音の余韻が、薄い木立の中にそっと溶け込んでいく。ラウルスは黙って天を仰いだ。瞼に滲む涙を払い、アケルを見やれば、彼は微笑んでいた。
「母上は、喜んでいらっしゃる。そう思うよ」
 木立の中の静謐が、ラウルスにはそう感じられた。まるで在りし日の母が微笑を浮かべているかのような。
「なんて、呼びかけたらいいんです?」
「ん? 大公妃だな」
 結婚はしていないが、寵姫と言うのは慣例的に生家の夫人として扱われるものだ、とラウルスは言う。アケルには馴染みのない習慣だろうがひとつうなずき、眼差しをどこに据えるともなく声を上げようとした。それを見てラウルスはにやりとする。
「だがな」
 不意に差し込んできた悪戯のような声にアケルは夢想を覚まされて不機嫌だった。それにもラウルスは声をあげて笑う。
「俺の母親だし? 母上でいいんじゃないのか?」
「ラウルス! なんてこと言うんですか! だったらあなたは――」
「テイラ母上と呼びたかったがな、俺は。……機会がなくて、残念だよ」
 戯言だ、と一蹴してもよかった。そのはずが、アケルは言葉を失う。ラウルスの冗談などではない真情をいやでも聞いた。
「……なんて、呼べば、いいんですか!」
 大地を睨んでアケルが言う。ラウルスの目にアケルは何より美しい。そして彼の歌を思う。
「母は、名をアウローラ、と言った。お前がよく歌う、夜明けの歌。懐かしいと思ったら、母だったんだな」
 世界の夜明けは、あるいは人の夜明け。人にとっての夜明けとは、母ではないか。ラウルスの言葉にアケルは顔を上げる。
「えぇ。僕にとっても母は暁でした」
 母がいたからこそ、この世にある。母と言う存在に、この世の初めての光を見た。アケルは懐かしく思い出す。ゆっくりと息を吸い、大地に指先で触れた。
「不遜ではありますが、アウローラ母上様。先の歌はご嘉納いただけましたでしょうや? いずれ定めが許せばまた歌いに参ります、ご子息と共に」
 ラウルスの母その人がそこにいる。アケルはそう思って手を伸ばした。手に触れたのは、軟らかな土。それでもそれこそが彼の母だと、思った。
「他人行儀なやつだよ、まったく。母上、また参ります。それまでご健勝で」
 もう亡くなった人だ、とはアケルは言わなかった。ラウルスもわかっていて、けれどそう言う。決して過去の習慣から出た言葉などではなかった。
「さて、と。本題に取りかかるかね」
 にやりと笑ったラウルスは、もう母の膝にすがる小さな息子ではなかった。アケルはふっと笑みを浮かべ、立ち上がる。その笑みが凍りつき、突如として彼は振り返る。
「所用が済んだのならば、参るがよい」
 そこに神人がいた。いつ現れたともわからないままに。二人に気配を掴ませないとは。いまこの瞬間、そこに出現したのだとしか思えなかった。
「参れ、とは? いずこにか」
 せっかくよい気分でいたものを。ラウルスの表情には如実にその思いが現れていた。が、意に介する神人ではない。心に留める、と言う意識そのものがないのだとアケルは感じた。
「無論、我が主の館に」
「これは命令と解釈するべきかな、アケル?」
「そうなんじゃないですか。なにしろ人間の守護者でいらっしゃるから。とは言え、僕は個人的に御子を拝見したいですが」
「あぁ、それはいい。確かに素晴らしい御子だろうよ」
 同意ととったのか、神人は背を返す。二人は無言で従った。
 そもそも、逆らう理由がない。最初から二人は神人の子の様子を探りにきていたのだから。あちらがこいと言うのは僥倖、というものだろう。
 木立を出て屋敷に戻れば、しんとしている。先ほど感じた感じられない視線がいまはどこにもなかった。
「ラウルス」
「あぁ、感じる。感じない、と言ったほうが正しいがな」
「ですね」
 二人のやり取りをどう思うのだろう。アケルは少しばかり首をかしげ、そしてどうも思わないのだ、と気づく。
 不安になった。神人の子を生んだ女性は、どう思うのだろう。それとも、父となった神人とは、感情のやり取りがあるのだろうか。
 どうにもそう思えず、不安ばかりが先に立つ。その手に不意にラウルスが触れてきた。はっとして体を硬くすれば、大丈夫だとばかりに手を繋がれた。すぐさま離れていった手だけれど、何より安堵をくれた。
「参るがいい」
 ラウルスは鼻を鳴らして屋敷の中へと足を踏み入れる。彼としては来いも何もない、と言うところだろう。この地は彼の住み暮らした城があった場所だ。案の定だった。
「神人方は、盗人猛々しいと言う言葉をご存じないと見える。我が城が破損していたのをよいことに、自侭に屋敷を建てておいて参れとは、恐れ入るな」
 神人の背に向け、ラウルスは言い放つ。故郷を失くしただけではない、彼にとっては。憎んでも余りある神人によって思い出まで汚濁に塗れた、そんな気すらしているはずだった。
「呪われし者の言に正義はない」
 振り返りもせず神人が淡々と言ったとき、ラウルスはすんでのところでそのまま帰るところだった。アケルが黙って袖を引いたのに気づかなければ、間違いなくそうしていた。
「神人方の正しさ、というものはそういうものなのですね。自らだけが正しく、他はすべて悪であると。なるほど、ご自身が正しいのだから、他の規律はなく、他の規律に従う者も悪だ、と。だったら僕は呪われていたいですね。実に気持ちが悪い。大体、寛容と言うものがないですし。守護者を気取るならば大度を見せてほしいものですね。歴代アルハイド国王に、人間の王にできたことが神人方にできないとは、思えませんけど。あぁ、したくないんですものね。優しさのない正義、規律なんて、なんの役に立つんでしょう。ラウルス、知ってますか?」
「生憎知らんが……」
「なんです?」
「俺が言うのもなんだが、よくぞそこまで滔々と言えるもんだと思ってな」
 さすがに悪口だの文句だのとラウルスは言いはしなかった。が、アケルには聞こえているのだから同じこと。くすりと小さく笑った。
「我らの正義は、我らが決める。人間ごときが口を挟むことではない」
 ついに、神人が振り返った。神人にも感情がないわけではない、と知ったアケルは安堵する。それは自分のためにではなく、子を産んだ女のために。
「ごとき、と来たか。まったく、それで守護者だって言うんだから世も末だな」
「えぇ、本当に。時に陛下? 陛下は民を一度でも民ごとき、と思ったことがおありでしょうか」
「あったらそれはすでに王ではない。それは屑、と言うんだ。死んで詫びてもまだ足らん」
 アケルを見ず、神人を見てラウルスは言う。王座に未練など欠片もない。だから神人が守護を買って出てくれるのならば、本当ならば喜んで譲り渡したい。
 だがしかし。民を蔑視する者に、それがどれほど高位の存在であれ、そのようなものにアルハイド王家が慈しんだ民を渡せようか。
 アルハイド王家と同じことをせよ、とは言わない。だが人間とはどのようなもので、なにが最善なのか、どうか理解して欲しかった。
「理解をする気がないならば、守護者を気取るな」
 神人に向かい、ラウルスは言う。この神人に、ではない。アルハイド大陸に、あるいは世界そのものに散った神人すべてに言う。間違いなく、聞こえているはずだから。
「ラウルス。どうでもいいことですよ。いずれにせよ、神人は守護の任には堪え得ません。同時に、守護する必要もない。わかりますよね、ラウルス」
 神人の守護が必要な事態。それはかつての混沌の侵略以外にない。アケルは言う。すでに天地の御使いの間で協定は成り立った、と。ならば混沌の侵略はなく、守護の必要もないと。
「確定の事実か?」
「少なくとも、ここにいる神人の言を信じるよりは確定的です。神人は高位の存在かもしれない。人間には及びもつかないお偉い方々かもしれない。それでも彼らにも上位者がある。更なる、ね」
 にやりと笑ったアケルに、神人の顔色が変わった。よほど驚いたのだろう。確かに人間が知り得る情報ではなかったし、知っているはずもないこと。予測すらもできないことのはず。
「幸か不幸か、僕ら二人は、あなたがたの長たる方とさらには魔王その人にお目通りがかなっていますからね」
 もっとも、アケルは感覚として理解している。神人は、天の御使いの長たる方、いわば天使長の配下ではない。断じて違う。あるいはかつてはそうだったのかもしれない。だが、以前ヘルムカヤールが言ったとおり、天使長にある意味では離反した者が彼らであると確信していた。
「そろそろ立ち話にも飽きてきたんだがな。さっさと御子が見たいものだが」
 ラウルスの嘲笑に、素直ともいえる有様で神人が背を返したのは、もしかしたら動揺の表れだったのかもしれない、とアケルは思う。
「入るがいい」
 人間であったのならば、青ざめていたのかもしれない。神人はけれど真っ直ぐと前を見たまま一室の扉を開け、二人を招じ入れた。
「――どなたでいらっしゃいますか」
 室内で女が立ち上がる。背後に神人を見て、けれどそれより先に人間の男二人を見て驚いた顔。けれどそれをあからさまにしないだけのたしなみを持った女だった。
「アケルと申します吟遊詩人にございます。聖なるお方の御子が誕生なされました由、慶賀に参りました」
「ラウルスと言います。愛しい者の警護をしている、と思っていただければ」
 容姿端麗な二人だった。アケルは青春の美の盛り、まして吟遊詩人の優雅な挙措。ラウルスは壮年の男らしい見事な体躯を誇る。いささか旅に汚れてはいるものの、そのような男性二人が現れて警戒しないはずがない。ラウルスの言葉はそれを解くものだった。やはり女はほっとしたのだろう。礼儀正しく一礼した。
「御子は、こちらに」
 女の傍ら、ゆりかごがあった。ラウルスにとっては懐かしい道具だった。アケルを誘い、ゆりかごを覗き込めば、驚愕を抑え切れない。
「なんて美しい御子でしょうか」
 生まれてまだ間もないはずの赤子は、目を開いてアケルを見ていた。その天よりなお青い目。すでに生え揃っている漆黒の髪。アケルに向かい、赤子は声を上げ、けれどラウルスには聞こえなかった。




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