サティーにたかられて、アケルは思い切り渋面を作ったままだった。それがどれほど難しいことか知っているのはおそらくラウルスだけだろう、と思えば更に顔は渋くなる。
 リュートをかき鳴らせば苛立ちの音。自分でそれが聞こえてしまうものだから、よりいっそう募るだけ。
「うふふ、綺麗ね」
 サティーたちに、この音は聞こえないのだろう。紛れもなく素晴らしい音楽にしか聞こえていない。それに胸が詰まった。
 世界の歌が聞こえていなくとも、自分の本当の音を聞き知っていてくれたラウルス。彼の悲しみを癒すために何ができただろう。彼を悲しませないために何ができただろう。
 なにもできなかった。アケルは自らを知っている。歌が聞こえようとも、できないものはできない。それでも何かができたはず、そう思ってしまうのは人間だからかもしれない。
「スキエントを、嗤えない――」
 溜息をつく。混沌の化身と化したスキエントに同情する気はまったくない。それでも少しだけ、思う。自分に何かができるはず、彼もまたそう思ったのかもしれないと。たとえそれがよからぬ動機であったとしても。
「なにもできないって、認めるのはつらいね」
 リュートに向かって語りかけるのは、話し相手がいないせい。サティーたちはいるけれど、会話の相手としては物足りない。遊び相手にならば充分なってくれるのだけれど。
 爪弾くリュートの音色。あわせて踊るサティーたち。アケルは何日がすぎたのかもわからない。ラウルスはどうしているのだろうか。食べているのだろうか。死んではいないはずではあるけれど。
 思いが巡って、苛立ちは募るばかり。不意に、音を聞きつけた。いまだ過敏になっている、そんな自分を笑ってアケルは背後を振り返る。
「ようやくのお出ましですか、女王」
 むっとした声も隠さずそう告げれば、妖精の女王メイブがそこに立っていた。甘い夜明けの紫の衣装が風にはためきまとわりつく。それは彼女自身の心の動きのように。
「苛立っていますね、世界の歌い手」
 ふわりと風のようメイブがその場に腰を下ろす。見ればすんでのところでサティーが敷物を滑り込ませて笑っていた。草地にのめったままのサティーの頭をメイブは撫でる。それだけでくつくつとした笑い声が周囲から上がる。
「苛立たない理由がありますか!?」
「あら?」
「人を勝手に攫ってきて、その上放り出しっぱなし! サティーたちは遊んでくれるけど、説明はしてくれない! 僕をラウルスのところに帰してください!」
 メイブはアケルの声を聞き流し、サティーたちが持ってきたらしい飲み物を口にしている。あるいは、人間の目には映らない妖精が手渡したものなのかもしれない。
「ずいぶんな言われようですね、世界の歌い手」
 わずかに気分を害したかのようなメイブの声。アケルは鼻で笑って、耳がいいと言うのはこういうときに役に立つ、そんなことを思う。
「王の心はあなたから離れていると言うのに、あちらに帰ってどうすると言うのですか」
 メイブの唇から、花の香りがした。飲み物の匂いとわかっていても心が騒ぐ。またメイブも人間の男の心を乱すとわかっていてしている節がある。聞き取ったアケルはだから平静だった。
「あれは――」
 怒りゆえのこと。悲しみがさせたこと。癒えることのない痛みでも、時間がそれを少しは軽くしてくれる。
「僕は、それを待っていただけです!」
「確信があるのですか、王の心が戻るという」
「ありますよ! 当たり前じゃないですか!」
 言い放ち、アケルはぞっとする。自分の声にあったためらいに。本当か。自らそれを疑っているようでは、彼の心など戻りはしない。
「……わかりません、本当は。でも、信じています」
「なぜですか。愛しているから、などと言うのは理由になりませんよ。古来、人間の口から何度その言葉が吐かれたことでしょう。そしてその末路は?」
 笑顔で言われてしまっては人間の立場がない、アケルは思うけれど事実だとも思う。愛を誓い、そして破った人間のなんと多いことか。アケルは自らの心の内を見つめる。
「……そうですね、それはたぶん、こういうことです」
 再びためらい、背中にいつもあった気配を探したくなってしまう。聞き慣れない音の充溢する異世界。一人であることを強く感じた。
「僕は、一人じゃない。僕は僕であると同時に、僕じゃない」
 わかりますか、そう見つめてくるアケルの目からメイブは目をそらさなかった。
「僕は僕です。それはそれで間違いはない。でも、僕はラウルスでもある。ラウルスが僕であるのと同じように」
 個としての自分はここにある。ラウルスはあちらにいる。それは正しい。けれど、アケルは感じている。聞こえている、のほうが正しいかもしれない。
 自分の中に聞こえている、自分ではない音楽。ラウルスの音色。聞きたい音を聞いているのではなく、魂の内側から響いてくるその音が、ラウルスの存在を物語る。
「僕らは、二人で一人です。一人ずつ在りながら、一人ずつでは欠けたところがある。僕は彼がいないと、欠陥だらけです。ラウルスも、同じです。もっとも、二人揃ったからと言って完全無欠にならないのが人間らしいところでもある、そう僕は思ってますけどね」
 肩をすくめたアケルに、メイブは破顔した。そのあまりの笑顔にアケルは知らず仰け反って動揺を隠せない。あまりにも、見事な笑みだった。
「えぇ、そうなのでしょうね。素晴らしいわ。ですがアクィリフェル」
 笑みを浮かべたままのメイブの表情。それが一変する。笑みだけはそこにありつつ。
「それがわかっていると言うのに、いまあちらに戻りたがるのは、自ら死を求める行為ですよ。わかっているのですか」
 切り込んでくるメイブの声にアケルは真実、切られたかと思ったほど。首筋を撫でれば、冷たい汗が滲んでいた。
「聞こえていますね、アクィリフェル?」
 メイブの問いの深い意味が今のアケルにはよくわかる。メイブは問う。いまこの瞬間、自分の心がわかるのかと。その心の声が聞こえているのかと。だからアケルはうなずく。
「なぜですか、世界の歌い手。あなたは向こうの世界の代弁者。そして人間である以上、わたくしの声が明確には聞こえないはずです」
「でも――」
「いまあなたは、この世界の歌すら聞こえている、違いますか」
 ぞっとした。心の底からアケルはぞっとして震えた。メイブは切りつける声音のまま、だから続ける。それを避ける術もないと言うのに。
「あなたの言うとおりですよ、アクィリフェル。あなたは、一人では正気を保てない。世界の歌に押し潰されて、気が違いましょう。王の心が傍らにあってこそ」
「あ――」
「その王の心が離れたいま、あなたはあちらにいては正気をなくすだけです。あなたにとって王は、世界でただひとつの碇のようなもの。あなたを繋ぎとめる碇のほうがさまよい出てしまったのですもの。ですからわたくしが保護を買って出ました」
 ふん、と鼻を鳴らしてメイブが言う。アケルはその真意すら聞こえる耳がいま恐ろしい。自分の体が、心が、魂までもが崩れ果てていくかの錯覚。かつて混沌と戦ったとき、ティリアの死にシャルマークへ急行したとき。世界の絶叫にさらされる自分がただ一つ見つけられるもの。ラウルス。彼の心が側にない今、アケルの体に音が渦巻く。
「恐れることはありませんよ、世界の歌い手」
「でも、女王! だったら僕は――。それより彼は!」
「ご自分で言ったではありませんか。あなたは彼で彼はあなたです。あなたの心がしっかりしていれば、いずれ王も正気に戻ります。それとも、あなたはアウデンティース王を見捨てますか」
 その瞬間、アケルは腰の短剣を抜き放っていた。メイブの喉元に手も見せぬ早業で突きつければ、瞬きする暇すらなく周囲を妖精に囲まれている。それでもアケルは剣を引かなかった。
「なんと仰いました、女王?」
 にっこりと笑顔で言うアケルに、メイブはそのままうっとりと笑って見せる。妖精たちの気配が退いた。
「女王。僕は、人間です。いささか特殊な呪詛を受けたらしいですけど、ただの人間です。ですから、できないことがあります。色々ありますけど、絶対にできないことのひとつ、なんだと思いますか」
「さぁ、何かしら?」
「自分自身を捨てること、ですよ」
 鼻で笑って剣を引いた。メイブの他愛ない冗談だったとわかっていてすら反応してしまった自分をアケルは聞く。メイブの声なき謝罪さえ聞く。だからこそ、剣を引く。
「腕がよろしいのね」
「短剣ですか? 馬鹿なことを仰せにならないでください。これは僕にとっては第二の武器。予備ですよ、予備」
 褒められるほどの腕ではない、アケルは嘯くが、ラウルスがこの場にいたら盛大に罵ったことだろう。もっとも、アケルとしては弓の腕のほうにこそ自負があるのだが。
「――女王。ラウルスは、どうしていますか」
 その弓を手に取ることなく、アケルはそっとリュートを撫でていた。
「おわかりになるのではなくて? もちろん元気ではありませんよ。ですが、死んでもいません」
「女王――」
「苛立っていますね、世界の歌い手」
「苛立たせているのはあなたです!」
 かつてのアケルならば、禁断の山の狩人であったころならば、メイブに向かってこのような物言い、決してできはしなかった。それをメイブは知っているのかもしれない。密やかな笑みの向こうにかすかな悲哀。
「あなたは、あの世界の代弁者。世界の歌が聞こえないところではさぞ居心地が悪いことでしょう」
「あ――」
「それすらわかっていませんでしたか? アクィリフェル。冷静におなりなさい。あちらの世界の歌の届かないこの地は、安全でもありますけれど、苛立たしくもあるでしょう。けれど、お耐えなさい。あなたがたは二人で一人。えぇ。正しくそのとおり。あなたが苛立てば苛立つだけ、王の回復も遅くなる、そうお思いなさい」
「ラウルスは――」
 けれど一人だ。あの状況で、彼は一人だ。シャルマークの路地裏で、意気をなくした彼の姿を思う。
「あまり、甘やかすものではなくてよ」
 からりと笑って女王は立ち上がる。冗談だったのかもしれない、真意だったのかもしれない。どちらとも聞き分けられなくて、どちらも正解だったのだとアケルは気づく。
「女王! お願いが!」
 アケルの請願に耳を傾けた女王。歌うアケル。だからアケルの髪飾りは彼の手に、彼の指輪はアケルの元にある。添えない身の代りに、せめて歌だけでも彼の傍らに。




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