突然に、わっと人波が沸いた。何事か、と身構えるラウルスをアケルは軽く制する。すでにアケルには聞こえていた。
「大丈夫です。いいことみたいです。それが僕らにとっていいことかは、わかりませんけどね」
「それじゃ不安だろうが」
「僕だって全部は聞こえません!」
 言ってからからかわれたのに気づいたのだろう、アケルは小さく唇を尖らせる。それにそっと微笑んで、ラウルスはそれでも腕をはずさせた。
「大丈夫だって言ってるじゃないですか」
「用心だ、用心」
 言いつつラウルスは剣の柄に手を置いた。抜きはしない。けれどもいつでも抜けるその体勢に、アケルも用心と言うことを思い出す。
「本当に、僕はいつからこんな腑抜けになっちゃったんでしょうね」
「そりゃ、俺がいるしな?」
 笑われた言葉にアケルは返事をしない。見やればかすかに頬を赤らめている。ラウルスはいまだに不思議でならない。彼がいったいどこで照れるのか、今もってわからない。それがとてつもなく幸福で、たとえようもないほど楽しい。
「なにをにやにやしてるんです!? いいからさっさと行きますよ!」
「はいはい」
「ラウルス!」
 怒鳴りながらも赤い顔をしていては威力半減以下。ラウルスはにやつきながらアケルに従う。なにをするというわけでもなかった。人に話しかければ早いだろうに、アケルは群集の中で聞き耳を立てるだけ。そのほうが正確なところを聞き取ることができるのかもしれない、そうラウルスは思う。
 ならば自分は自分にできることをするべき、とばかりラウルスは人々に話しかけはじめる。仮にもシャルマークの王都だ、放っておいてもアケルに危険はない。そこまで思って、彼自身戦うことができる男だと思ってラウルスはおかしくなった。騎士が引くこともできない強弓を軽々と引き、短剣を使わせればこちらも名手。それでもアケルを庇いたくなるのは。
「そりゃ、惚れた弱みってやつだよな」
 ぼそりと言えば、離れて行ったはずのアケルから強い眼差しを感じた。射殺そうといわんばかりの視線にラウルスは首をすくめる。
「なぁ、何があったんだい?」
 ここは仕事をするに限るとラウルスは手近な男に話しかけた。と、男はラウルスの手をとってはしゃぎだす。
「おいおい、なんだよ?」
 笑って手を離させれば、男は素直になるかと思いきや、また手をとる。さすがのラウルスも不審ではある。が、単に狂騒状態らしいと見当もつく。
「あんた、聞いたか! すごいぞ、素晴らしい知らせだぞ!」
「だから、それを聞きたいんだって。で、何があったんだい? そんないい知らせなら、おこぼれに預かりたいじゃないか」
 にやりと笑えば、男はラウルスの手を振って踊りださんばかり。これはどうあっても遠慮したい。なんとかならないか、と思ったとき、ようやく手を離してくれた。
「聞いたか! よく聞けよ!? すげえぞ、すげえんだぞ! 神人様にお子が生まれたんだ!」
「お子?」
 なにかとてつもなく間違ったことを聞いたような気がした。あってはいけない何か。それが何かはラウルスにはわからない。あるいは。そう思ったとき、アケルが横にいた。
「神人様にお子が? なんて素晴らしい。まるでこの世が楽園に変わる予兆のようですね。もう少し、聞かせてくださいませんか?」
 美しく物柔らかな吟遊詩人にそう言われ、男は満更でもなさそうな顔をする。実情を知っているラウルスとしては肌寒いばかりだった。
「いやいや、俺もたいしたことは知らないんだけどな! なんだか、女王様の侍女に神人様のお目が留まったらしいんだよな!? 侍女って言ってもその辺の女中じゃないぞ!? 貴族のお姫様らしいからな! そんでもって、神人様はその女を召されて、ついに今日、お子様が生まれたって寸法さ!」
「なんて素敵なことなんでしょう! これはぜひ、歌にしなくってはいけません。前代未聞ですからね。神人様のお子様は今、どちらに? せめてお屋敷でも遠くから眺められませんか?」
「だよな、だよな!? これは絶対すごいよな!?」
 うんうんとうなずく男にアケルは微笑み続けていた。ラウルスはその笑みに体が凍りつきそうな気がしている。
 だが男は気づいた風もなく、アケルに向かって屋敷の場所を教えた。どうやら王都シーラの人間ならば、誰でも知っていたことらしい。
「では行きましょうか、ラウルス?」
 軽く腕を取ってその場を離れるアケルの足早さ。ラウルスは意外にも思う。それほど早急に行きたいところか、と。
「ラウルス」
 だがアケルはラウルスを物陰に引きずり込んだだけだった。そこでぴたりと足を止める。
「どうした?」
 不思議そうに言うラウルスに、アケルは唇を噛む。声もなかった。そのまま腕を伸ばし、ラウルスの頭を抱き寄せる。
「おい、なんだよ。急に。照れるだろうが」
 淡々と言われた彼の言葉。本人はまるで自分の異変に気づいていないらしい。だからこそ、アケルは怖い。
「ラウルス。どうしたんです。それは僕の台詞です。何があったか、言ってください。いまのあなたは、色々なことを考えすぎていて、僕にも聞き取れない――」
 普段ならば、聞こえなくてもいいことですら、聞こえるのに。よけいな声まで聞こえて、恥ずかしい思いをしているのに。肝心な今このとき、彼の声が聞き取れない。
 ぎゅっと抱きしめれば、はじめてラウルスが呻き声を上げた。痛かったのかもしれない、そう思ったのは一瞬。アケルは仰け反りそうになる。
 ラウルスの怒りのその激しさに。あたかも頭上に雷が落ちてきたかのよう、貫かれた心地。震える指でラウルスの金茶の髪を梳けば、彼の歯軋り。
「ラウルス?」
 いまだかつて、これほど怒っているのを見たことはない。否、一度だけ。大異変の日、神人降臨のあの瞬間。あのときに匹敵するほど、ラウルスはいま怒り狂っている。
 それだけはわかった。それだけでもないのは聞こえた。けれど、そこから先がわからない。久しぶりに悔しい、そう思った。
「――さっきの。神人の館があるって言ってたな?」
「えぇ、王城の横手だって。湖の中の小島にあるって言ってましたよね」
 シャルマークの王城がすぐそこにある。アケルは振り仰ぎ、ここからでは影になって見えない湖を思う。旅の途次、見たことが何度もあったのに気にかけもしなかった湖を。
「……ティリアの城は、俺の祖父様の城だった」
 呟きよりまだ小声。囁きよりなおかそけく。それなのに、ラウルスの声はアケルの中に響き渡る。
「大異変で、大陸中が壊滅した。だから、何とか無事に残った建物を使う。それは当然だ。ましてティリアだ。俺の娘が俺の祖父様の城を使ってなにが悪い」
 だから今までラウルスはそのことを一言も言わなかったのだ、とアケルは知る。むしろ、どことなく嬉しくも思っていたのかもしれないとも。
「湖の城は……。元をただせば、アンセル大公家の最後の砦だったらしい。が、俺が生まれたころには、家族の屋敷とでも言うかな。こぢんまりとした城だったから、執務は対岸の城、暮らすのは湖の城、そんな風になってた」
「それって……」
「神人の館があるのは、俺が育った場所だ」
 苦痛と言うにはぬるすぎる。怒りと言ってもまだ熱い。ラウルスの声が肩口で聞こえる。押し殺された声がくぐもって、まるで泣いてでもいるかのよう。
「ラウルス」
 そっと頬に手をかければ、嫌がって顔をそむけた。だから、まるで、ではないのだとアケルは唇を噛む。彼の頭を抱きしめたまま、頬を寄せれば、自分の頬が濡れていく。
「ティリアならいい。ティリアは、祖父様を知らん。それでも、もしかしたら俺の面影でも見てるのかもしれん。そう思わんでもない。だから、ティリアならいい」
「でも、神人は許せない。許しがたい、侮辱だ」
「……アケル?」
 やっと顔を上げてラウルスの不思議そうな顔。濡れた頬に唇を寄せれば、どこかを見やる。かすかに赤らんだところを見れば、どうやら少しは怒りが収まったらしい。
「あなたの懐かしい場所を、神人は汚したんだ。そうでしょう?」
「――湖の城は、とっくに倒壊してなくなってたらしいけどな」
「物じゃない、場所です。むしろ、行為です。神人が、あなたの思い出を汚したのが、許せない。あなたはどうなんです? もしも禁断の山に神人が屋敷を建てたりしたら、どう思うんです?」
「――問われるまでもない」
 声が、王の声になっていた。アケルは腕を離し、彼を見つめる。厳しい眼差し、傲岸とした口許。身震いしたくなるような王がそこにいた。
「悪い、アケル。ちょっと付き合え」
「いいですよ、どちらまで参りましょうか、我が王よ?」
 からかうアケルの声音に、ラウルスはにやりと笑う。それから残った涙を拳で払おうとして、アケルに止められ指先で拭われた。
「よせよ」
「もしも僕が泣いていたら、あなたはほっとくんですか?」
「……そう言われちゃあ、なぁ」
「それでどちらに? 泣き虫で寂しがり屋な僕の王?」
「褒めると貶すを一緒にするな!」
「残念。どっちも褒めてます」
 にっと笑ったアケルの笑み。声よりも雄弁で、歌よりもラウルスを慰めた。大きく息を吸い、ちらりとアケルを見やる。嫌がるかもしれない、けれど受け入れてはくれるだろう。
「我が父王の寵姫たる我が母の墓参に」
 言い様、ラウルスはアケルを待たずに歩き出す。待つのが少し、怖かった。何かを言われるかもしれない。アルハイド王アウデンティースをアケルは好いてはいない。だから。
「誤解ですよ、ラウルス。いいえ、アウデンティース・ラウルス。アウデンティース王に怒ったのは昔のことです。いまの僕はもうわかってますよ。あなたは一人です。アウデンティースもラウルスも、あなたの名に違いはない」
 寄り添い歩くアケルの声に耳を傾け、ラウルスは答えなかった。腕に絡みつく腕。頬に触れる赤い髪。とても、答えられなかった。




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