メディナまではあと一日ほど。明日の昼ごろにはカーソンの墓参ができるだろう。そんな余裕を持って歩いていたときだった。 世界が、震えた。 アケルは突如として崩れ落ちる。聞き取れないほど密やかで、とてつもない轟音。世界が発する音に圧倒された。 「アケル――!」 ラウルスの遠い呼び声。アケルはそれをどこかで聞いてはいた。聞いてはいたけれど。意識には残らなかった。 ただ世界の声を聞く。悲鳴のようだった。あってはならないことが起きた絶叫のようだった。 「アケル、おい! アケル!」 ラウルスに手を掴まれて、ようやくアケルは正気づく。いまがいつかここがどこかを思い出す。ラウルスを見上げた顔は紙よりも白く青ざめていた。 「どうした、アケル。何があった」 アケルが見せる久しぶりの恐怖の表情。ラウルスは思い出す、混沌を目の当たりにしたときの顔だと。アケルは黙って首を振る。そのあまりの激しさに、赤毛が彼自身を打った。 「違います。たぶん……混沌じゃない」 「だったら……」 「わかりませんよ、そんなこと!」 叫んでアケルは辺りを見回す。大異変直後には何もなかった場所だった。百年も経てば、可愛らしい森にもなる。いまだ大森林とは言えなかったけれど。 「――いた」 何かを見つけたのか。それとも聞いたのか。ラウルスは問わなかった。アケルの血走った目に事態の切迫を知る。 不意に、アケルが声を上げた。何かに呼びかけたような声。それなのに、まるで笛のよう。澄んだ指笛にも似た音があたり一帯に響き渡る。そしてその音が途絶えたとき、別の音が。 「なに!?」 ラウルスは怒涛を聞いた。それほどの凄まじい音。それなのに、現れたのはたった二頭の馬だった。 「余裕がないので。頼みました」 それだけを言い捨てて、アケルは野生馬を迎える。歌いかけては素早く手懐けてしまう。王宮の馬屋番が見たら卒倒しそうな景色だった。 「ラウルス、急いで!」 アケルはひらりと馬に飛び乗った。自分がそれをしても野生馬は許してくれるのだろうか。思いつつ馬の鬣に指を絡めてその背に乗れば、意外にも馬はおとなしいままだった。 「本当は、したくないんです、こんなこと!」 疾駆しはじめた馬の背にあってアケルは自分を罵っていた。ラウルスは焦るな、と言いたくても、そもそもアケルが何に焦っているのかがまだわからない。 「なにをした?」 だからそう問うよりない。アケルは射殺してやりたいとでも言いたげな目つきでラウルスを睨んだ。 「馬ですよ! 野生の生き物を、歌で僕の意思に従わせるなんて! 僕は屑だ!」 ぎゅっとアケルの指が鬣を掴んでいた。白くなるほどのそれは、アケルの心情を語っている。悔しくて情けなくてたまらない。けれどそれしか方法がなかったと。 「お前が聞いたのは、世界の声か」 「えぇ、そうですよ!」 「だったら、馬はそのお前に、世界の声を聞いたお前に、手を貸してくれた。それだけだ」 だから卑下をするな、悔いるな。言うラウルスにアケルは答えない。言われなくとも、わかってはいる。だが、それと後悔はまた別の問題だった。 「アケル――」 本当は、馬に乗ったまま話を続けたくない。だがアケルには話させ続けなければならなかった。それだけは、ラウルスも感じている。 かつて王位にあったころはいかなる名馬もラウルスはたやすく手に入れ、操った。だからこそ、だろう。さすがに裸馬に乗るのは難しい。会話をするとなれば落馬の危険も考慮に入れなければならない。 「巧いですね」 一心に前を見たままのアケルだった。それなのに、ラウルスは自分が褒められたのを感じる。わずかに訝しく思って首をかしげれば、危うく振り落とされそうになる。 「裸馬。乗ったことなんてないでしょう?」 「いや……」 「あぁ、子供のころにありますか?」 大公家の公子が裸馬に、などありえることではない。通常ならば、だが。相手はラウルス。乗っていないとは言い切れなかった。 「まぁな」 湖の城から遊びに出かけ、よく慣れてはいたけれど野生馬に乗った。あの馬は、数少ない友だった、とラウルスは思い出す。母馬とはぐれて死にかけていた子馬をラウルスは手ずから看病し、育てた。あの馬と共に草原を駆けるのは、どれほど心躍ることだったか。祖父にも母にも内緒で作った遊び友達。当然馬具など手に入らない。それでも馬はラウルスを決して振り落としたりしなかった。それから程なく母の侍女に見つかってしまって、城の厩舎に入れられることになってしまったのだけれど。 「そう言うことでしたか」 溜息を漏らすようなアケルの声に、ラウルスは異変を覚える。それにすら、アケルは反応した。 「いま僕は物凄く過敏になっています。僕に考えを聞かれたくなかったら、何も考えないでください。嫌でも、聞こえてしまう」 唇を噛みしめるアケルに、手を伸ばしてやれたなら。ちらりとアケルがラウルスを見やって、目許だけで微笑んだ。 「その気持ちで充分です」 ほっと息をつく。ラウルスには、わからないだろう。世界を音が渦巻いている。その絶え間ない音にさらされて、ラウルスだけがアケルの目印。彼がいてくれるからこそ、アケルは自失しない。 「そろそろ、何があったのか聞かせてくれないか」 染み入るラウルスの声に、アケルは鬣を掴み締める。わずかに馬が嫌がる素振りをした。 「……シャルマークに。何かあるんです。あってはならないなにかが」 「混沌か」 「いいえ。混沌じゃない。混沌じゃないけど――」 「もっと悪い? あるいは、同等に?」 苛立った。世界の音とラウルスの声が拮抗し、アケルはその間で千切れそうになる。 「そんなの――。わかりませんよ! 何でもかんでもわかるわけじゃない! 僕はただの人間です! 世界が何かを教えてくれていたとしても、僕が完全に理解できるわけじゃない! だから、急いでるんです! この目で見て理解できるように。理解した後に手を打てるように! いまは全力で急ぐしかない! どうしてそれがわかってくれないんですか!」 八つ当たりだと、言葉の途中で理解した。それこそ、アケルは自分が何を言っているのか、理解はしていた。しかし言葉だけが止まらない。 「……すまん」 「謝らないでください! 僕が悪いみたいじゃないですか!」 「聞こえてるだろう?」 声に仄かな色がある。平静な世界の、冬の陽射しのように鮮烈で心洗う光が。ラウルスの微笑が。 「聞こえて、います」 「俺は、何を考えてる?」 「試さないでください。――あなたは、自分が僕の力になれないことをいまだに悔いている。馬鹿じゃないんですか。なってくれてるって言ってるのに!」 「だが」 「違います、慰めでも愛ゆえにでもない。本当に単なる事実として言ってます!」 それはそれで暴言めいているな、と内心で苦笑したのに、アケルが横目で睨んできた。あわててラウルスはそっぽを向く。 「あなたは、僕を助けてくれています。自分が借りっぱなしで役立たずだなんて、思う必要はどこにもない。万が一にもそんなことを思う人がいたら僕の前に連れてくればいい。言葉の限りに罵ってやりますから!」 だいたいいつもそう言うのはお前だが。小さな小さなラウルスの心の声。戯れめいたその声すらもアケルは聞いた。どうやら本当に過敏になっているらしい、とラウルスは理解する。そして試したことを心で詫びた。 「一々詫びなくっていいです。試したくなるのはもっともなことですから」 頻繁に、アケルは唇を噛んだ。あのままではいずれ遠からず食い破りかねない。ラウルスがそう心配になるほどに。 「ラウルス」 「うん?」 「あなたには、たぶん十全にはわかってもらえない。それでも、聞きますか?」 何を今更馬鹿なことを言うのか。言葉より先に浮かんだ思考にアケルが苦笑した。それから遠くを見やり、少しばかり苛立った様子で馬の足を緩める。このままでは馬が持たない、それはわかっていても、焦る気持ちは止まらなかった。 「僕が聞く世界は、常に色々なことを歌っています。小声であったり、絶叫であったり。いろいろです」 「あれか? 前に言ってたよな。夜明けに世界が歌うんだって」 「えぇ、それもひとつ。それは毎日飽きもせずに繰り返される歌です。綺麗ですけどね」 疲れた馬からアケルは降り、しばらくは隣を歩いてやろうとする。ラウルスも当然それに倣った。そしていましかないとばかり、アケルの手をとる。 「それとは別に、何かがあると声をあげるんです、この世界は」 繋がれた手が温かかった。温度すら、いまのアケルには音だった。その音だけが、頼りだった。 「例えば?」 「どこかで木が倒れた。どこかで川の流れが変った。どこかで初雪が降った。どこかで――」 「おい」 「正直、まともに聞いていたら身が持ちません」 「だろう、な……」 ラウルスには想像もできなかった。絶えず音にさらされているアケル。彼はどの耳で何を聞いているのだろう。涼やかな風の吹く音に、彼は別の何を聞くのだろう。 「色々歌っていても、声を上げていても、だから全部はわからない。わかったら、気が違います」 当たり前だ、とラウルスは納得した。王位にあったころ、重臣たちや官僚たち。様々な人間がラウルスに話しかけた。時には同時に。それですら物を投げつけたくなったと言うのに。 「えぇ、本当に。八つ当たりの一つもしたくなりますよ、僕も。だからね、ラウルス」 繋いだ手を強く握り、アケルは耳を澄ます。何より強く、何より静か。世界中が同時に声を上げようと、そこにすべての生き物の絶叫が加わろうと、これだけは聞き分けることができる音。ラウルス。 「あなたは僕の光。あなたは僕の目印。あなたが僕の側にいてくれる。だから僕は気が狂わないでいられる。世界の音を聞きながら、人間として生きていられる。あなたは、どんなことがあろうとも僕に聞こえるたった一つの音」 わかりますか。アケルの眼差しが言う。ラウルスは黙ってうなずいた。言葉などなかった。これほどの思いに答えられる言葉など、世界中を探しても見つかるわけはなかった。 |