色鮮やかな竜たちの向こうから歩み寄ってくる人影に、ラウルスは動けなかった。ただひたすらに、見つめていた。 「僕はあなたの水浴姿を覗く趣味があるわけじゃないんですけどね。巡り合わせですから、ただの」 水辺に立ち、覗き込んでくるその姿。ラウルスは黙って手を伸ばす。触れる寸前、留まったその手を。 「アケル――」 彼の手が掴んで引いた。水を滴らせたまま、ラウルスはなにも言えずアケルを抱きしめる。震えているのは、水の冷たさばかりではなかった。 「ただいま戻りました。ラウルス」 おかえり。待っていた。言いたいことはいくらでもある。それなのに、一言として喉から先に出てこない。 こくりとうなずいたラウルスをアケルは肩先で感じる。伸びた髪が柔らかに頬に触れていた。 「お前、どうした。この頭」 腕を緩めれば、そのまま消えてしまうのではないか。ラウルスの恐れがアケルにも伝わってくる。ほんのりと微笑んで、だからアケルは彼を見上げる。その髪はきれいさっぱり短くなっていた。 「ずいぶんと男らしくなっちまったな」 ラウルスの言葉に、少しだけ彼が緊張を解いたのが伝わってきて、アケルは唇を歪めて見せた。不満は彼に対するものではない、そういまならもうわかってくれるはず、と。 「せっかくの綺麗な赤毛だったのに」 ラウルスの指が、震えながらアケルの髪を梳いた。自分でその震えに目を留めたのだろう、彼は自嘲するような笑みを口許に浮かべ、大きく息を吸う。 「ティルナノーグの女王に、切られました。礼の代わりに寄越せだそうです」 「礼?」 「刺繍糸にするんだそうですよ。足らないからまた何かの機会に寄越せって言ってましたけど」 根本的に何の礼なのかを問おうとしたはずだったが、アケルの言葉にラウルスは首をかしげる。その拍子に長くなった髪が肩から前へとこぼれた。 「これ、いるか?」 こぼれた髪でアケルの頬を撫でれば、彼が小さく笑う。やっと、認めた。ラウルスはようやくアケルが今ここにいる、それが現実だと認めた。それでもまだ、夢を見ているような気がした。 「えぇ、助かります。せっかくあなたが気に入ってるのに、伸びた途端に刈り取られたんじゃたまりませんからね」 ふっと笑ってアケルが身を離す。思わず追おうとしたラウルスの手を止め、アケルは短剣を手にしては思い切りよくラウルスの髪を切り取った。 「あなたって人は」 笑うアケルの眼差しの先。そこには細工をした彼の髪飾り。自分の髪束を留めているそれからラウルスは目をそらす。和やかな眼差しでそれを見つめ、アケルは自分の袋へとしまいこむ。目の端でそれを見てしまったラウルスは、急に奇妙なほどの羞恥を覚えた。 「よかった、大事に持っててくれて」 「嘘つけよ」 「なにがです?」 「大事にしてないなんて、思ってもいなかったくせに」 どこかを向いたまま言うラウルスに向けたアケルの忍び笑い。くすくすとしたそれに、ラウルスは息を抜く。 「パーン!」 だがアケルは彼に目を向けず、歩みきた方向へと振り返る。その気配と声にラウルスが振り返った瞬間。アケルは髪束を放り投げた。 「あ――」 思わず声を上げたラウルスに、アケルは静かに寄り添った。投げたはずの髪束は、空に消えた。アケルの目は、鷲の翼の影を見る。きっとあの髪は、花ではなく鳥を刺繍することになるのだろう。そう思いつつ。 「女王に、礼物の残り分、と伝えておくれ。これで完済だと」 答えはなかった。代わりにくつくつ笑う声ばかり。ラウルスは思い出す、その名を。黒き御使いに仕えたサティーの一人を。 「アケル……」 「どこに行っていたか、ですか? 幻魔界です。メイブ女王の下に。正確には、僕の意思ではなく、誘拐されたんですけどね」 「誘拐!?」 こんなものを持って行ってなにをするつもりだったのか、女王は。ラウルスが心に思った途端、アケルが顔を顰める。次いで破顔した。 「アケル?」 「よかった……。あなたの、心が聞こえる。よかった……」 「な――」 軽く額を肩先に当ててきた。その仕種に胸をつかれた。どれほど彼が不安を覚えていたのか、如実に伝わるその姿勢。黙って抱き寄せる以外、なにもできなかった。 「ちょっと待って、ラウルス。とりあえず何か着てください。風邪ひきます。それ以前に僕は恥ずかしい!」 ぐいと体を押し返し、アケルはそっぽを向いた。赤らんだ頬に、彼の帰還を思う。ようやくアケルがここにいる。わかっているのに、まだ夢のよう。 あるいは。これは夢なのかもしれない、本当に。もしもこれが夢ならば。こんなに幸福な悪夢もない、ラウルスはそう思う。 「ラウルス。余計なことを考えていないでさっさと服を着てください!」 顔をそむけたまま怒鳴るアケルにラウルスは目を瞬く。本当に、ここにいるのか。夢ではないのか。思えばアケルの指がリュートを弾く。違うと。ここにいると。ただの音が返答に聞こえた。間違いなどではなく。 「ここにしばらくいたんですね」 辺りを見回し、アケルはラウルスが着替えている間の暇つぶしとばかり、火をかき立てて荷物を探す。見つけた茶がちょうどよく入ったころ、ラウルスは焚き火の前に腰を下ろした。 「ラウルス。嫌がらせですか、それは」 「なにがだよ」 「どうしてそっちに行くんですか。それとも――」 思わせぶりに言葉を切ったアケルに促され、ラウルスは改めてアケルの隣へと腰を下ろす。ひどく落ち着かなかった。 「照れないでください。僕のほうが恥ずかしくなってくる」 「お前な!」 「なんですか!」 「照れるだろう、普通!? どれだけ経ってると思ってんだ。俺はまだ捨てられてないのか。お前の心はまだ――」 言い募ろうとしたラウルスの言葉が止まった。止められた、が正しかった。唇に、アケルのそれを感じる。ただ重ね合わせただけの稚拙なくちづけ。それなのに、かつてない甘美。 「アケル……」 「愛してますよ、ラウルス。僕は、一時だって離れたくなかった。離れたのは、女王のせいです。誘拐されたって言ったじゃないですか。助けられたのは事実ですけど。でも僕はあなたの側を離れたくなんてなかったのに」 髪束を切り取ったままの乱れた髪にアケルは指を差し入れる。何度も梳いて、その感触を手に思い出させようとするように。 「助けられた?」 「……覚えてますか。ラウルス。あなたは、僕にたった一つ聞こえる確かな音です。世界中で轟音が響き渡っていても、あなただけは聞き分けられる。でも」 アケルは続けなかった。ラウルスはさっと青ざめる。ティリアの死を知った瞬間。わずかであってもラウルスの心はアケルから離れていた。 「えぇ。だから。あなたと言う確かなものを失った僕は、正気を失くす寸前だったそうです。メイブ女王がそう言ってました。これも、女王の言葉ですけど。あなたは僕の碇なんだそうですよ。あなたがちゃんと留めていないと、僕はどうなるか知れたものではない。そういうことなんでしょうね」 ラウルスは言葉がなかった。さらりと言ったからこそ、アケルが味わった苦痛を嫌でも理解してしまう。震える指先で彼の頬をたどれば、アケルは微笑む。 「もう、済んだことです」 「いや……」 「ラウルス?」 この手で、いまこうして彼の頬を撫でる手で、アケルを殴った。忘れたのだろうか、彼は。否、目を見ればわかる。わかっていて、覚えていて、それでもいい。そう語る眼差し。 「よくないだろ」 「いいんですよ。だって……。留守にしていたのに、また迎えてくれた。姫様の死を予知もできなかった、手を施すこともできなかった僕なのに、あなたは」 「お前を責める筋合いじゃないってことにようやく気づいただけだ。馬鹿は俺だ」 「そうやって、あなたは僕を許す。もっと責めていいんです」 「許すのは、どっちだ?」 ラウルスはアケルの前に拳を突き出す。この手で殴られたのを忘れたかとばかりに。だがアケルは黙って笑った。そっと両手で包み込み、眼差しを落としては軽く拳にくちづける。 「あなたが今ここにいてくれる。また僕を迎え入れてくれる。それだけで、充分です」 静かに見上げてきたアケルに、ラウルスは何を言うこともできなかった。ただ一言の他は。 「愛してるよ、アケル。……お帰り」 「えぇ。ただいま」 眼差しを交わす、それだけでよかった。当たり前にあった日常が、どれほどの偶然に支えられてきた奇跡なのか。まざまざとラウルスは感じる。今更ではあった。だがアケルが戻ってきたいまだからこそ。 「本当に。出逢ったのも偶然。思い合ったのも偶然なら、偶然が切欠で別れてしまうこともある」 「それをつい、忘れるよな」 「忘れてたほうが、いいんですよ。一々怯えてたら生きていけないじゃないですか」 からりと笑うアケルにラウルスは支えられているのを強く感じた。以前からそうだった。それでも一度は離れ離れになったからこそ、わかる。自分ひとりでは、心が軋んでうまく動けない、その事実を。 「ところでラウルス? どれほど経ってるかってさっき言ってましたけど。どれくらい経ったんです? あなたの髪があれほど伸びたってことは、相当でしょうけど」 「まーな。聞いて驚――」 「――かないわけはないでしょうに。もったいぶらずにさっさと言ってください」 言葉を奪い取って笑ったアケルに、ラウルスはにやりと笑う。本当はもう自分の心が聞こえているのではないか、あえてそうは思わなかった。 「聞いて驚け。百年だ」 「百! はい!? なんですかそれ、百年!? そんな馬鹿な! メイブ女王! 詐欺だ!」 「おい」 「だってそうでしょう!? 百年も僕を拘束しておいて、まだ礼を寄越せですって!? 百年もあなたを一人きりにしておいて、僕から礼物を取りますか!? 今度会ったら詫び料とってやる!」 息巻くアケルにラウルスは大きく笑った。吸い込む大気に風を感じた。見上げた空から燦々と降り注ぐ陽の光。いつの間にか散り去った竜たちが舞い遊ぶ世界がそこにあった。 |