自分の唇が、うそだろう。そう呟くのをラウルスは聞いた気がした。目の前にある髪飾りが信じがたい。 ――返しに来たのか。 不意にそう思った。もう二度と会わない。アケルの意思表示にも思え、知らず体が震える。当然だ、とも思った。 今更、そう思う。自分は彼になにをしたのか。抵抗もやめた、否、はじめからしなかったアケルを何度となく蹴りつけたのは誰か。 「……アケル」 手を伸ばして髪飾りに触れかけ、幾度となくためらう。触れてしまっては本当に二度とアケルに会えない、彼との離別を自ら受け入れる、そんな気がした。 静かだった。酷く静かだった。王都の喧騒が耳に届いてはいる。それなのに、とてつもなく静かだった。 ティリアの死を、人々はすでに済んだもの、そう見做しているのか。思えばラウルスはたまらなくなる。 「まだ――」 ほんの娘だった。ラウルスの、父としての目は彼女をそう思う。まだまだこれからたくさんの年月が彼女の前に開けているはずだったものを。 ぎゅっと手を握りこめば、なにもない手がそこにある。彼から贈られた真鍮の指輪をはめることはほとんどなくなっていた。それなのにいま、ここに空虚がある。 「アケル」 囁いて、けれどティリアを思う。思うはずが、再びアケルへと戻る。腰の小袋に、あの指輪はもうない。贈った指輪さえ取り返して、アケルはいなくなってしまった。 大事にしていた。だからこそ、はめなかった。安い玩具のような質の悪い真鍮だった。年月を経るうちにずいぶんと脆くなっていた。壊してしまうことを恐れて、大切にしまっていたものを。 「今更、か……」 物を大切にするくらいならばなぜアケルを殴った。自分の愚かさに、涙も出ない。 アケルがティリアを見殺しにするはずなどない。わかっていることをなぜあれほど執拗に。 昔、アケルと冗談めかして言い合った。互いに駄目な男だと。駄目さ加減が似たもの同士で、似合いだと。 「俺のほうが、ずっと」 あの頃から思ってはいた。アケルの愛を失うくらいならば憎まれていたい。そう思ったのは誰か。憎ませたいがゆえに、惨く扱ったのは誰か。 「それでも」 ついてきてくれた。許してくれた。こんな死ねもしない運命に、巻き込んでしまったのに、付き合うと言ってくれた。 ラウルスはじっと己の手を見る。聖域で、黒き御使いに剣を授けられた瞬間を。魔王の剣のその柄にアケルとともに触れたあの瞬間を。あの時の彼の泣き笑いのような顔を。 アケルはいない。ティリアも死んだ。見知っていたすべての人々がもういない。ラウルスはたった一人、音のない世界にいた。 「アケル――」 呼んでも返ることのない声を聞いていた。耳の中、彼の声が残っている。それを聞いていた。静かで、静かで、たまらなく静かで。だからかもしれない。ラウルスが髪飾りを手に取ったのは。 「あ――」 音が、戻った。そうではない、ラウルスは首を振る。呆然と、ただ耳を澄ます。聞こえた。聞こえない、アケルの歌が聞こえた。 「狂ったか……?」 自分の耳が信じがたくて、髪飾りから手を離せば、音は途絶える。嘘でも冗談でもないらしい。そう思ったとき、ラウルスは復調を果たしたと言える。 「アケル?」 どこかで歌うアケルの声が聞こえた。歌ではない、声でもないアケルの歌。常に身近に聞こえていた、聞こえない彼の歌。 「俺は――。こんな」 歌に包まれていたのか。知りもしなかった。ラウルスの目から涙がこぼれる。髪飾りに一粒、二粒と。そのたびに歌声はきらきらと輝いた。 「どこにいる、アケル」 去ってしまった。一度はそう思った。それが確かなことだと自分で納得もした。自らの所業を思えばこそ。 だがこの髪飾り。アケルが置いていった彼の歌。いまは側にいることがかなわないのならば、せめて歌だけでも置いていく。アケルの語りかける声が聞こえた気がした。 「だから、か……?」 指輪を持って行ったのは。離別の証ではなく、再会の日のために。アケルもいま、指輪を眺めているのだろうか。ラウルスは髪飾りを手の中、握りこむ。尖った飾りが掌を刺したその痛み。 「痛かったよな」 こんなものではなかったはず。心を捧げた男に殴られ蹴られたアケルを思う。どれほど痛かったことだろうか。体よりも心が。 「せめて、殴られんと気が済まん」 ラウルスは立ち上がる。ティリアの死を知った日以来、初めてだった、彼が意思を取り戻したのは。髪飾りを握りこんだまま、その拳にくちづける。 「どこにいる、アケル?」 指輪のよう、しまえば、歌が消えてしまうかもしれない。よけいな懸念だった。ラウルスの耳は、感じない歌を聞いていた。 「とことん馬鹿だな、俺は」 ずっと耳にしていたからこそ、聞こえなかったアケルの歌。当たり前にありすぎて、わからなくなっていたその歌。 「捜すか」 どこにいるのかなど、知れたものではない。もしかしたら自分のすぐ後ろにいるのかもしれない。遠い別世界にいる可能性だとてアケルの場合は否定できない。それでも。 「許すなよ、俺を。それでも会いたい俺を、許すなよ」 どの面下げてアケルの前に顔を出せるのか。ラウルスの唇が皮肉に歪む。自らを取り戻し、ラウルスはすでに理解している。 アケルが後を追わせたいと思ってはいないことを。それでも二度と会わないつもりなどないことを。いまだ、愛されてすらいることを。 「こんな馬鹿のどこがいいんだかな。お前は」 自分に向かって手を上げた最低の男をなぜアケルは思ってくれるのか。もしも自分が彼の立場にあったのならば。 「まぁ、許すよな、当然」 うなずいてしまって、ラウルスは苦笑する。アケルにならば何度殴られようが気になどなるものか。だが彼は、痛かっただろうと思う。その気持ちまでは忘れたくはない。 「ティリア。別れの挨拶はいずれする」 王城に向かってラウルスは呟く。新たな王家の墓地に葬られた娘を背に、ラウルスはそうしてシャルマークの城を後にした。 ある意味では、ラウルスの想像はあってもいた。アケルは思い切り不機嫌だった。体の痛みなどとっくになくなっている。心など、はじめから痛くもない。ラウルスを思う、その心の痛みを別にするのならば。 「うふふ。赤毛のお友達? ちょっと元気になった?」 「なるわけないじゃないか」 「いやん、元気になってなの。つまんないの!」 「僕の知ったことじゃない!」 「元気出して、元気出して、ね? 赤毛のお客様? ピーノとキノのお友達? きっと平気、きっと平気。だから、ね?」 「なにがどう平気なんだか説明してよ、誰か!」 アケルは、新たなる妖精郷、幻魔界にいた。無論、自分の意思ではない。ほとんど攫われたようなものだった、とアケルは思う。否、ほとんど、ではない。完全に誘拐だ、と憤然と周囲にたかったサティー族を見回す。そもそもサティーたち魔族がなぜ幻魔界にいる、と思わなくもなかったけれど、説明が先だとも思う。 ティリアの死にラウルスが惑乱し去ってから、アケルは着かず離れず彼を見守っていた。ただ、見守ることしかできはしなかったけれど。それでも離れる気など毛頭なかった。 衰弱して行く彼に、食べ物を運んだのもアケルだった。とりあえずは死なないらしいけれど、食べなくとも死なないのかどうかまではアケルも知らない。もっとも、そんなことは考えもしなかったけれど。 食べ物を差し出して、素直に食べるとも思えなかった。アケルは心の柔らかい部分を見捨てて、歌う。ラウルスの心に歌いかける。歌が届いたとき、ラウルスはなにも見ていなかった。なにも感じていなかった。 シャルマークに急いだときの馬と同じように。アケルは唇を何度となく噛み破りながら、ラウルスに一口ずつ食べさせた。水を飲ませた。眠らせて、そっとその場を離れた。そしてまた見守る日々。 それが突如として破られたのは、ある日の夕刻。食べ物を手に入れようと王都で歌い歩くアケルに人々がわずかな金銭を投げ与えてくれる。もう少しで安い葡萄酒くらいならば手に入れられるかもしれない、そう思ったとき、夕陽がひどく綺麗だった。 真っ赤な太陽が、世界中を夕陽の色に染め替える。道行く人々も、アケルの姿も赤かった。自分の歌声すらも赤く染まった。 ――綺麗だな。 単にアケルはそう思っただけだったものを。一歩踏み出し、間違いを知る。誘われて歩き出し、間違っているとわかっているのに戻れなかった。 周囲に物音がする。くすくすと笑う声。楽しげな足音。彼らにだけ聞こえる音楽に合わせて舞い踊る、その足音。 「ピーノ、キノ! 僕に何してくれたわけ!?」 姿も見えないのにアケルは怒鳴る。見えなくとも、サティーの気配を聞いていた。そしてここがすでに幻魔界であることも。 「残念、残念だね。お客様? ピーノとキノじゃないの。パーンなの。残念残念、だね?」 ひょこり、とパーンが顔を出す。アケルは唇を噛んで立ち尽くす。いやな感じだった。ピーノとキノならば悪戯で済まされることであっても、パーンは違う。彼は黒き御使いに仕えるもの。 「これは、黒き御使いの意思ってことなのか」 「違う違う! そんなわけないのなの! ちょっとメイブ様の手伝いをしただけ。それだけよ?」 くっくと笑いパーンは踊りつつ歩いていく。夕陽の赤の中に溶け込んでしまいそうだった。そして振り返る。 「こないの? こないと大変なの。メイブ様、待ってるの、待ってるのよ?」 アケルは腹を括った。どうせ背後を振り返っても、いままで通ってきた王都の街路は残ってなどいまい。思いつつ振り返り当然そこにあるべきものを見る。異界の夕暮れだった。 「腹立つなぁ、もう!」 妖精の女王メイブが自分に用があるというならば、さっさと済ませるまで。それまで。 ――待っていてください、ラウルス。すぐに帰りますから。 心で呟き、ほんの少し寂しかった。あの日に離れてしまった彼の心。戻ることはあるのだろうか。待っていてなど、くれるのだろうか。ラウルス。呟いたアケルの声は誰にも届かなかった。 |