいやつだな」 「さっきはさっき、いまはいま、ですよ」 ふん、と鼻を鳴らしてアケルは剥ぎ取った服を放り投げる。手早く自分も脱いでしまえば、ラウルスが息を飲む気配。 「見慣れたものじゃないんですか?」 自分の裸など何度も飽きるほどに見ただろう。言外に言うアケルにラウルスは首を振る。 「それとも、見忘れましたか?」 百年と言う長い時間が経っているのだから。ラウルスは無言でアケルの裸の肩に手を滑らせた。手が覚えているものが確かにここにある、と自らに知らせるように。 「誰が忘れるか」 「それはそれでどうかと思いますけどね?」 「おい!」 「百年。僕の裸を想像していたんだとすると、さすがにちょっと……」 肩をすくめたアケルにラウルスは言い返そうとして、からかわれていることに気づく。長い溜息をつけば、アケルが笑った。 「まぁ、人のことは言えませんけど。僕だって覚えてるんだから」 弓をとる狩人の手と言うよりは、滑らかな吟遊詩人の指だった。それがラウルスの胸をたどっていく。知らずときめきざわめく肌。アケルは知らん顔で指を離した。 「泳ぎましょう」 つい、と背を返すアケルを咄嗟に追って、ラウルスはいまだ復調ならずか、と自嘲する。情けないほどに戸惑っている。一瞬でも目を離せば、また彼がいなくなってしまうような不安。 月光を浴びる湖は穏やかな細波を立てていた。海のものよりずっと穏やかで、鏡のような湖面。水辺だけがただ、仄かに波打つ。 水紋がひとつ。ふたつ。つい、つい、と広がっていくその中心にアケルがいた。後を追う水紋。ラウルス。 「やっぱりあったかいよな?」 大異変からさほど経っていないころに混沌を浄化したあのとき以来、この湖はほんのりとした温みを帯びている。 「助かりますね。冷たい水は苦手ですよ」 「ほんとかよ?」 疑いもあらわに言えば、アケルが目許だけで笑って見せる。湖の水は、かすかなぬくもりがあるというだけで、決して温かいものではなかったから、アケルの言葉は真実とは言いがたいものなのだろう。 「どっちでもいいけどな」 そうやって他愛ないことを言い合えることこそが、大切なのだから。ラウルスが心に呟いた声を聞き取ってアケルがうなずく。 「ラウルス、少し歌ってもいいですか?」 珍しくアケルがそんなことを問う。だからラウルスはただ歌いたいのでも単に聞いていてくれと言っているのでもないことを悟る。 「そうですね……。なんて言ったらいいのかな? 僕は、この世界の代弁者のくせに、長くここを離れていたんです」 「弱まった繋がりを取り戻したい?」 「――よく、わかりましたね。えぇ、言葉にすればそんな感じです」 莞爾と微笑うアケルの笑みに、ラウルスもつられた。二人手を取り合い、ゆっくりと水辺に戻る。座り込めばちょうど腰を洗う程度。そしてアケルは歌いだす。 「帰ってきたな、アケル」 歌声に、帰還を思う。しばらくは彼が歌うたびにそう思うことだろう。ラウルスは隣に腰を下ろして歌うアケルを眺めていた。その眼差しがこちらを向き、ラウルスの肌に指が触れる。 「傷、増えましたね」 「……忘れてたな」 「なにがです?」 「歌ってるくせに、喋るお前を。器用なもんだ」 肩をすくめたラウルスに、アケルは含み笑いを漏らす。歌声が艶をまとい、夜の中に溶けていく。同時に、アケルがこの世界から受け取る何かがあるのだろう。それはラウルスにはわからない。わかることはそれでもあった。アケルが生気を取り戻していく。 「ほら、ここにも」 かすかに触れるアケルの指にぞくりとした。ラウルスの胸元に残る傷跡を辿る彼の指だけに、月の光があたっている、そんな気がした。 「まぁ、色々あったからな。俺も荒れてたし。ちょいと刃傷沙汰をやらかしたことも一度や二度じゃなかったからな」 多少、軽く言ったけれど、アケルは本当のところを聞くことだろう。もしもラウルスがただの人間であったのならば、アケルに二度と会うことなく死んでいた。それほどの傷を負ったことが、二度や三度ではなかった。 「体だけじゃないですよ、ラウルス」 「うん?」 「ここに」 同じ胸元をつつく指。ラウルスは黙って首を振る。ティリアの死に、息子たちの死。孫すらも先に逝く。それをラウルスは一人で耐えた。アケルなくして。 「僕はね、あなたのその傷を癒すことはできますよ。歌で和らげることはできます。でも、それは違うでしょう?」 アケルの歌が、アケルの物だけではなくなっていく。世界との絆を取り戻しつつある彼の歌。正にそれは世界の歌い手の歌。この世界が、人間の声を借りて歌う歌。 「傷がなくなっても、傷ついた事実まで消えるものじゃない。あなたの傷のすべてを癒しても、僕がつけた傷まで治るわけじゃない。それは、治しちゃいけない傷だと、思いますから」 「もう、治ってる」 「いいえ。ねぇ、ラウルス。僕は言いましたよね、あなたから離れるつもりなんかなかったんだって。なんでかわかりますか?」 裸の胸を。肩を腕を。何度となくアケルは辿っていく。不意に気づいた。世界との絆を取り戻すよう、アケルはラウルスもまた、確かめているのだと。 「泣き虫で、寂しがり屋で我が儘なあなたを、どうして放って置けるんです? 僕がいなくて泣いてるかもしれない。そう思えば本当に気が気じゃなかったのに」 「あのなぁ」 「泣いていたでしょう、ラウルス? 嘘をついてもだめですからね。ちゃんと――」 くすりと笑ってアケルは自分の耳を軽くつついた。聞こえていた、と示すその仕種にラウルスは渙然と悟る。 「お前、聞いてたな!? それよりおい、俺の指輪返せよ!」 大らかに笑い、再び泳ぎはじめたアケルをラウルスは慌てて追いかける。先ほどまでの置いていかれそうな焦燥感はすでになく、何かが元に戻った、そんな思いだけがあった。 湖の中心で、アケルが高々と空に腕を差し伸べる。月をつかもうとするかの仕種に、ラウルスは手を添えた。アケルを抱え上げ、彼ごと空へと差し上げる。 「ラウルス」 見下ろすアケルの青い目は、夜に翳って見えなかった。見えたのは笑みをたたえる口許。そして体中に響き渡り染み込んで行く彼の歌。 翌朝、目覚めたラウルスの胸元には、美しい革紐細工に結ばれた真鍮の指輪が下げられていた。 |