「いささか、邪魔になってきたな」
 ぼそりと呟いて、ラウルスは己の髪を手に取った。アケルが鷲の翼の色だと笑っていた髪。彼が傍らにあった頃は互いに髪を切りあったものだった。だがいまは。
 死なない定めゆえか伸び方こそ遅かったけれど、これほどまで時経れば、肩など疾うに越えてしまっていた。かといって、ラウルスには切ることができない。不器用だから、ではなく、アケルゆえに。
「なんだかな……」
 アケルが触っていた髪だから。切れば彼の名残の思い出まで切り捨てるような気がしてしまって、切れないでいる。
「とは言え、邪魔は邪魔だな」
 腰の小袋に、自然と手は動いていた。そこには彼が置いていった髪飾りがある。代わりに使わせてもらおうか、ふとそんなことを思った。
 ラウルスは今、かつての禁断の山、今はヘルムカヤールの思い出の竜たちが生息する地にいる。一人きりが、寂しくなっていた。
 竜たちは、決して話すことはない。ヘルムカヤールのように人語を解する竜はもうこの世界にはいない。それでも、楽しかったころの思い出がここにある。一人きりではない、そんな夢をヘルムカヤールと共に見ているかのような。
「馬鹿だな」
 アケルが去ってどれくらい経ったのか。ラウルスは数えないようにしている。しているのに、数えてしまうのは人間の性と言うものだろうか。十年までは、本当に数えていた。以来、漠然と思うだけにするよう心がけている。
「……長い留守だよな、アケル」
 帰ってきてくれるはず、と信じているからこそ、呟ける。あるいは、帰ってこないかもしれないと思うからこそ、口に出してみる。
 いずれとも決められず、ラウルスはただ世界をさまよう。一処には、留まりたくなかった。聞きたくない話ばかり、聞こえる気がした。
 いったい何があったのか、と思う。それともこれは呪いなのか、祝福が去ったのか。ティリアは王家の血を受けていたと言うのに、早世した。
 そしてティリアの息子も。彼女ほどではなかったとは言え、ラウルスの孫としては破格に早い死だった。娘一家だけではない。息子たちも同じだった。
 ティリアより長生きをしたけれど、息子たちも二百を数えるより前に死んでいる。ラウルスは、ただ見ていた。
「そう言うものだと、そういう世の中になったんだと、思うより、ないか」
 遠いラクルーサを見やる。遥かなミルテシアを見つめる。息子たちもいない。顔を見たこともない孫たちもいなくなりつつある。
「悪くは、ないがな」
 本人たちにとっては。残された親としては嘆くより他にない。けれど元々ラウルスは王家の血を祝福と捉えたことがあまりない。
 ティリアを思う。もしも彼女がはじめから他の人々と同じ寿命を持っていたのならば、あれほど迷わなかっただろう、愛しい男の元へ走っただろう、すぐさまに。
 人々の倍から三倍は生きる定めの王家の人間。恋ひとつままならないのが王家の血。ならば、そんなものはなくなってしまって、よかったのかもしれない。
「お前は、どう思う?」
 問いかけた相手は、誰だろう。ティリアか。それともアケルか。彼の声を聞かなくなって、どれほど経つのだろう。
 袋から取り出した髪飾りに触れれば、聞こえる彼の歌声。アケルの声だとわかる。歌っているのもわかる。それでも、アケルの声だろうかと疑ってしまう。
「寂しいよ、アケル」
 手のひらにおいて呟いてみる。彼に届くだろうか、この声が。届いて欲しいと思う。届かないとも思う。いっそ、届いていなければいい。そう思う。
「責めちまいそうだ」
 聞こえているのならば、なぜ帰ってきてくれない。どうして側にいてくれない。そう責めてしまいそうな自分がいる。
「アケル――」
 背を覆わんばかりに伸びた髪をさばいて振り払う。アケルが見たら、何を言うだろうか。見てくれるのだろうか。見る機会はあるのだろうか。
 ラウルスはそっと首を振る。いつか必ず。そう信じていなければ、壊れてしまいそうだった。
 脆くなった髪飾りをそのまま使うことは憚られた。万が一にも壊してしまったら。彼との思い出まで壊れる、そんな気がした。
「なにやってるんだかな、俺は」
 ぐちぐちと情けないことばかり考えて考えて考え続けてどれほどか。いっそ笑えてしまう。笑えれば、楽になる。だから大きく声を上げて笑ってみる。空虚だった。
 ぎゅっと拳の中に髪飾りを握りこみ、ラウルスは大切そうに脇に置いた。荷物の中を掻き回せば、使い道のあるものが見つかるだろう。
 程よく育った木にもたれ、ラウルスは細工を始めた。手作業は、嫌いではなかった。思い出すのは、子供たちのこと。
「懐かしいな」
 二人の息子たちには遊び道具をよく作ってやったものだった。国王がそのようなものをと眉を顰めるものも確かにいたけれど、ラウルスはかまわなかった。
 三人の子と、妻と自分と。温かな家庭であったとラウルスは思う。膝の周りにまとわりつく子供たちの熱いほどの体温をいまもまざまざと思い出すことができる。
 息子たちに作ってやった木彫りの兵隊。兄と弟が競って奪い合っては遊んでいた。その横で娘が母と針仕事をしていた光景。忙しい責務の合間の、ほんのひと時。
「ティリア、覚えているか?」
 母に手伝ってもらってはじめて縫い上げた刺繍の花。少しばかりへしゃげた薔薇の花をたいそう誇らしげに見せにきたその笑顔。
 ラウルスは、それを小さな木枠にはめて、革紐を組んでは髪飾りに作ってやった。あのときの笑顔も瞼に新しい。
「あれ、どうしたんだ。お前は?」
 幼いころにはお気に入りだった髪飾り。さすがに刺繍の手が上がってからは使うこともなくなっていた。けれど捨ててしまったなど思いもしていない。きっとどこかに大切にしまっていたのだろう、あの娘は。そして、ハイドリン城の崩壊と共に、壊れて消えた。
「なぁ、ティリア」
 何を問いたかったのだろうか。ラウルスはアケルの髪飾りを眼前に掲げた。ティリアに作ってやったように、革紐を通した髪飾り。
「留め金が、もうだめになっちまったな」
 緩んで使い物にならなくなっている。細工師の手に任せれば、再び使えるようにはなるだろう。だが触らせる気にはなれなかった。
「借りるぞ、アケル」
 残りの革紐で、高々と髪をくくった。久しぶりにそれだけでもさっぱりとする。これだけでも、いいような気がしてきたけれど、せっかく直したのだから、と髪飾りを紐の上から留めた。
「アケル――」
 すぐ側で、アケルが歌っているような気がした。どこにもいない彼が、歌っているような気がした。
「どこにいるんだ、お前は」
 歩いても歩いても、アケルはいなかった。すぐ後ろにいるような気がして、振り返ってもいなかった。ラウルスは、留めたばかりの髪飾りに指先で触れてみる。アケルに触れるように。
「なぁ。アケル。お前、なんて言うかな」
 馬の尻尾じゃあるまいし。そんな風に笑われるような気がした。ラウルスは髪をなびかせ立ち上がる。背中に、首に。当たる髪の束に、アケルを思い起こす。
「お前の髪、これくらいだったよな」
 長い燃えるようなアケルの髪。いつもは単純にひとつに結んだだけのその髪を、解けば深紅の滝のよう。柔らかなその手触りを、忘れてはいない自分の指先を見つめる。
「お前のことを、思い出せなくなるのかもしれない。そう思う自分が、俺は怖いよ」
 どれほど待っていられるだろう。いつまでもだ、と即座に言う。けれど、いつまで彼のすべてを覚えていられるだろう。声も仕種も笑い方も。髪の手触り、肌の滑らかさ。何一つ忘れたくはないのに、覚えていられるかわからない不安。
「アケル……」
 ラウルスは歩き出す。どこに行くつもりもない。しばらくはこの地に留まるつもりだった。竜たちを眺めて、少しは呆けていたい。
「ずっと、だな」
 アケルが去って以来、まともであった自分と言うものを思い出せない。それを言うなら、元々おかしい自分しかいない。
「それでもいいって、言ってくれたのにな」
 何一つ思い出せなくなっても、決して忘れないだろうもの。アケルを殴った拳の痛み。ラウルスは竜たちに歩み寄る。少し、数が減った気がする。アケルはそうなればいい、かつて言っていた。いずれ好きなところに移住するだろう。繁殖もするだろう。そうなったときこそ、彼らがこの世界に馴染んだ証だと。
 いつか初めての竜の子を見ることがあるのだろうか。そのときはアケルとともにあれればいい。ラウルスは願う。
 世界中を二人で歩いた。けれど新しいものがいくらでもある。見ていないものがまだまだある。変わっていくもの、変わらないもの。二人で共に見て行きたかったものを。
「壊したのは、俺だがな」
 文句も言えない。ラウルスは小さく自嘲の笑いを漏らす。竜たちは、ラウルスの存在など我関せずとばかり遊んでいた。
「思い出ばかり」
 そこにある。確かなものはなにもない。否、ひとつだけ。この髪飾り。アケルの、おそらくは彼が歌っているのであろう歌だけが、ここにある確かなもの。
 ヘルムカヤールの名残の思い出と共に、ラウルスは夜を迎え、朝を待つ。夜明けの曙光に、アケルを思う。世界が喜び歌うその歌というものを、聞いてみたかった。
 狩りをして、小さな焚き火を作る。水を汲んできて、野営をする。
「野営と言うより生活だな、ここまで来ると」
 それなのに、差し掛け小屋ひとつ作らなかった。ここは人間が住むべき場所ではない、ヘルムカヤールの思い出の場所。
 朝を迎え、夜が来たり。思い出の竜たちが、色とりどりに空を舞う。仄かなぬくもりのある湖で水浴をすれば、なぜか竜たちが集まってくる。それにももう慣れた。
「それでも――」
 寂しいよ、アケル。続けようとした言葉は飲まれた。急激に振り返ったラウルスの眼差しの先、人影が。短い髪を煩わしげにかきあげ、人影は歩み寄る。




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