涙に掠れた声を誤魔化したくて咳払いをすれば、かすかに笑うアケルがいた。ラウルスは密やかに笑って息を吸う。どこか晴れ晴れとした気分だった。単に強がりだとしても。 「なぁ、アケル。一曲、歌ってくれよ」 言えばわずかに眉を上げ、アケルはリュートを構える。何がよいかとも聞きもしない。ラウルスは、けれど安んじて彼の音色を待っていた。意に沿わないもののはずがない、それどころか、今の心に添うものを必ずアケルは奏でてくれる。 まるで音色を待つようだった、竜たちが首をもたげ、一斉に同じ方向を見たのは。けれどラウルスは違うものを感じた。何かはわからない、わかりたくないような気もする。 だがしかし、本人がどう感じたにしろ、ラウルス自身の魂とも言うべき何かが彼を身構えさせた。 「ラウルス!」 アケルの叫びを聞くまでもない。ラウルスは魔王の剣を引き抜き様に竜たちの前へと走りこむ。そしてアケルの歌声。まるで鬨の声のようだった。全身にみなぎる闘気。ラウルスは自らの喉が雄叫びを上げているのを知る。そして知ったときには、何かに向けて剣を振り下ろす直前。 「なに――!」 切っていた、確かに何かを切っていた。それが何かわかるより先、剣風を感じては身をひるがえす。続けざまだった。かいくぐり、避けては打ち返す。アケルの歌が、竜をとどめているのを知っていた。そうでもしなければ、猛り狂った竜が乱入してきたことだろう。 そして一撃。今度は確実に何かを捉えた。掠り傷ではない。致命傷だ、と剣士の感覚は捉える。ただし、相手が生身の人間ならばだ、とラウルスは思う。 「そのとおりですよ、ラウルス。もういいでしょう、剣を収めてください」 アケルの少しばかり掠れた声にラウルスは愕然とした。時間が経っているわけではない。それほど必死になって歌っていた彼を思う。 「剣を引け、と」 「それとも、殺しますか。我々を」 アケルがためらうことなくラウルスの傍らへと進む。そしてはじめてラウルスは見た、目の前にいた何者かを。今まで剣を交わしていた相手を。 「――神人!」 真白き天の御使いがそこにいた。汚れなく、自らこそが絶対正義とばかりに。ラウルスはそれこそが身の穢れ、とでも言うよう目をそらす。 「汚らわしきものの気配を感じて参れば、かくの如しか」 神人が剣を掲げた。ラウルスは咄嗟に剣を構える。神人は、侮っていたのだろうか、それともたかが人間ごとき目にも入っていなかったのだろうか。だがしかし、ラウルスが持つ剣は魔王の剣。 「なに……」 すい、と神人の目が二人を見やった。それは、爆音が去って後のこと。アケルは煩わしそうに頭を振っている。 凄まじい音だった。あるいは、光だった。闇だった。勝ったのは、こたびは闇。否、あえて言うならば中庸が。 勝ったのは、人間のラウルスだった。神人にはわかるまい、とアケルは思う。なぜかはわからない。けれど彼らにはわかり得ないことだとアケルは知っていた。 「呪われし者よ、なにを……否、その剣か」 はじめて神人はラウルスの剣に目を留めた。そして見るだけで汚されると目をそらす。ラウルスはわざとだろう、神人の眼前で剣を振った。小さくアケルが溜息をつく。 「さすが天の御使い。見ただけでおわかりか。我が剣は、黒き御使いより賜りしもの。黒き御使いが主の佩剣。天の御使いがお言葉に直すならば、魔王の剣ともなろうか」 ラウルスは、嘲笑する。彼には遺恨がある。天の御使いが、あるいは神々が手を差し伸べてくれたのならば、彼の民は死なずに済んだ。 神々は、死した者たちになんと言うのだろうか。試練と言うのか。乗り越えられなかったからお前たちは死んだのだと言うのだろうか。ラウルスには、決して認められない。 無辜の民、と一口に言う。どこにでもいる、当たり前の人間たち。だからこそ、罪がないはずがない。罪など探せばいくらでもある、それが人間だとラウルスは思う。 釣銭を誤魔化した。落ちていたものを拾って我が物とした。他愛ない嘘をついた。いずれ些細ではあれ、善行でないことだけは確かだ。 だがしかし、たかがそんなもののために死ぬほどの試練を課される意味がどこにある。ラウルスはだから決して神々を許さない。守るべき民を殺した神々を許しはしない。その使いごときに頭を下げるつもりなど毛頭ない。 「汚れた者どもめ――」 淡々と言う神人に、ラウルスは冷ややかだった。神人は、剣を振るった、何も知らないただ生きているだけの竜に向かって。 「あのドラゴンたちを殺す理由とやらがあるのならば後学のために伺おうか」 すい、と神人に剣を向ける。だが天の御使いは気にした風もなく、目をそむけるばかり。もしも彼らに心と言うものがあるのならば、心の底から見たくないのだろう。わかっているからこそ、ラウルスは剣を向ける。 「あれは汚れた者。悪魔が作り出したものがこの世界にあってよいものか。否」 目をそむけたまま神人は言った。ラウルスが言い返そうとするより早く、アケルの歌が響いた。歌だった。けれど怒りの叫びでもあった。同時に、冷たい嘲笑でもあった。ラウルスのそれなど生ぬるいと感じるほどに。 「ならば御使いよ、あなたがたはなぜ人間を守護なさるのです。我ら人間は、魔王の手によって作り出された種族。えぇ、そうでしょう。あなたがたの主なる方が、手を加えてもいらっしゃる。だがしかし、我々は、悪魔に作り出された生き物。――ならば、殺しますか?」 アケルは、それを笑顔で言った。リュートに手を置き、静かに言う。叫び声なのに柔らかに。さすがの神人でも言葉がないか、と思った瞬間、神人の剣がアケルの喉元に。 「さような偽りをどこで知る。呪われし者は――」 「僕はこの世界の歌い手、世界の代弁者。この世界が作り出された瞬間より見て聞いて感じたことを知る者。偽り? ならばこの世界そのものが偽りを言ったことになる。天の御使いよ、神人よ。あなたはこの世界の成り立ちをご存知か。その場に立ち会われたのか」 アケルは感じている。知っている、と言い換えてもいい。この神人は、たぶん若いのだと。この世界ができたその瞬間を知るものではないのだと。 「知りもしないで守るの殺すの――。無様ですね」 完全な嘲弄に、神人は顔色を変えることもなかった。感情と言うものがないのかもしれない、ふとラウルスはそう思う。 「ご自身の目で見て感じたらどうなんです? あのドラゴンたちは、すでにこの世界の生き物同然。世代を経ればこの世の生き物となるでしょう。わからないのですか。ご自分の目で見たらどうなんです? この世界はね、そういう世界なんですよ」 叩きつける語調が、緩やかだった。そのぶんラウルスはアケルの怒りの強さ大きさを感じる。だがしかし、神人は感じもしないのだろう。 「さぁ、どうするんです。ドラゴンを一頭でも傷つけて御覧なさい。僕が相手をします。僕はこの世界の代弁者。そう申し上げました。世界に代り、僕がこの世の生き物を害するものを排除しましょう」 甘く優雅に礼をする吟遊詩人。ラウルスは小さく笑って剣の柄を握りなおす。 「おいおい、一人で何しようって言うんだよ? なんだよ、俺は置いてけぼりかよ。つれないやつだよ、お前は」 「なんだ、付き合ってくれるんですか?」 「この手にあるのは魔王の剣。雑魚神人一匹や二匹、退治するのもできなくはないだろうよ」 鼻で笑ってすら、神人は反応しなかった。ちらりと竜たちを見やった目にあるのは厭わしさですらない。アケルはそのことにぞっとする。神人の目に浮かんでいたのは、何物でもなかった。浮かんでいなかったのでもない。それなのに、何物でもなかった。 「ラウルス、気をつけてくださいよ? 神人がドラゴンを殺すのならば、次は人間ですよ? 守護などと言う口を利いておきながら、意に沿わないとなるや殺してまわるのでしょうからね」 「それはお前が気にしててくれ。俺には聞こえないからな。頼んだ」 「えぇ、頼まれました」 にこりと笑うアケルをどう思ったのか。飄々と対するラウルスをどう思ったのか。神人は彼らに一瞥を与え、そして竜たちには一目もくれず飛び去った。 「あれ、便利だよなぁ」 どうやら翼と思しき光を背負い、瞬く間に姿の見えなくなった神人にラウルスは呟く。 「……そう言う問題ですか!?」 「なにがだよ。つーか、何で怒ってんだよ?」 「怖くなかったんですか、あなたは! 僕は死ぬほど怖かったんですけど!」 「そのわりには立派な啖呵だったがな」 肩をすくめて笑ったラウルスに、アケルは言葉もない。ただラウルスはそれでも心のうちを理解してくれているのだろう。黙って肩を抱き寄せてくれた。 「僕は……」 「お前は、ドラゴンたちが殺されるのをみすみす見逃すような男じゃない。それは俺が知ってる。俺が民が殺されるのを黙っていられないように」 「当然ですよ。本当に……いけ好かない」 「聞こえたか?」 「黒き御使いの心の声だって聞こえませんからね。まったく無理ですよ。ただ、格の違い、かな? 世界のほうは今の神人が若くて物を知らない、と言うことはわかっていたみたいです。黒き御使いにはただ震えんばかりでしたからね」 「世界が、か?」 腕の中でうなずくアケルにラウルスは何を思うのだろうか、しばし空を見上げ何事かを考えては首をひねる。 「それ、地震って言わないか?」 「……だから! 概念としての問題であって、現象ではないんです! 世界、と呼ぶのも便宜的な呼称であって、大地が体でどこかに頭があってってわけじゃないんです!」 顔を上げ、苛立たしげに声を荒らげてみて気づく。怒鳴らされていた。 「……あなたって人は!」 「少しは気晴らしになっただろ?」 「なりましたけど!」 「だったらアケル」 軽く唇が額に触れた。物足りなくて仰のけば、小さな笑み。同じく密やかな唇が自分のそれに触れては離れていく。 「さっきの続きだ。歌ってくれよ」 「――どんな歌がいいですか?」 問われてラウルスはふと唇を吊り上げる。にんまりとした笑みにアケルは目をそらし、竜たちを見ているふりを。 「歌わせるより、鳴いてもらうほうが、楽しそうだよな?」 アケルは聞こえないふりをしたまま、無言でリュートを傍らに置き。ついに吹きだしたとき、ラウルスの腕に包まれていた。 |