ティリア女王の王太子に初めての子が生まれたとの報を得て、二人はシャルマーク王国にいた。密かに曾孫の誕生を祝うのか、と思えばアケルは微笑ましくなる。
 だがラウルスは首をひねっていた。不思議でたまらない、といわんばかりに何かを考えている。時折指を折るのは年数でも数えているのだろう。
「どうしたんです?」
 一商売終えてアケルが戻る。歌っている間は黒山の人だかりになるのに、声を収めた瞬間に誰もが去っていく。慣れてはいるけれど、心躍ることでもない。
「いや……」
 ちらりと大衆を見やったラウルスも残念そうな顔をした。が、アケルはそれが問題ではないと気づいている。さあ言え、とばかりラウルスを見つめれば苦笑された。
「ちょっと、早いな、と思っただけだ」
 歩こうか、と促すのは、人に聞かれたくない話だからか。誰もがすぐさま忘れていくというのに、以前の習慣は変わらない、と言うことなのかもしれない。
「何がです?」
 リュートの位置を直しつつ、アケルはラウルスに語りかける。その声だけで、ずいぶんと気が楽になる、ラウルスはそう思う。彼の声を聞いているだけで、懸念も何もなくなる。そして気づいた。
「おい、俺に歌うのはよせよ。ちゃんと話せなくなる」
「そんなこと……してませんけど?」
「間があったよな、今?」
「気のせいです!」
 笑うアケルに、今度こそ本当に気が楽になった。ラウルスは大きく息を吸い、シャルマークの王城を見上げた。あそこには、娘がいる。その息子がいる。今は曾孫も生まれた。時間が流れているのだな、と不意に思う。
「曾孫がな、生まれるのが少しばかり早すぎるな、とな。それだけだ」
「早い? そうですか?」
 アケルは首をかしげて考える。王太子は決して若すぎはしないし、結婚が遅すぎたわけでもない。少なくとも、アケルはそう思うのだが。
「孫はまだ四十過ぎだろうが。子がある年じゃねぇぞ」
「それはそれで物凄い発言のような気がしますけど?」
「お前のところではどうだった?」
 珍しくラウルスが過去を持ち出した。だからだったのかもしれない、アケルが素直に答えたのは。少しばかり考えて見せるのは、懐かしさを抑えるため。今はいなくなってしまった家族、仲間。そして故郷。
「僕ら狩人は……そうですね、たいていはそのくらいで結婚したと思いますけど?」
「だろ? あのな、アケル。孫は俺の直系の王族だぞ?」
「あ――」
 やっとアケルも気づいた。はたと手を打てば、それさえもが音楽のようでラウルスは小さく笑う。そう聞こえてしまった自分に、だったのかもしれない。
「一般庶民の寿命は、だいたい百三十歳そこそこと言うところだろうな?」
「ですね、僕もそんなもんだと思いますよ」
「だろ。王家の人間は三百を超えることも珍しくない。だから当たり前に結婚も遅くなるし、子ができるのも遅い」
「姫様は――」
「あれは好きな男がさっさとできたからな。ませた娘だったんだよ」
 肩をすくめるのは、なぜだろうとアケルは思う。寂しいせいだ、と考えるまでもないことだった。三人の子の中で最も愛した娘。側で助けてやりたかったことも多くあっただろうに。
「あの娘は――何事もなくともさっさと嫁に行ったと思うぞ。少女のころからメレザンドに惚れてたからな。王族にしては珍しいよ、本当に」
「でも……」
「それはそれでいいんだ。俺は、ティリアが幸せなのを知ってる。だから。それでいい」
 ふ、とラウルスがそっと息を吐いた。かすかに眼差しが王城へと流れて、戻る。見つめたい、けれどそうもできかねる。そんなラウルスの感情が手に取るようにわかってアケルは唇を噛む。そして顔を上げて笑った。
「だったらあなたはどうなんです?」
「俺?」
「僕と会ったころ、幾つくらいだったんでしょう、あなたは。僕のお祖父様くらいの年だって聞いたような気がしますけど?」
「まぁ、八十手前ってところだったんじゃねーか?」
「ほらね? それで二十代半ばのお子様が三人もいたんですよ? お孫様は、あなたに似たんだったりして」
「あのなぁ」
 茶化して笑ってくれたアケルの心を感じる。とは言え、少しばかり王妃を持ち出されると今でも心が痛まないこともない。
「俺は例外だ、例外」
 むつりと言ったのは、そのせいだったのだろうか。ラウルスらしくもない失言だった。
「なにがです?」
 問われてはじめて気づく有様。ラウルスは内心で舌打ちをし、それすらもおそらくはアケルに聞こえていることを悟る。
「俺の場合は……城に迎えられたときには兄弟死に絶えてたんだぞ。王族激減だ。さっさと結婚して子供を作れとうるさいのなんの。……父王も、心労で早くに亡くなったしな」
「あ……、ごめんなさい。そういえば、そうでした」
「山に暮らしてると、誰が国王でも変わらんだろうからな」
「そんなことないです! 山を重んじてくださる王もいれば、まったく無視なさる方もいる。あなたは……」
「気にかけてはいた、と言うところがせいぜいだな」
「でも、無視はなさらなかった。僕が禁断の山の狩人って言ったときにも、ちゃんとわかってくださった。それで、充分でしたよ、狩人としてはね」
「また懐かしい話をするもんだ」
「持ち出したのはあなたですよ!」
「そうだったか?」
 にやりとラウルスが笑えば、アケルも笑みを返す。王都の雑踏を二人で歩けば、甦る思い出。どうせ誰一人覚えてはいないのだ。アケルは思い切ってラウルスの腕に自分のそれを絡めた。
「どうした?」
「別に。なんでもないです!」
「だったら怒鳴るなよ」
 笑ってラウルスは、抱き寄せはしなかった。腕を組んで歩きたいだけ。それをわかってくれた嬉しさにアケルは口許を緩める。
「覚えてるか?」
 彼の言葉に、ラウルスを見上げたアケルは目を丸くしていた。
「同じことを、考えていたんですね」
 ハイドリンの城下町を、二人で歩いた思い出。あのころは彼が王だとは知らなかった。ただの戦士だと思っていた。密やかな逢引に、どれほど心がときめいたことか。思い出すだけで恥ずかしくなってくる。
「あの日、もう一度そうやってすごそうって、言ったよな?」
 ラウルスは言う。ハイドリン陥落のあの日、多大な犠牲を払い混沌を撃破したあの日。呪詛を得たと理解したとき、確かにラウルスはそう言っていた。
「気に食わん神人はいるがな、とりあえず今のところ世は平穏だ。あの日以来、ずっと混沌を集めてまわったりと忙しかったからな。少しばかりこうやって過ごすのも、悪くないよな?」
「忙しいほうが性に合うんですけど」
「どうしてそういうこと言うんだよ! 人がせっかく口説いてるってのに!」
「今更僕を口説いてどうするんですか!?」
「いいだろ、別に!」
「悪いとは言ってません!」
 声を荒らげ、言い返し。そして二人同時に吹き出した。結局、こうして過ごしている。怒鳴りあい、口喧嘩を繰り返し、それでもすぐさま笑いあえる人が側にいる。
「ありがたいことだと、思うよ。俺は」
「それだけは素直に同感ですね」
「どこが素直なんだか」
 からかえば、睨みあげてきた。それでも絡めた腕だけははずさないのだから面白いものだとラウルスは思う。
「ラウルス。聞いてもいいですか」
「なんだよ? 聞きたいことがあるなら聞けって。答えたくなかったらすっとぼけるから」
 これが国王だったのだから、よくぞ平気で王座にあったものだとアケルは時折呆れてしまう。どれほど違う顔をしていたのか、と。無論、その顔も知ってはいるのだけれど。
「あのとき……」
 話が行ったり来たりしている。それでわかるはずはない、とアケルは自分自身を小さく笑い、話の筋を見つけようとした。そのときラウルスがそっと笑った気配。
「どうしたんですか」
「いや。このことかなぁ、と思ってなぁ」
 ふふん、と鼻を慣らしてラウルスは腰につけた小さな袋から何かを取り出す。たいていは細々とした貴重品を入れているのをアケルは知っていた。貨幣の量が増えすぎたとき、持って歩くにはいかにも不便でしかも危険。だから旅する人は宝石に換えて持ち歩く。当然二人もそれに倣っている。ラウルスが指を入れたのは、そんな小袋だった。
「ラウルス!」
 その指に挟まれていたものにアケルは驚愕する。耳のすぐ側で大声を上げられたラウルスは、けれど顔を顰めもせずに笑っていた。
「そんなに怒鳴るな。照れたか? 愛してるよ。アケル」
 ちらちらとアケルの顔の前で振られていたもの、それはハイドリンの城下町で買い求めた真鍮の指輪。アケルが贈ったたった一つの冗談のような贈物。
「まだ持っていたんですか、そんなもの! 壊さないで持ってるあなたが信じられない! なんて物持ちのいい人だ!」
 安い真鍮の指輪。宝石に見えるのは硝子玉。それなのにラウルスはいまだに。
「なに馬鹿なこと言ってるんだかな。どうして俺が捨てられるんだよ。おまえだってまだ大事にしてるくせに」
 小声で文句を言い、ラウルスはアケルの腰の小袋に視線を流す。はっとしたアケルが顔を隠す間もなかった。見る見るうちに赤くなる頬をラウルスが好ましげに見つめているその眼差し。
「お前が大事にしてるの、俺は知ってるんだけどな、愛しいアケル? 時々、俺が先に寝たあと、出して眺めてるだろうが」
「寝てないじゃないですか!」
「まぁ、たまに寝たふりしてお前を眺めてることもあったりなかったり」
「……もう絶対信じない。あなたが寝てるかどうか、次からは蹴ってでも確かめますからね!」
「それ、起きると思うぞ?」
 真顔で言えば、完全にそっぽを向かれた。それでも腕を離そうとしないアケルに言いようのない思いを覚える。愛などと言う言葉では足りない。名付けようもない思いだけがここにある。それすらもアケルは聞いてくれるだろう。



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