どこへ、とも決めずにさまよい歩いた。いったいどこにアケルがいるものか見当もつかないのだから致し方ない。
 一人きりの道は、切なかった。常に傍らにあった彼がいない。それだけでこんなにも世界が空虚だ。
「まったく――」
 ラウルスは空を見上げて呟く。美しく晴れ上がった空だった。それなのに彼の目に太陽はない。心地良い風が吹く。それなのに彼の肌には感じない。水の流れ、小鳥のさえずり、すべてがなにもない。
「こんなにも」
 アケルがいない。それだけで世界が死に絶えたようだった。ラウルスにとって、それが真実。それを思っては小さな苦笑が彼の唇に浮かんでは消える。
「情けないな」
 決して本人に言えはしない。なんてみっともない男だと思われるのが落ちだろう。ラウルスは己の拳を見つめ、目をそらさない。アケルを殴りつけたその拳を。
 三年が経ち、五年が経つ。それでもアケルは戻らない。どこにいるのか、と考えることさえ無駄なのだろう。
「いずれ」
 戻る気になれば、帰ってくる。そう思う。あるいは、願う。どこかで信じては、いた。必ず帰ってくると。だが。
「俺で、いいのか……?」
 いったいどこから来る確信か。我ながら不可解だった。あのまま去って二度と再び会うことはない。アケルがそう思っていたとしても当然だという気がする。
 それだけのことをした。拳に幻の痛み。年月を経ようとも忘れることはない、忘れてしまってはいけない痛みを思う。
「アケル――」
 時折、呼んだ。声に出して呼べば、どこにいても彼は聞き分けることだろう。ハイドリンの城での混沌との決戦を思う。
 あの時アケルは呼べと言った。思えと言った。必ず駆けつけるから。そう言った。だからいまも、聞こえているのかもしれない。
「だったら――」
 なぜ戻らない。帰ってこない。時々、責めたくなる。だから帰らないのだと、思う。自業自得で、アケルに怒る筋合いではない。それを心底理解したとき、彼は帰ってくるだろうか。
「寂しいよ、アケル」
 いつも彼に触れていた左腕。歩きながらも戯れかかったそこにアケルがいない。気づけば彼の肩先に触れようと動いていた腕が、何度空を掴んだことだろう。
「俺には、お似合いかな」
 自嘲する。アケルを失ってしまったのならば、掴むものなどなにもない。長い溜息など、おこがましい。ラウルスは溜息すらもこらえて歩き続ける。
「どこに」
 行こうか。あてなどない。シーラにだけは、戻るまいと思う。あそこに戻れば、ティリアを思ってしまう。
「違うか」
 アケルアケルと思いつつ、それでも脳裏から去らない面影。ティリア、我が娘。ラウルスの瞼の裏、失ってしまった娘が笑っていた。
 気づけば足はハイドリンに向かっていた。それならばそれでいい。そんな風にラウルスは思う。好きではない場所だ。だが目をそむける場所ならばあえて向かいたい、いまは。
 何年経っても、ティリアが死んでしまったことが理解できなかった。質の悪い冗談のようで、今でもひょっこりと現れそうな気がする。驚いたかしら、お父様。そんなことを言いつつ笑って。
「ない、か……」
 ティリアにとっての父は、とっくに死んでしまっている。あの大異変の日、ティリアの父は死んだ。彼女にとってはそれが真実だろう。
 それでもずっと見守ってきた。たとえ忘れ去られようとも、娘が幸福であるのならばそれでよし。そう思ってきた。
 ティリアが愛する男と結ばれた日を思う。長く愛し続けてきたメレザンドを新たな王家に迎えた日。シャルマークの光輝より増した日。
「見たかったなぁ」
 すぐ側で、花嫁の姿を見たかった。父として娘の結婚を祝福してやりたかった。確かに妖精の女王の助力と言うべきかお節介と言うべきか、式典に参加はできたが、それも吟遊詩人の介添えとして。父としてではなかった。
「そのときには、ぶん殴ってやろうと思ってたのになぁ」
 ラウルスの夢だった。いずれ遠くないうちに娘がメレザンドに嫁すとはわかっていた。それがティリアの望みであったし、メレザンドの夢でもあった。
 だから婚儀の前、メレザンドと二人きりになったそのときには一度くらい殴ってやろうと思っていたものを。最愛の娘を奪っていく男に男親ができることといえばそれくらいしかない。
「いい奴すぎて」
 それもできなかったが。ラウルスは思い出す。何度となく機会は狙ってはいたのだけれど、ついに訪れなかった。そのうちに混沌の侵略。それどころではなくなってしまった。
「いま――」
 メレザンドはどうしていることだろうか。はじめて、数年が経ってはじめてラウルスは思い至る。親の自分より、嘆いていることだろう。
「馬鹿だな、俺は」
 メレザンドの悲哀に思いを寄せることもなかった自分。アケルの心を汲むこともなかった自分。いま一人でいるのは当然だった。
 メレザンドは、どうしていることだろうか。自分のほうが確実に先に逝くと思っていたはずの男は、最愛の妻を亡くして、どうしていることだろう。
「それでも――」
 メレザンドには、子がいる。ティリアが生んだ子がいる。孫もいる。ティリアの面影に囲まれて、嘆きはいや増しに増すのか、それとも。
「ティリア」
 空に向かって呼んでみた。答えるはずのない娘を呼ぶ虚しさ。心のどこかが、ティリアの死を理解する。永久の安らぎを得た娘を理解する。
「ずるいぞ、お前――」
 王冠の責務は、頭上に得たものにしかわからない。昔、彼女はよく言っていたものだった。少しは休め、多少は手を抜けと。
「お前は、どうだった?」
 シャルマークの王家を建て、休むことはできたのか。臣下に任せ切りにできたのか。
「できなかっただろう?」
 そのときようやく娘は父を理解したのかもしれない。すでに彼女の中では死んでいた父を。
「お互い、遠くなっちまったな、ティリア」
 もしも魂と言うものが本当にあるのならば、今頃ティリアは大笑いをしているかもしれない、ラウルスはそう思う。
 お互いに会うこともできなくなってしまって、死んだもの、忘れられたもの、そう思ってきた父と娘。魂は、それを知って何を思うのだろう。やはり、笑うだろうとラウルスは思う。
「それとも、怒っているか、ティリア?」
 アケルにした仕打ちを。あのころにも言っていた、彼女の言葉を思い出す。
「恋愛が下手だって、馬鹿にされたよなぁ」
 父に対する苦言としては破格だろう。そういう娘だった。アケルの傍若無人すら笑って許す娘だった。
「頼っていたのは、俺かな」
 王妃亡き後、娘と言いつつ頼りにしていた。ふとそう思う。可愛いだけの娘ではなかった。愛しいだけの娘でもなかった。強く頼もしい王家の娘。
「あれこそ、アルハイドの華だな」
 自分は最後の国王などと持ち上げられてはいるけれど、ティリアこそアルハイド王家の精髄だったとラウルスは思う。長く続いた王家の最良の部分だけでできたような娘。
「それなのに――」
 なぜ死んだ。思いは常にそこへと返っていく。なぜだ、どうしてだ。問いに答えはない。人間、生まれれば死ぬもの。誰に問うてもそう返ってくる答え。けれど。
「若くして死ぬやつもいる。それは、わかっちゃいるけどな」
 だがしかし、なぜティリアだったのか。そう思うのは親ゆえに。ラウルスはそっと息を漏らす。王妃の死にも、そうは思った。なぜ若くして死んだと。
 それでもこれほど惑いはしなかったものを。妻と娘と、これほどまでに違うものか。そう問えばメレザンドは烈火のごとく怒るだろうか。
「ティリア」
 メレザンドにならば、この気持ちがわかるだろうか。わかられたいような、わかられたくないような気がする。否、誰にもわからないと思う。
 ラウルスは見上げた。ハイドリンの神人の城の先端が、見え始めている。三叉宮と呼ばれるようになったその城は、繊細優美にして夢のごとく。人間には思いもよらない建材で、想像もできない方法で建てられていることだけが、理解できるその城。
「ティリア」
 混沌との決戦時、混沌の化身と化したスキエントに捕らえられたティリアを思う。あのとき混沌はなぜ息子ではなく娘を捕らえた。理由など知れている。
「すまんな」
 ラウルスの眼差しだけが振り返る。背中には、ラクルーサがある。ミルテシアがある。息子たちの治める国がある。
 あの日のティリアの決意を思い出すだけで、ラウルスは涙が出そうだった。国王として、ティリアの言葉はなにもまして誇らしかった。父として、だからこそ救いたかった。
 近づきたくはない三叉宮を見上げ、ラウルスは息を吐く。その息が、凍った。
「……アケル」
 不意に思い出した事実。自分はアケルに何を言ったか。
「お前に、わかるわけはない、そう、言ったな。俺は」
 結婚したこともない、子供を持ったこともないお前にこの痛みがわかるか。そう自分は確かに言った。ハイドリンに立ち、ラウルスは思い出す。
 あの日、アケルはすべてを見た、あるいは聞いた。その目で、その耳で、アケルは世界中の人々の断末魔を聞いた。自分の両親の最期の声も。
「馬鹿か、俺は」
 アケルにティリアを失った痛みがわからないというのならば、自分にはアケルが両親を失った痛みはわからない。本当にそうか、と思う。違う、ラウルスはそっと首を振る。チェーロとテイラを失った痛みはここにもある。ラウルスはそっと胸に手をあてる。ならばアケルだとて。
「ましてお前は」
 この世界を歌う者。痛みが聞こえなかったはずもない。殊にラウルスの痛みならば。
「わからない、と言う俺こそ、わかってなかったな――」
 ティリアの死に、アケルが受けた衝撃はどれほど強かったことだろう。仲のよかった二人だから。それ以上に、愛した男の娘だから。ラウルスの痛みをアケルはその耳で聞いたことだろう。彼の痛みではなく、自分の痛みとして。
「アケル――」
 呼んだはずの声が、出なかった。




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