湖の城に行く、とラウルスは一言の元に言う。だがアケルとしては疑問もある。いまはティリアの居城となった旧アンセル大公の城と、湖の城は元をただせば同じ敷地にある。と言うよりも、今現在でも王城の敷地内に湖の城はある。 「と言うことは、どうやって行くつもりなんでしょうね」 思わず呟いた小声に、ラウルスがにやりとした。何か、とても見てはいけないものを見てしまったような気がする。 「ラウルス?」 心の底からいやそうな声を出せば、からりと彼は笑った。その濁りのない声に、アケルは奇妙な安堵感を覚える。 あれほどの苦痛をいま味わったばかりの彼が、なぜ。そんな疑問も浮かぶ。疑問ではないな、とアケルは内心に呟く。あるいは不安、かもしれない。 「どうした、アケル?」 「あなたが……、その。いえ。なんでもないです。気にしないでください」 「妙に平然としてるから頭を疑ったってところだな。――なんだよ?」 「……僕の声が聞こえたみたいだなって、思っただけです!」 「いや、そこはもう少し婉曲に否定するところだろうが!」 「そう思っちゃったんだから仕方ないじゃないですか! 諦めてください!」 声を荒らげてみればわかる。いままで耳が閉ざされていたのではないかと我ながら自分を疑う。ラウルスは、いまでも深く怒りを抱いている。 だからだ、とようやくアケルは気づく。怒りの大きさその強さ。だからこそラウルスは平静だ。これが王たる者の怒りかと思えば身の内が寒くなる。 「……それで、どうやって行くんです?」 ならば自分にできることは何か。アケルは思う。彼のようにではなく、常と同じ平静でいること。怒りゆえのそれではなく、平らかな眼差しで彼を見続けること。 「頼むよ、アケル」 はっとして顔を上げれば、微笑む彼がいた。時折不思議にもなる。聞こえないはずの声を彼は聞く。なぜだろう、問いかけてアケルは思いとどまる。 「そりゃあ、なぁ? お前は俺のアケルだし? 俗によく言うだろ、亭主の考えなんざ黙っててもよくわかるってな」 「……僕はあなたの夫になったつもりはないんですが」 「妻だって言ったら怒るくせに」 だったらそのようなことをぼそりと言わなければいいのに、アケルは咄嗟に怒鳴りそうになって、けれどやめた。 「なんだよ、怒鳴ると思ってたのにな」 「怒鳴らされるとわかってて怒鳴るほど馬鹿じゃないですからね。――ラウルス、ありがとう」 「なんだよ? 俺、何かしたか?」 ラウルスの目が和んで笑みの形になる。アケルは黙ってその目を見つめるのみ。励ましてくれた。頼ってくれた。千万言の愛の言葉よりありがたい。 「行きますよ、ラウルス」 意を新たにアケルは足を進める。が、すぐに止まった。にやりとしたラウルスが先に立つ。 「あなたが先に行ってくれなきゃ。僕には行きようがないんですけど!」 「だから案内してるだろ!?」 「遅いです!」 怒鳴りあい、荒い言葉を交わしあい、それでも時折触れ合う手。それだけでいいような気すらする。 「衛兵、いるんじゃないんですか」 仮にも王城。いないはずがない。往時のハイドリン城ほどではないとはいえ、シャルマークの城もそれなりに広壮だ。 「真っ当に通ればいるよ。と言うより、衛兵はそれが仕事だからな。いないはずがない。と言うことは?」 「衛兵の前は通してもらえるはずがないですよね、仕事だから?」 「もちろん。通したら首だよ、首」 それは仕事をやめされられる、と言う意味の馘首ではなく、本当に首だけになる、と言っている含みがあってアケルはぞっとする。 「ところがここに、衛兵が知らない道があったりするわけだ」 「はい!?」 するりとラウルスはシャルマークの城下町の裏道へと入っていく。城に近づきつつあるな、と思ってはいたアケルだったが、ここで曲がるとは思いもしなかった。 「どこに、ラウルス」 まるで悪戯小僧だ、とアケルは呆気にとられた。裏道を、知った道のようラウルスは進んでいく。そして気づく。知った道なのかもしれない、と。 「ラウルス?」 「いや、知らんよ。ここはたぶん、大異変後にできた道だろうしな。だいたいの方角だけは知ってるってところだ」 肩をすくめてなんでもないことのように言うラウルスに、とことんアケルは呆れたくなる。 「本当に、どこにこんな国王がいるんだが」 「いたんだからしょーがないだろ」 「別に悪いとは言ってませんけどね」 「だったらもっと驚けよ」 言ってラウルスは裏道からまた裏へと入り込む。いったいどこへ抜けるのか、とアケルが致し方なくついていった先、草原があった。 「なんですか、ここは!」 「だから、湖の城への抜け道」 「そうじゃなくて!」 裏道から裏道を抜けて、なぜここに出る。裏道なのだから、あるのはたいして綺麗ではない家だ。家どころか、小屋といったほうが正しいようなものも多くあった道を通り抜けた先がこれとは、さすがに想像だにしなかった。 「あれ、ただの裏道じゃないんだな、これが。実は元々あの辺りにあったのは、大公の近臣の屋敷に仕える召使の家だったわけだ」 「大公の近臣の召使?」 「湖の城ってのは、つまり家族の住居だ。そこに出入りができるとなれば、それは祖父様に可愛がられてた臣下ってことになる。大公の家臣だからな?」 「あぁ、そうか。家臣と言っても物凄い数の召使がいたわけですか。その人たちの家?」 「まぁ、元々あったってだけで、いまは全然違うのが住んでるだろうけどな。で、近臣は大公にいきなり呼びつけられたりするわけだ。だったら近臣は?」 「召使を急に……。あぁ、そうか。だから抜け道が!」 やっとのことで納得したアケルにラウルスは破顔する。怒りと同時に、そんな幼児のようなあどけない顔もする男だった。 「無論、ご法度だし、あるのがばれたら冗談抜きで首が飛ぶ。俺としてはあっちこっち遊びに行くのにこっそり活用させてもらってたからありがたいことだがな」 いったいどんな子供だったのだろう、と今更ながらアケルは不思議だ。少年時代の彼は、王子ではなく、大公の跡継ぎとして扶育されていたという。アケルにとっては、似たようなものとしか思えない。 王子だろうが公子だろうが、抜け道を使って遊びに行くとは、どんな少年だったのだろう。アケルの口許に小さく笑みが浮かぶ。きっといまとさして変わらぬやんちゃぶりで、母君や祖父君を困らせていたに違いない。 さすがに草原地帯に入るときにはラウルスは辺りを見回した。かつてはいなかったとはいえ、いまも衛兵がいないとは限らない。 「大丈夫ですよ、そちら側に人気はない」 「さすがアケル。いい耳してると助かるね」 「どういたしまして」 冗談口を叩きあい。入り込む。振り返れば、まるでくっきりと境界があるかのよう、こちら側には人気がない。 「家建てるのに、ちょうどいい土地だと思うんですけどね」 「大異変で人手が足らんと言っても、さすがにここは王家の土地だぞ。それはしないだろうし、できないだろ」 「そういうものですか?」 王家の土地、かつては大公の土地。そういいながら、そこには柵も何もない。ここから先に入ってはならないと示すものが何もない。それがアルハイド王家に、いまのシャルマーク王家に捧げられた民の尊崇の表れのような気がしてアケルはわずかに瞑目した。 「ここには偶々衛兵がいないってだけだし、柵も何もないってだけだからな」 アケルの表情に何を見たのか、ラウルスがうろたえたようそう言うのに、アケルは黙って首を振る。 「それが、人の思いだと思います。少なくとも、この土地にある音色を僕の耳はそう聞きました」 「――ありがたいことだな」 「えぇ、そう思います」 かつて王位にあったころ、アウデンティースは民と接する機会があったのだろうか。あるとしても多くはなく、そのときでも彼は王であり、民の真意など耳にできたはずもない。 今にして、民から寄せられていた声を聞いた、そんな気がしてラウルスは遠い眼差しを投げる。 「ラウルス」 「なんだよ」 「あなたは、あなたには、聞こえていた。僕はそう思いますよ。あなたほど必死で人々を守ろうとした王はいない。アウデンティース王がそういう方だと、民は知っていた。だから、混乱が起きなかった。あの混沌との戦いの日々、一度として人間が起こした乱はなかった。それは、そういうことだと思います」 「だがな――」 ふ、とラウルスは言葉を切った。息そのものが抜けてしまったかのような声。アケルは軽く彼の腕に手をかける。 「あなたは、できることをした。できることをできるだけした。人間、そういうものだと思いますよ。できることをできるようにできるだけ頑張るしかないんです。これ、あなたが僕に言ったんですからね?」 「俺はそんな偉そうなこと言ったか?」 「僕が悩んでたとき、スキエントの二の舞になるぞって言ったの、そういう意味でしょ。だから、あなたがそう言ったのと同じです!」 高らかに胸を張るアケルにラウルスはおかしくなる。自分の愛する人はこんな立派なことを言ったのだ、と誇るアケルだ。が、何もそれを本人に向かってしなくともいいと思わなくもない。胸の中がくすぐったくてたまらなかった。 「さぁ、アケル。覚悟しろよ?」 草原から木立に変わりつつあった。若い木が生えている、と言うことは、かつてはここは森林であったのかもしれない。そう思っていたアケルにラウルスがにやりとしながらそう言う。 「え……?」 「あぁ、そうだ。リュート、しまっとけよ。危ないからな」 「ちょっと、ラウルス」 何も問わせず彼はさっさと木立の中に入って行ってしまう。とにかく道と言うか方角はわかっているらしいからアケルも従うしかなかった。 |