さすがに湖のほとりには衛兵がいた。それも、人間のそれではない。子供のように小柄な神人が二人、水辺を守っている。純白の、神人らしい衣が風にはためき、彼らは確かにラウルスとアケルを見ていた。 「見つかってますね」 「だろうな」 「だったら――」 「隠れても無駄だよな?」 にっと笑って二人は前に出て行く。ここまでの道のりで衣服は汚れていた。むしろ、汚れている、と言う程度で済んでいるほうがどうかしている、とアケルは思う。自分はまだいい、禁断の山の狩人だ。だがラウルスは。何度となくそう思い、思う無駄をも悟りはじめていた。ようやく、このごろになって。 「何者か」 子供のような神人だった。神人に子供が存在するならば、確かにそうなのだろう。だがその目の深さだけが年月を語る。 「見てわからないんですね、あなたがたは」 アケルの声音には侮辱。神人たちにもそれは聞こえたのだろう、手に持つ槍を構えた。それをまたアケルが嘲う。 「呪われし者よ――」 「おや、ようやくわかったんですか? 鈍いですね。あなたがたのお偉い方々は、一瞥で看破したというのに」 首まで振って嘆かわしげに言うアケルに、すんでのところでラウルスは笑い出すのをこらえる。ここで笑ってしまってはせっかくのアケルの演技が台無しだ。 「方々はご存じないらしいが、この地は我が父祖の城。母の墓参に参る。道を開けられよ」 ラウルスが形式ばって言えば、神人たちが目を剥いた。そのことにアケルは少し、驚く。神人は感情をあらわにしないもの、と思っていたものだが。 「なにを言うか、ここは――」 「まさかと思うが、時のはじめよりこの地においでだったとでも? 神人降臨以前は我が領地。通すか、通さぬか。疾く返答を」 すい、とラウルスが腰の剣に手をかける。抜く気はない、とアケルは見た。抜いてしまっては、取り返しがつかないだろう。彼の剣は魔王の剣。格の低いらしい神人など、本当に消し飛びかねない。 顔を見合わせ戸惑いためらう神人たちの眼差しが、突如として背後を向いた、湖の向こうに。ラウルスは同時に、アケルはそれより早く気づいていた。 「お出ましですよ、ラウルス」 神人の一人が振り返り、嫌な顔をした。なぜわかる、と不思議そうでもある。アケルは取り合わず、ラウルスの横に並んでリュートの弦に触れていた。彼の武器が魔王の剣であるのなら、アケルの武器はこのリュート。気づきもしない神人たちがそろって地に膝をつく。 「呪われし者よ。何ゆえにこの地を侵す」 瞬きの間に、新たな神人がそこにいた。こうして比べてみれば明らかなその差。小柄な二人はやはり衛兵なのだろう、あるいは門番程度か。 「その門番にも申し付けた。我が母の墓参に参った。通さぬと言うのならば押し通るまで」 ラウルスはアケルより早く彼らを門番と見抜いていたのだろう、言葉に一切のためらいがなかった。王者の傲岸を前に、神人相手であろうとも一歩も退かないその態度。危うく見惚れるところだったアケルは繰り返し瞬きをする。そこにいるのはかつてよく見たアウデンティース王。 その思いに、少しだけ苦笑したくなった。王を毛嫌いはしていない、ラウルス本人とわかってもいる。だがやはり、あれはラウルスではなくアウデンティース。彼本来の明るい大らかさがまるで感じられない別人のような彼。そしてアケルは知っていた。アウデンティースであることを誰よりラウルスが嫌っていることを。 義務だから致し方なく王であった。そうは彼は言わないだろう。けれどさほど間違ってはいないのかもしれない、とアケルは思う。それなのにこの期に及んでいまだ王であるラウルス。 「苦労が多い人だな」 呟いて、少しばかり笑ってしまう。門番たちが怪訝な顔をしてこちらを見たのをアケルは無視した。 「我が王よ、ご助勢が要りましょうや?」 からかうようなアケルの声。リュートの弦には触れているだけなのに、音楽に聞こえてラウルスは、否、いまこの瞬間にはアウデンティースである彼は苦笑した。 「要らん」 「ご無礼を申し上げました」 すい、とアケルはその場に片膝をつき、寛恕を願う姿勢。ラウルスとしては大笑いしたい。が、神人の前だ、自重した。 「母の墓参も許さぬか。自ら恣にこの地を侵し、我が母の眠りさえ妨げたそなたらは、真実神の使いか?」 侵略しているのはどちらか、とラウルスは問う。あえて侵略、とラウルスは言った。かつての大異変のように。混沌のように、神人がアルハイドの大地を汚している、と。 ラウルスの片手が動き、アケルは許されたと見做して立ち上がる。いずれにせよ、馴れ合いの演技だ。神人にそれがわかるのかどうかは、知らないが。 「我らは――」 神人が何を言うつもりだったにしろ、言葉は妨げられた。神人は黙考し、わずかに目を閉じる。そしてそのまま体を開いた。通れ、と言うことらしい。 「ありがたくも情け深き天の御使いはお母君様の墓参をお許し下されるようにございます、我が王よ」 からかっているのだと、神人にわかるのだろうか。どうやら門番には、わかったらしい。かっとして槍の柄を握り締めるのが目に映る。 「では参ろうか」 「御意」 ラウルスは丁寧の上に馬鹿がつきそうなアケルの態度に、腹の中がむずがゆくてならない。できることならば今すぐ笑い飛ばしてしまいたいものを。そうはできかねるからこそ、この場をさっさと去るに限ると足を水辺に向けた。 「我が王?」 が、ほとりで足は止まる。いやそうにラウルスは神人を振り返る。湖には、かつてあったはずのものがなかった。 「ここに、渡し舟があったはずだが。いかがなした」 「我らに舟などと言う道具は必要なきゆえ」 「つまりない、と言うわけか。アクィリフェル」 「はい、陛下。ではしばしお待ちを。おくつろぎくださいませ」 にこりと笑ってアケルがリュートの弦を弾いた。咄嗟に反応したのは、門番たち。だが飛びかかろうとした彼らをもう一人の神人が制した。 「わからないんですか、あなたがたには? 実に愚かなことですね。我々は、あなたがた曰く悪魔の呪詛を受けてはいる。でも、この音は違う。わからないのですか、本当に? この音色は、この世界の歌。この世界そのものの音色。そんなこともわからずに、世界の守護者を気取りますか。愚かなのは、彼我のいずれや?」 慇懃もここまで来ると無礼だろう。加えて内容ときたら辛辣この上ない。久しぶりにラウルスは昔のことを思い出す。 些細な行き違いで大喧嘩をしたあの頃を。表面上、と言うより更に上っ面だけで丁寧だったアケル。陛下、と呼びながらそれを蔑称のように発音したアケル。 「相変わらずで嬉しいね」 ぼそりと言えば、それすらもが音色に組み込まれ、色が変わり、音が変わる。そして大きな枠ではまったく変わっていない。はじめから、ラウルスと言う音はこの世界にあったのだから。 「参りましょうか?」 悪戯っぽく、アケルが言った。ふとラウルスは湖を見やる。驚愕に、危ういところで声を漏らすところだった。神人たちの前で無様をさらしたくないと思うからこそ、こらえきる。 「見事」 王としての言葉でアケルを褒めたが、そんなものではまるで足りない。 「ご褒詞ありがたく存じます」 嬉しそうな笑みも極まるとただの嫌味だった。アケルの苛立ちが手に取るようにわかって、ラウルスはさっさと進むことにする。 「お足元にお気をつけくださいませ。いささかぬかるんでおりますゆえに」 どうにもアケルの言葉は足りない気がした。ぬかるんでいるとか気をつけろとか。そういう問題ではない。まったくない。 口に出して言えないラウルスは、心の中で叫んでみる。アケルには、聞こえただろう。彼の肩がぴくりとした、笑いをこらえかねたかのように。 二人の前に立ちはだかっていた湖が、いまは道を開いていた。あたかも母の墓参をするラウルスを歓迎するかのように。 アケルは何事もなく進んで行く。王の露払いを務めている、と言うところだろう。アケルのほうが一歩前に立つ。 そのアケルに押されるよう、水が割れて湖底をさらしていた湖の道が、更にさらにと広くなる。ラウルスがふと辺りを見回せば、湖に住んでいる魚たちがそそり立つ両側の水の壁の中、悠然と泳いでいた。 「若干、眩暈がしそうな景色だな」 魚は何が起きたか気づいていないのだろう。足元を見ればぐったりとした水草がわだかまっている。少しばかり申し訳なくなった。 「通った後はすぐ戻しますから」 枯れはしないはず、とアケルは言う、前を見たまま。ラウルスの考えを聞き取って。 「ありがたい」 水草が、ではなく。聞いてくれたアケルが。何もかもを頼りきりのような気がした。彼がいなければ、こうして通ることすら自分にはできなかった。 「ラウルス。妙なことを考えてるんじゃないでしょうね? ちなみに。これは修辞というものであって、僕には聞こえてますから嘘は無駄です」 「……お前なぁ」 「あなたができないことを僕がする。僕にできないことをあなたがしてくれる。それに何の問題が? 全部自分でやりたいなんて言ったら、スキエントって呼んでやりますからね」 「それは勘弁してくれ」 ふっと笑ってラウルスは常態に復した。どうにも神人とのやり取りが癇に障って仕方なかったらしい。 「と言うより、国王面するのが好きじゃないんじゃないんですか?」 「国王面ってな、お前。もうちょっとなんとか言いようがないのかよ!?」 湖のほとりから遠くなりつつあるからこそ、二人は当たり前の会話を交わしていた。だがしかし、アケルは感じている。正確には、感じられないものがあると感じている。 二人の周囲に注がれる眼差し、あるいは気配。アケルの耳は世界の動きすら聞き取る耳。それなのに、音のしない空白があちらこちらにある。つまりそれは。 「注目の的のようですよ、ラウルス」 湖を渡りきり、アケルが背後を振り返る。対岸には、すでに門番二人だけが残っていた。ラウルスもそれを認めてはアケルを見やってにやりと笑った。 |