シャルマークの王都シーラは森閑としていた。いつもならばうるさいほどに聞こえる物売りの声も、どこにでも出没する大道芸人の声もない。どの扉もひっそりと閉ざされ、道行く人も足早に顔を伏せて歩く。 アケルは自分の鼓動が遅くなっていくのを感じていた。ラウルスは動悸の激しさに息もできなくなりつつあった。 「あぁ……」 そして王城にひるがえる弔旗。アケルは今にして世界の歌を完全に聞き取る。シャルマークを襲った悲劇を。 「馬鹿な――」 ラウルスには聞こえない。しかし彼には知識がある。ひるがえる弔旗の高さ、位置。そして鳴り響く弔鐘の数。それらが語ることはただひとつ。 「ティリアが……」 嘘だろうと思う。そんなはずはないと思う。あの娘はまだ若い。母となり、孫がいようとも、王家直系の血を受けた彼女はまだ死の腕に抱かれる年齢ではない。それなのに。 「アケル。嘘だろう……?」 呆然と呟くラウルスに、言葉がなかった。王城前の広場に立ち尽くす彼を置き、アケルはそっと近くを通った人を捉まえた。 「もしや、女王様が……?」 アケルの耳は間違いなくティリアの死を聞いてはいたが、一介の吟遊詩人。そう問うしかないのがもどかしい。 「あぁ、そうだ」 沈鬱な王都の住人の表情に、ティリアの治世を思う。彼女はアウデンティースの愛子。三人の子の中で最も慈しんだ愛娘。それはなにも亡き王妃に似ていたからと言う理由だけではない。 ティリアこそ、アルハイド王国の未来を託すに足る娘、そう思っていたからこそ。しかし一度は王冠を彼女は拒んだ。いずれは弟のほうがより正しい王になる、そう言って。 ティリアの本当の望みは、ただ一人パセル・メレザンドと共にあること。二人きりで過ごし、子に恵まれて余生を送ること。それだけだったはず。 叶えられなかった願いをアケルは思う。メレザンドとは共にあった。子にも恵まれた。だが彼女は王冠の重責をも担った。 担わざるを得なかった。あの大異変を経てしまっては。 「なぜ、急に。いまだお若くていらっしゃるのに……」 もしや、と思う。王冠が彼女の命を縮めたのかと。アウデンティースですら重荷に感じてもいた責任。投げ出す気はなかったものの、相応しい人がいれば喜んで譲る、と壮年の男である彼でさえ言ったもの。若き女性であるティリアには、どれほどの苦労だったことか。 「いや、わからん。ご病気、と伺ったけれど。長く臥せっておいでだったわけではないし……」 そう言って男は王城を見上げた。その目には確かにティリアへの敬愛があった。一介の庶民である男に、彼女を目にする機会はなかっただろう。それでも彼女は間違いなく人々から愛されていた。その思いに、アケルの目に涙が滲み出す。 「急な、ことだったんですね――」 「あぁ。みんな、どうしていいのか、わからないでいる。王太子様は立派な方だが、女王様がこんなに早くお亡くなりになるなんて……」 誰も思っていなかったのだ、そう男は言った。アケルは黙って目礼し、引き止めてしまった詫びに代えた。 鬱々と沈んで歩く男の背を見送り、ラウルスの元へと戻れば、彼はじっと王城を見上げたままだった。 「ラウルス……」 何をどう言っていいのか、わからない。言うべき言葉も、なにも見つからない。ラウルスはアケルを見ず、城を見ていた。娘を見ていた。 「お城に――」 潜り込んでみましょうか。言いかけたとき、ラウルスの視線がアケルを捉える。ぞっとした。思わず下がりかけた足を叱咤して留まる。 「城に? 行ってどうする」 「ご葬儀に、吟遊詩人がつくのはよくあることです。治世を懐かしんでその業績を歌うのは。だから」 せめて、亡き人を送ることはできるかもしれない。人知れず、我が娘と名乗り出ることもできずにではあったとしても。 アケルの頬が高らかと鳴った。 「ティリアが死んだ? そんなわけがあるか! 聞け、アケル。どうなんだ」 アケルの頬を殴った手も振りぬいたまま、ラウルスは言う。その言葉の静かさ。ゆえに激情。 アケルは言わなかった。もう聞こえているとは言えなかった。黙って痛む頬を押さえもせず、静かに広場の噴水の縁に腰を下ろしてリュートを構える。 誰にも見咎められなかった。アケルの音楽は、いまこの瞬間誰にも聞こえていない。アケルはただ、ティリアのために奏でていた。 「アケル!」 「――お亡くなりに、なっています」 「嘘をつけ! あれが死ぬような年か!」 「ご病気でも、まして何者かの手にかかったのでもない。ただ、お亡くなりに」 「そんな馬鹿な話があるか!? あれはまだほんの娘だ。俺の娘だ! まだ……死ぬような年じゃ、ないだろうが……」 ついに、ラウルスはその場に崩れ落ちた。アケルとて、信じがたい思いは同じ。はじめて会ったころのティリアを思う。お節介で我が儘で、明るく朗らかな王家の娘。煩わしいほどに世話を焼かれて、それでも彼女を信じた。ハイドリンを発つときに言ってくれたティリアの言葉をいまも覚えている。出かけるときには行ってきます、と言うものだと笑った彼女。おかえりなさいと迎えてくれた彼女。 「ティリアは……そんな、馬鹿な」 ラウルスを抱きかかえることもできなかった。伸ばした腕はすげなく拒まれた。アケルはただ、そこにいるしかできない自分を悔いる。 「王妃様の血では、ないと思います」 少なくとも、自分の耳はそう聞いている。ロサ・グローリア王妃は王家の人としてはずいぶんと早くに亡くなっている。直系ではないにしても、早すぎる死。ラウルスが疑念に囚われるより先、アケルはだから言うしかない。亡き王妃を恨んで欲しくはない、彼自身の魂のために。ために再び殴られようとも。 「だったらなぜだ! なぜティリアは死んだ!? ロサが――」 「早くに亡くなったから、御娘であられる姫様まで早世だって言うんですか!? それこそそんな馬鹿な話はないです。王妃様のお子でもあるけど、姫様はあなたの娘でもある。そうでしょう?」 「だったら……」 なぜ。言いかけた言葉がつまった。嗚咽に言葉が飲まれていく。うずくまり、誰の手も拒んで泣き崩れるラウルスに、かける言葉も歌う歌もない。 「ラウルス、行きましょう」 せめて葬儀には潜り込もう。ティリアへ、最後の歌を歌いに行こう。立ち上がるアケルの手を、またもラウルスは拒んだ。 「行くなら勝手に行け。俺は、行かん」 「ラウルス!」 「お前になにがわかる!?」 かっとして立ち上がった彼の目に燃えるもの。燃え上がるのに、凍りついた眼差し。 「お前に、なにがわかる。あれは俺の娘だ。お前になにがわかる。結婚したこともない、子供を持ったこともないお前に、俺のなにがわかる!」 アケルは顔色を変えもしなかった。変えることができるほど、余裕がなかった。ラウルスの言葉が心を貫いていく。 「わからないと思います、でも――」 「わかるわけがない! わかりもしないのに、したり顔で葬儀に出ろとはよく言ったもんだ!」 「ラウルス、聞い――」 「もうなにも聞かん。なぜだ。どうしてだ、アケル。どうしてお前にわからなかった。どうしてティリアの命がお前に聞こえなかった。そんなはずがあるのか。どうしてだ、アケル。どうして、ティリアを助けてくれなかった……!」 できるものならば助けている。そんなことを言ってなんの意味があるのだろう。ラウルスの言葉の剣が、アケルを切り裂いていく。それにすら気づかず彼は次々と言葉を放つ。アケルはただ、黙って聞いていた。 「どうしてティリアを見捨てた――!」 殴られた。何度目なのだろう、とぼんやりアケルは思う。気づけば広場の敷石の上、倒れ伏した自分がいる。空が、青かった。 「ティリアを見捨てたお前を、どうして捨てずにいられる?」 覗き込んでくるラウルスの黒々と翳った顔。見えなくてよかった、はじめてアケルはそう思う。 「去れ」 アクィリフェルの嫌いな王の声。たぶん、わざとなのだろうとアケルは理解する。痛む体を黙って引き上げれば、体中が軋みを上げた。 「僕だって、助けられるものなら、助けたかった……」 「もう、なにも聞こえない。聞きたくない」 「えぇ」 うなずいて、アケルは体を引きずって歩き出す。遠く離れてしまう気はなかった。こんなにされても、あれほど言われても。 「僕は、馬鹿かもしれない」 それでもラウルスを愛している。そう断言できる自分をアケルは笑う。嘲ったのかもしれない。 「遠く、なって行く……」 はじめて、アケルの顔色が変わった。ただひとつの光が、音が、遠のいていく。自分が離れていくのではなく、ラウルスの心が離れていく。 「たぶん」 いずれはわかってくれる。自分がどれほどティリアを敬慕していたのか知らないラウルスではないのだから。ティリアの死に、衝撃を受けているのはラウルス一人ではないと気づいてくれる。 「それまで」 どうしようか。呟くアケルの耳に、不意に。世界が歌った。密やかに、小さな声で。 「こんな風に慰めてくれるくらいなら……姫様の死を防ぐ手立てを教えて欲しかったのに……!」 一人きりのアケルを世界の歌が包み込む。傍らにいないラウルスを思う。離れて行ってしまった彼の心を思う。 世界すら、それを知っていた。だからこその小さな声。アケルの正気を揺るがせないような密かな声。気遣われる己がこんなにも煩わしい。 「ラウルス……」 助けてあげたいのに。慰めたいのに。あるいは、側にいて欲しいのに。歌だけが、誰にも聞こえない歌だけが、ひっそりとアケルを包んでいた。 ラウルスは何日も何日も広場に佇んでいた。ラクルーサ、ミルテシア両国の王の弔問の邪魔だと排除されるまで。 立ち上がる気力もなくして裏道に寝転がる。本当に、ティリアは死んでしまったらしい。葬儀も終わってしまった。目を閉じて、開ける。その繰り返し。 ある日――。目覚めたラウルスの目の前に、髪飾りがあった。真鍮のあの髪飾り。はっとして探す。アケルに贈られた指輪が、なくなっていた。 |