滞在していてはよけいな喧嘩を売りかねない。そう判断したアケルは早々に辞去を勧めた。ラウルスはむつりとうなずいてそれに従う。もっとも、不機嫌だ、とわかったのはアケルのみ。神人の子を生んだ女は終始丁重な客人だ、と思っていたようだった。 「……どう見た」 小島から湖を渡り、元の間道を抜けるのはあまりにも馬鹿らしい。アケルは要領よく神人の言葉をせしめ、ティリア女王の城を経由してもよいとの許しを得ていた。 「なにを、です」 苛立つラウルスに、アケルはわざとらしい声を上げる。わからないはずがないだろう、とでも言いたげな目でこちらを見ているのを気にも留めない。 ラウルスの苛立ちが、アケルには手に取るようにわかっていた。喧嘩にならない。それが不快で仕方ないらしい。 自然な理由だ、とアケルは思う。戦いと言うのは、確かにある意味では意見の相違をすり合わせる作業でもある。 それをしない神人にラウルスは限りない独善を見たのだろう。実のところアケルも同感だ。あれでは人間の上に立つことなどできない。ラウルスはそう感じている。アケルは違う感想を持っていた。 「わかっているだろうが。子供だ、子供」 「あぁ……子供ですか。あの子、喋ってましたね」 「なに!?」 驚いた拍子に苛立ちなど吹き飛んだのだろうラウルスの顔。それこそが狙いだったアケルはにこりと笑う。すぐさま気づいてラウルスは苦笑した。 「聞こえてなかったと思います、あなたには。たぶん、母親にも聞こえてない」 「父親には?」 「聞こえてるはずですよ。覚えてますか、ラウルス。天地の御使いの長が言葉を交わしていましたよね、幻魔界で」 妖精たちの移住先。どうやらその世界の創世の一端、そのほんの端に関わってしまったらしい二人だった。そのときのことをラウルスは思い出す。 「言葉……?」 この上なく明確で、しかし理解の外にあった光と闇。あれが何者かの存在だと言うことはわかっていた。だが、会話を交わす、と言うようなものだったのだろうか、あれは。 「話していたのは、確かだと思いますよ。ただ、僕ら人間には理解できない。理解したくとも、絶対に無理。そういうものです。たぶん、あれが彼ら本来の言語なんだと思います」 「と言うことは、神人も、か?」 「えぇ。だから、子供の父親には、あの子が何を言っているのか理解できるはずです。――が」 アケルは思う。子とその母を。二人きり、あの部屋にいた母子。後から子の父である、と女が言った神人が現れたけれど、神人は子供の存在そのものを認識していないよう、アケルには見えた。妻と呼ぶべきか、女を愛しているらしいことも、見て取れはしたけれど。それがせめてもの救いだ、と思う。 「アケル?」 「……いえ。気のせいなら、いいんですが」 「そうは、思っていないってことだな?」 茶化すような軽やかな声音に、いったいどれほど救われているのか彼は知っているのだろうか。アケルは思う。知らないのだと。ほんの少しばかりの笑みがアケルの唇に浮かんだ。 「はっきり言ってしまっていいのか。断言はできません」 「相手が神人だから? お前の耳に聞こえないから、だな」 「えぇ。そのとおりです。だから、ぼんやりとした予測と、世界が曖昧に歌っている事実、ですね。僕の耳は、神人の恐ろしさを聞きました」 シャルマークの城を通ってもよい、と言われたアケルはさぞかしあちらこちらに衛兵がいるのだろう、と思っていた。が、実際はほとんどいない。目に付くこともない。顔を合わせても咎められることもない。つまり、湖の城に近づくものはいないに等しく、あちらから来たものは神人に呼ばれたなりした者。ならば人間が咎める筋合いではないということらしい。それを思うにつけ、よけいに恐ろしくなる。 「神人は、子供を認識していませんでした」 「……どういうことだ?」 「そこに子供がいる、と理解していないんです。あの子が、自分の子供だってわかっていない。神人にとって必要と言うか、愛情というものがあると仮定して、その対象になっているのは彼女だけなんです」 「なんだ、それは……」 「たぶん、気持ちの悪い予想ですけど。神人は人間をどう見ています?」 もしもこんなときでなければ、シャルマークの城は美しかった。大異変から何十年と経っている。復興など、もう言われもしない。だからかもしれない。けれど、ティリアの努力だとも思う。民がティリアを愛してきたからだとも思う。 「下等な生き物かつ、混沌に汚れてもいる生き物」 ラウルスの返答は切り落とすかのようだった。アケルはだが反論できない。正しくそのとおりだ、と思う。 「ならば聞きます。人間の産んだ子は?」 アケルは言いたくなどなかった。新しく生まれた命だ。この世界に祝福されない命などあってよいはずがない。まして父母に。母は子供を愛おしむだろう。だが父は。父と言う自覚もなく、存在すら認識されず。 「……自分の血に、と言っていいのかわからん。が、混沌が混じった汚らわしい生き物、と言うことか」 「たぶん。そういうことなんだと思います。だから、認識しない。存在を意識に上らせない」 「――残酷、と言うより、やり方が汚い」 「同感です。でも彼らはそれが悪いことだと思ってもいないんです」 「自分が正義だから?」 「おそらくは。そもそも、認識できないものに対して善も悪もないでしょう?」 「……怖い話だな」 「最初からそう言いましたよ、僕は」 できれば、生まれたばかりの子が健やかに育って欲しい。神人の子であろうが、命に違いはない。ラウルスですら、そう思った。 「いずれわかることかもしれませんが」 アケルはためらいがちに言葉を上げた。予想でしかないことを語りたくはないのだろう。しかし神人がらみではそうせざるを得ない。 「あの子供は、人間でも神人でもない、別の種族として独り立ちする、そんな気がします」 「なぜだ。父親に疎まれるからか?」 「違いますよ。そうじゃない。単に、あの子は父の特徴も母の特徴も等分に継いでいる、それだけのことです。つまり、人間でも神人でもない。これは別種族でしょう」 「切ない話だな、それはそれで」 ラウルスの仄かな口調にアケルは明るさを見る。神人には持ち得ない期待のような気がした。ラウルスがわずかに背後を振り返る。もう遠くなってしまった湖の城を。それは過去への決別であり、未来への希望だったのかもしれない。 「まぁ、なんだ。この世界から妖精たちが消えちまったからな。そういうことかもしれんよな」 「……え?」 ラウルスの言葉の意味がアケルには珍しくわからなかった。否、わかってはいた。聞こえてはいる。だが、意味を取り損ねた。 「世界の均衡ってことさ。妖精が消えた。妖精と言う種族が担っていた何か。新しい種族を産むことで世界は均衡を取るのかもしれない。ふとそう思っただけだ」 「美しくて楽しい何かであればいいなって、思います」 「綺麗な子だったよな。将来は美人だぞ、あれは」 「ラウルス……」 「なんだよ?」 アケルが溜息まじりに彼を見やる。むしろ、ねめつける。最後の城の門を越えれば、そこは城下町。途端にわん、とした喧騒が聞こえてきた。 「あなた、それでも父親ですか?」 大袈裟に両手を広げ、これ以上ない嘆かわしさを表現してみせる自分にアケルは内心で笑い出す。吟遊詩人ぶりが板についてきたな、と。 「男の子ですよ、男の子。あの子は男の子でしたよ」 「はい!? 冗談だろ!」 「こんなところで冗談言って僕に何の得があるんですか! 僕は大真面目です!」 事実、ラウルスの誤解も致し方ないことだと思う。アケルには耳があった。神人の声は聞こえなくとも、その子の声ならば聞こえなくはない。話している言語は理解できなくとも、その心の断片くらいは。だからこそわかったことだった。 「本当に、見ているだけでうっとりするくらい綺麗な子でしたよね。将来どれだけ美しくなるのかと思うと、ちょっと怖いくらいです」 「……俺はいま怖い」 ぷい、とラウルスがそっぽを向いた。それだけでアケルには城下町の大通りで叫ばれたよりなお自明。くすくすと笑い出すアケルをラウルスは横目で見やった。 「あんまり笑うなよ、面白くねえな」 「あんな生まれたばっかの赤ん坊に焼きもち妬いてどうするんですか」 「生憎と見てるだけでうっとりする、なんてことを言われたことがないんでね!」 「言わないだけで見てますよ?」 さらりと言えばラウルスが絶句した。ぎしぎしと音がしそうな動きでアケルに向き直る。それに彼はほんのりと笑みを浮かべた。 「それと。実は僕、年下は好みじゃないんです。あぁ、余談ではありますけど、男に興味もないですね」 「お前な! 上げるか下げるかどっちかにしろよ! 俺は喜べばいいのか嘆けばいいのかわかんないだろうが!」 「好きなほうでいいと思います」 きっぱりと言ってアケルは足を速めた。容貌の華やかな二人が往来で痴話喧嘩などはじめれば、見世物同然だ。 「なぁ。アケル。お前、だったら、その、な? なんで俺だったんだよ」 ぼそぼそと言いつつ追ってくるこの男がかつては王宮の主であったとは。嘆かわしいと言うより、いまのほうが好ましいと思う自分がいる。 「気の迷いと物の弾み。後は押し切られたってところでしょうか」 戯れに言って振り返れば、うつむいて溜息をつくラウルス。少しばかり哀れになって手を差し伸べれば、取りもせずにそっぽを向く。 「ラウルス」 「……なんだよ」 「こんな冗談言っても怒らないあなたが悪いんですよ。付け上がりっぱなしじゃないですか」 「結局、俺のせいかよ!?」 「そんなあなたでも、僕はあなたが好きですけどね!」 「で。やっぱり俺が悪いのかよ!?」 喚き声を上げる男にかつての国王の面影はない。湖の城で見聞きしたことが彼にどれほどの不快と懸念を与えていたことか。少しなりともそれが薄れたことにアケルはにこりと笑った。 |