「根本的に間違ってるんですよ!」
 一息入れた瞬間に、アケルは小声で叫んでいた。さすがにいつどこで衛兵に見つかるかわかったものではなかったから、声は抑えている。
「だから言っただろうが」
「こういうのは抜け道なんて言いません! 獣道よりなお悪い!」
 アケルの言うとおりだった。草原から木立、そこまではよかった。平穏な大公家の自然の庭園といった趣でもあった。
 だがしかし、問題はそこから先。木立の向こうは崖だった。岩を手がかりによじ登ったと思ったら、谷だった。這いずるように下り切ったら、今度は川。それも幅こそ狭いもののかなりの急流だ。
「大異変でずいぶん変わってるからなぁ」
 ぼやくように言ってみせたラウルスに、アケルは冷たい眼差しを注ぐ。その目は大嘘つきめ、と言っていた。
「どこがどう変わっているのかご説明願えましょうか、我が王!」
「だから怒鳴るな」
「怒鳴ってはいません! 小声で文句を言っています!」
「……確かにな」
 アケルの耳は衛兵などいない、と聞いている。だが今ここにいないのであって、物音を聞きつけた衛兵が飛んでこないとも限らない。だからこその小声。文句も存分に言えないのではずいぶんと溜まるものがあるだろう、とラウルスは微笑ましくなる。
「まぁ、俺が子供のころはもうちょっと、あれだな。崖は高かったし、川は深かった。ちなみに、あの木立はなくて、代わりに岩屑の堆積があったな」
「……抜け道、ですか、それ?」
 心底疑わしくなってくる。これを抜け道だと彼が言ったことではなくて、彼が大公家の後嗣であったことが、だ。公子ともあろう者がなんというところを通るのか。
「ばれたら首が飛ぶとは言ったがな。祖父様は知ってたぞ?」
「はい?」
 頓狂な返事をした瞬間、アケルは足を滑らせた。完全に転ぶより先、ラウルスの腕が伸びてきてはアケルを掴み止める。狩人の恥、とばかりアケルは唇を噛んだ。
「初めての場所だと足場が悪いだろ、いくらお前でも」
「……みっともないです、それでも」
「ぷりぷり怒ってるのも可愛いけどな。転ぶなよ?」
 落ち込むよりは怒らせたほうがましとでも言うようなラウルスの言葉に、あるいは声にアケルは唇をほころばせる。小さく笑って体勢を立て直した。
「それで、大公殿下がご存知だった、と言うのは?」
「だから抜け道。祖父様はここ通って俺があっちこっち遊びに行ってるの、知ってたさ、そりゃな。元気で活発、丈夫なのは大変よろしいが、臣下に見つからないようにな、なんて言ってたぞ」
「……さばけたお方ですね」
「俺の祖父様だしな」
「ですね」
 奇妙な脱力感に、アケルは溜息をつく。山にいたころは、貴族とは遠く雲の上の存在で、大公家とは王家の血を受け臣下に下ったお家なのだから、雲も雲、筆頭だ。王家とくれば天も同じ。そう思っていたものを。
「ただのガキじゃないですか、それじゃ」
「お前のところでも一緒だろ。子供なんざどこにでも遊びに行っちまうもんだ」
「狩人の子は山で暮らすんですから当然です! ふらふら出歩いても鍛錬の一部であって、それは褒められるべきことです!」
 あなたは違うだろう、アケルの言外の言葉にラウルスは目を細める。違う違うと言い立てる彼が、不思議とあどけなくて愛らしい。無論、惚れた欲目とラウルスは理解していた。
「他の家はどうか知らんがな。アンセル大公家はそんなもんだぞ? だいたいシャルマークの自然は厳しいんだ。何もできないような柔弱な領主なんぞいらん。むしろ害になる」
「だから抜け道、ですか?」
「最低限の、それこそ鍛錬になるからな。体も鍛えられるし、目も鍛えられる。騎士の初級訓練と斥候の訓練を兼ねている、と思えばいいんだ」
「物凄い詭弁に聞こえますけど」
「実は俺もだ」
 言いつつひょいひょいとラウルスは進んでいく。いつ崩れるかわからない石屑の積みあがった道になっていた。それを彼は小石ひとつ落とさずに踏んでいる。
「……もったいないですね」
 アケルはひとつ、石を落とした。それを片目で見やり、唇を噛みかけてラウルスの足元を見つめたとき、思わずそう言っていた。
「うん?」
 振り返り様、軽く体勢を崩しかけた。そう見えたのに、彼はすぐさま立ち直る。やはり石は動きもしなかった。
「あなたの体。玉座においておくのはもったいなかったなと思って。あなたなら狩人が務まりましたよ」
「それは褒めすぎだろ」
「どこがですか、どこが!」
 小さな嘆息。また小石をひとつ崩した。ラウルスはと見れば依然として何一つ動かさずに進んでいる。
「俺、弓があんまり巧くないからな」
 肩をすくめているのに、足元はと見れば相変わらずだ。アケルはいっそ忌々しくなってくる。
「なに言ってるんですか。僕の弓が引ければ充分ですよ」
「引けるだけだろ。お前ほど完璧に当たりゃしない」
「僕は弓の上手だったんです、山でも!」
 久々に、父のことを思い出した。幼いころから弓に適性を見せたアケルに、普段温顔を見せない父の顔がほころんだことを。神々に目を捧げた母が喜んで手に触れていたことを。
「アケル」
 ふっと顔を上げた瞬間だった。ラウルスの腕に攫われたのは。思わず硬くした体をラウルスの気配がたしなめる。
「危ないぞ」
 足元から、ごろごろと石が落ちていった。あのままならばアケルはもろともに落ちていたことだろう。
「……すみません」
「なにを考えていた?」
「両親のことを、少し。弓が巧いのを、褒めてくれたな、と思って」
「そうか。……優しいご両親だったんだな。俺は、狩人の長としての、幻視者としてのお二人しか知る機会を得なかったが。残念だよ」
「なにがです」
 軽々と道に下ろされた。その腕の強さを思う。本当に、もったいないと思った。だがこの人が王座にいなかったときのことを思えばぞっとした。
「お前の両親に挨拶できなかったことが、だ」
「まだ言ってるんですか!?」
「当然だろ。一度言ってみたかったんだけどな、ご子息をくださいってな」
「……聞いたことないですよ、そんな戯言」
「普通はお嬢さんをくださいだからなぁ」
「そっちじゃないです! 国王が平民夫婦に挨拶するってことのほうです!」
「愛してるよ、アケル。俺はお前がどうしても欲しかった。ご両親にだから挨拶がしたかった。礼儀の範疇だ、そんなもんは。身分もへったくれもあるもんか。あのときも言ったよな?」
「聞きましたけど――」
「けど、なんだよ?」
 不機嫌そうに言うラウルスの背中にアケルは微笑む。真っ直ぐで、純で、筋の通った男。そのくせ、義務のためならば策も巡らせれば自分を偽ることも平気でする男。
「あなたが好きだな、と思って。それだけです」
 意外だった。ラウルスの足元から小さな石がぽろりとこぼれる。偶然だとは思えなかった。
「ラウルス?」
「うるさいよ、黙れよ」
「まだ何も言ってませんけど?」
「だから黙れって!」
 悲鳴じみた声にアケルは耳を澄ませる。何より甘美な音に聞こえた。この世のすべてをあわせたよりも貴重で、夜明けより赤々と月夜よりもしみじみと。
「あなたが、好きですよ。ラウルス」
 呟くように言ったが、さすがに今度は足を踏み外しはしなかった。読まれていたのかもしれない、そう思ってアケルは笑い出しそうになる。
「二度も間抜けをさらすか、馬鹿」
 鼻を鳴らして傲岸に。けれども自らを誇るように。そんなラウルスがたまらなくなる。態度ではない、声でもない。彼のすべてが愛おしい。アケルはそっと首を振る。愛おしいなどでは、言葉が足らない。
「ちょっと歌いたい気分ですね」
「後にしろよ?」
「わかってます!」
 わずかに首だけ振り向けて、ラウルスがにやりとした。その眼差し、彼の体中が語るもの。アケルは胸が詰まって言葉がでなかった。
「さて、と。ここからが難所なんだがなぁ」
 詰まったはずの言葉が宙に消え、代わりに絶叫しそうになった。ラウルスが咄嗟にアケルの口を塞ぐ。そうしてもらわなかったら、ここで叫んでいたことだろう。
「ラウルス。いまなんて言いました!? 何かとんでもないことを聞いた気がしたんですけど!?」
「言った言った。ここからが難所って言った」
「ラウルス!」
「あのな、だから抜け道――」
「そんな戯言は聞き飽きました!」
 道理で誰も入り込まないはずだ。家を建てるのにちょうどいいと思ったのはあまりにも早計だったとアケルは知る。
 確かに木立まではそうだろう。あの場所までは快適に住み暮らせるだろう。だがしかし、ここまで来るととんでもない場所だった。おいそれと買物にも行けやしない。住むなど冗談ではない地だった。
「大公家や王家に寄せる尊敬からみんなはばかってるんだと思ったのに……」
 呆然と言ったアケルをラウルスは笑った。時々この男はこんな風に世間知らずになる。それが微笑ましくてならなかった。
「あのな、アケル。民ってのは逞しいもんだぞ? ちょっと隙間があったら家くらい建てる。敬ってはくれてるんだろうがな、それとこれとは別問題だろ」
「でも、だったらさっきのあの草原は――」
「家が建ってないところを見ると変わらんみたいだな、昔と」
「なにがです?」
 嫌なことを聞いてしまったような気がした。思い切り顔を顰めたアケルの耳許に唇をよせ、ラウルスは囁く。
「実は生えてるのがほとんど毒草でな。ちょっと口に入れただけでぽっくり行く」
 何代か前の領主の道楽の結果だ、とラウルスは笑った。いったいどこにそんな道楽があるのかわからないアケルは頭痛をこらえ、先を思っては更に激しく頭が痛んだ。




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