感じない視線と言うのがこんなにも煩わしいとは思わなかった。苛立ちを抑えかねたラウルスの袖をアケルが引く。
「あんまり気にしないほうがいいです」
 その言葉の含みにラウルスは顎に手をあてて考えた。その間もゆっくりと歩いている。アケルは黙って隣を歩く。どことなく長閑に見えて、そのくせぴりぴりと緊張していた。
「アケル。頼みがある」
「なんです?」
「心を読まれてるかと思うと不愉快だ。――でっかいのも同じことしてたが、あれは気にならなかったんだがな」
「それは信頼感の問題でしょう?」
「だな。そこで、頼みだ。弾いてくれるか?」
 言われるより先にアケルはわかっていたのだろう、すでにリュートの弦に手を置いていた。するりと音が忍び込む。ラウルスの心に、あるいは世界に。
 まるで薄い膜を一枚隔てかのよう。それなのに。ラウルス自身ははっきりと物を見ることができる。守られている、それを強く感じた。
「悪いな、手間ばかりかけて」
「あんまり謝ると、手伝いませんよ?」
「でもなぁ。なんだかお前ばっかりに苦労させてる気がしてな」
 事実、ラウルスの認識としてそれは正しかった。アケルはまた違う感想を持っているらしかったけれど。
「別にいいです。貸しひとつですよ。夜にでも返してもらいますから」
 なんてことのない風にアケルは言った。肩まですくめているから、自分がどのような言葉遣いをしたのか彼はわかっていないのだろう。だからこそ、からかえると言うもの。ラウルスはにやりと笑う。
「お前なぁ。言うようになったもんだよ。あぁ、きっちり返してやるよ」
 途端に、音が乱れた。アケルにしては実に珍しい。ラウルスは思い切りよく高らかと笑い、アケルの肩を抱き寄せる。憤然とふりほどかれてしまったが。
「ち、違います! そんなこと、僕は言ってない! 違うんです。弾き続けで疲れるから、腕でも揉んでもらおうと思って! それだけですから!」
「はいはい、それだけそれだけ。あぁ、それだけだよな。わかってるよ、愛しいアケル。ま、腕揉むだけで済むはずねぇし。体の隅々まで揉んでやるからそれで貸し借りなしな?」
「隅々までってなんですか。隅々までって!?」
「それはまぁ、口で言うようなことじゃないと思わないか? 俺もお前もいい大人だし」
 もっともらしく言えば、リュートの音色に叱責された。頭の後ろから殴りかかられたような音に、ラウルスは顔を顰めつつ笑っていた。
「行くぞ、こっちだ」
「ラウルス、まだ話が!」
「続けてると、神人の前で実演、なんていう世にも恐ろしいことに……」
「やめてください! 神人だろうが人間だろうが、誰の前であろうとも実演なんかしだしたら僕は絶対にあなたと別れますからね!?」
 喚きつつもアケルの音色はもう乱れていない。だからこれは、あるいは脳裏にその情景を描くことによって、どこかで確実に見ているはずの神人に対する嫌がらせか、とラウルスは思わなくもない。
「考えすぎです!」
「おや、違ったか。買いかぶりすぎ?」
「そうですよ。そういうの、なんていうか知ってますか!」
「世間一般では惚れた欲目って言うな」
 何事もなかったかのよう言うラウルスに、さすがのアケルも言葉を失った。むつりとしてリュートを奏でれば、音色にまで笑われた気がした。
 湖の小島には、確かに建物があった。城と言うには小振りでアケルは首をかしげる。
「大異変後に建てたんだろ」
 ラウルスがぼそりと言った。先ほどまでの陽気さは影もない。アケルは改めて建物を見やる。城と言うよりは屋敷。貴族の邸宅だ、と言われたならばアケルは信じただろう。
「だいぶ様式が違うな」
「え?」
「人間の建築様式に合わせたのか真似たのか。知らんがな。些細だが、決定的に色々違う」
 ラウルスの目が、神人の館を見ていた。彼の目は、そこに差異を見て取るのだろう。だが山の狩人であるアケルにはわからない。どれも同じ「貴族の屋敷」だった。
「見な」
 ラウルスの指が彼方を指す。そちらを見れば、大きな城が建っていた。
「湖の対岸。あっちがティリアの城だ」
「え、あれ。対岸なんですか!」
「おう。ここからだと、あの屋敷が邪魔してて湖が見えないからな」
 言いつつラウルスは屋敷のはずれへと歩いていく。どこへ、と問うまでもない。アケルは大地を見ていた。
 大異変より以前、この小島は木々があふれていたのだろう。そのころの景色を思う。鬱蒼と茂る森の中、こぢんまりとした城が建つ。アンセル大公の家族の住まいだ。そしてその森の中、金茶の髪の少年は遊んだことだろう。木登りをし、虫捕りをし。湖では魚釣りもしたかもしれない。時には転んで膝小僧をすりむく。薬草を見つけて手当てをし、また遊ぶ。兎を射止めてはこっそり焼いて食べてみたりもしただろう。それから母君に叱られるのだ。祖父君は、笑って見ていただろう。
「アケル。照れるからよせよ」
「え……」
「気づいてないのか? 歌ってたぞ」
 頬の辺りを指でかきつつ、ラウルスは薄くなってしまった木立を眺めて言った。彼もまた、少年の日々を思い出したのかもしれない。
「優しい祖父様だとは言えなかったが、俺には父親ってもんが側にいなかったからな。厳しい祖父様だったが、懐かしいな」
「お母上様は……」
「気丈な女だったんだろうな。だからこそ、優しい母だったよ。上に三人も正嫡の子がいるんだ、俺なんぞ臣下に下したほうがずっと生き易い。そう決断できる女だからな」
「あなただって。マルモル殿がいまの言葉を聞いたら、絶対に顔を真っ赤にして怒りますよ。あなたは正当なお子だってね」
「正当な父の息子であるに違いはないがなぁ。兄姉は王妃の所生、俺は寵姫の子、正嫡じゃあないよなぁ」
「お父上様はどう考えてらしたんですか」
「……遺憾ながらマルモルと同じことを言ったよ」
「だったらそれが正しいんじゃないですか? いずれにせよ、とっくの昔に終わったことですし」
 ラウルスがどう考えているにせよ、自分の王はあなた一人、アケルの言外の声が聞こえないほど悪い耳をしていなかった。ラウルスはそっと微笑む。今更、救われた気がした。
「昔話をする気分だったら、少し聞かせてくれませんか」
 もしも話してもいいことならば。アケルの省略された言葉にラウルスは再び微笑み、彼の肩を抱き寄せる。演奏の邪魔になっては、とすぐに放しはしたけれど。
「昔話? 何が聞きたい?」
「あなたのお母上様のことを。これからお墓参りでしょう? だったら、少しでもその方のことを知りたくて。お心に適う演奏がしたいから」
 本職の吟遊詩人だな、とラウルスはからかわなかった。アケルの心遣いに、言葉もない。思い出すことの少なくなっていた母を思えば、胸の奥にしまったその場所が、ちくりと痛む。
「優しくて、強くて、気丈な女だった。俺が狩ってきた兎をぶら下げて帰ってきても悲鳴なんざ上げやしない。大公家の姫がだぞ? 傷だらけになって帰ってきても、鍛錬が足りないって怒るような母だ」
 アケルは気づけば吹き出していた。ラウルスの母とは、アンセル大公の娘、大貴族の女性とはとても思えない有様だった。
「あなたのお母上様に、お目にかかりたかったな。僕の母とも、気があったでしょうに」
「テイラ殿のほうが優しく見えたぞ、俺は」
「あれは幻視者としての顔だからですよ。母親としてなら、強くて厳しい、山の女です。子供のころはそれこそびしびししごかれましたからね」
 肩をすくめて言うアケルに、ラウルスは少しだけ不思議そうな顔をした。
「見えないのにって、思いました? 目が見えなくても、幻視者は感じるんですよ、それを山では神のお導きって言いますけど。感覚が鋭いだけかもしれません」
「神々の御業ってことにしとけよ」
「最近は疑り深くなってて。どうも神々を信仰する気持ちが薄れていけませんよ」
「ま、その気持ちはよくわかるがな」
 笑うラウルス、小さな溜息をつくアケル。共通する思いは大異変の惨劇。神々が手を差し伸べてくれたならば。何年経ってもその思いは消えるどころか薄れもしない。
「ラウルス、お母上様は――」
「あぁ。大異変で死んだんじゃない。それ以前に亡くなった」
「え……」
 王家の血を引く者はみな長命だ。ラウルスは言う。三百歳を超えることすら珍しくはない、と。ならばなぜ。アケルは思う。彼と出会ったとき、ラウルスは七十代だったと言う。ならばその母は。常識的に考えて、極端な高齢で彼を産んだのでない限り、亡くなるような年齢ではないはず。
「お前が考えてるようなことじゃないぞ? 事故だったって聞いてる」
 一瞬にしてよけいなことを考えてしまったアケルを諭すようなラウルスだった。だが彼自身、事故の言葉を信じていないのは嫌でも聞こえる。
「母上は自分が寵姫だったってのを別に恥じてはいなかったし、そもそも名誉ある地位だしな。まぁ、息子が王座につくってのは驚いただろうが」
「でも――」
「兄姉が死んで、直後に王妃も亡くなった。自責なのか、悲しみの挙句なのかはわからん。俺は当時はまだアンセル大公の孫息子でしかないしな。母の存在が、だから誰かに疎まれるとか、そんなことはなかったはずなんだ」
 薄い木立の中に入り込めば、燦々と日が照っていた。それが切ない。もっと濃く深い森であるべき場所だった。
「少なくとも、王妃腹ではないにしろ、父王の子はもう俺一人だ。母が寵姫だからなんだ? 母上も王家の血を引く女性だ。母上を正妃に立て直すって話もあったくらいだしな」
「そうは。ならなかった……?」
 ラウルスの足が止まった。何もない場所。だが彼は辺りを見回し、景色を見定めて止まる。
「俺がハイドリンに発った後、湖に落ちて亡くなったそうだ。事故だ、と聞いちゃいるがな。――母上のことだ。本当に事故なんだろうよ」
 彼の母は、自らを捧げることで我が子の行く末を少しでも楽にしようとしたのかもしれない。寵姫の子だから。ラウルスが決してそう言われないために。
「ここだよ、アケル。混沌のせいだな。影も形もなくなってるが、ここが母の墓のはずだ」
 アケルは黙って地に腰を下ろす。天に手を差し伸べ大地に触れ。それがそのまま音楽になる。リュートの音色は限りない母の愛を語った。




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