やっとのことで聖地の湖に辿り着く。アケルの文句に辟易としていたラウルスは、そのことにもほっとした。 「なにか、ご不満がありそうな顔ですね?」 「いーや。なんにも」 「ラウルス――」 「ほら、ドラゴンだドラゴン。な、アケル?」 なんとも言いがたい大雑把な言葉でアケルは懐柔されてやることにする。この辺りが甘い自分だ、と思わないでもなかった。 「あぁ、よかった……」 だがそれよりも気にかかっていたもの。竜の怪我。人々に討たれ追われた竜はここまで歩く間ずっと血を流し続けていた。 「うん、どうした?」 「少し落ち着いたから。これで血止めができます」 湖に向かって歩く竜は空の青とは違う色。水を映した青だった。だからかもしれない、湖に向かっていくのは。ラウルスはそう思いつつ竜を眺め、アケルを見やる。 「血止め?」 彼の言葉に違和感を抱いたものの、アケルはすでに歌いはじめていた。ゆるゆるとした彼の歌声。怪我などないのにラウルスまで気持ちが晴れ晴れとする。竜はわずかに首だけ振り向け、それでも聞き入っているようだった。そしてその体の傷口から、滴る血が絶えていく。 「傷。いいのか?」 血は止まっただけだった。治ってなどいない。動けばすぐにでもまた開いてしまうだろう。それがわからないアケルではないはず。 「ラウルス。協力してください」 リュートに意識を向けたままのアケルの呟き。ラウルスは何を思う間もなく彼の横に立つ。そして黒き御使いに授けられた魔王の剣を抜いた。 「えぇ。そうしていてください。目標です」 何を言っているのかさっぱりわからなかった。わからないながらも、自分の心の、あるいは魂のどこかが理解している。アケルと繋がっている感覚にラウルスの体が熱くなる。 「集中して。ちょっとした大技ですから」 「すまん」 「なにか、言いましたか」 「いや」 とすればアケルは自分に言ったわけではなかったのか、とラウルスはおかしくなる。多少集中を欠いていたことは確かだからと気にしすぎたか。 だがラウルスはしっかと剣の柄を握った。アケルは言った、大技、と。何が起こるのかは想像もできない。だがここに自分がいる、それがアケルに必要ならばそうするまで。 竜が軽く目を閉じてアケルの歌を聞いていた。ラウルスの目に映るもの。竜が、増えはじめていた。この数年で聖地に案内した竜が、見る見るうちに集まってくる。数頭から、数十頭へと。 「壮観だな」 ヘルムカヤールの体から生まれた様々な色合いの竜が、あるいは空を駆け、あるいは地の上でまどろみ。 そしてアケルの歌を聞いている。何が起こるか、竜たちは知っているかのようだった。ラウルスは更にきつく剣を握る。 不意に、歌が変わった。歌が歌ではなくなり、それなのに歌だった。音が音ではなくなり、けれど聞こえていた。 これはなんだ、と思う間もない。ラウルスの手の中の剣が閃光を放つ。否、剣に向かって閃光が放たれる。もしも漆黒の閃光などというものがあるのならば。 ラウルスは、呻くこともできなかった。もしも腹の中に手を突っ込まれてかき回されたならばこんな気分にもなろうか。それなのに痛みはなく、ただひたすらに気分が悪い。 ぐるぐると、聖地の景色が回っている。アケルを中心に、竜たちの色合いすら渾然とし、そこにヘルムカヤールがいる。すぐさま消え、ばらばらの竜になり、空と大地が分離する。 「ラウルス」 呼ばれた、中心に。この場に定まり、何物からも影響を受けない大地の要。否、ラウルスの芯。アケル。 「……あぁ」 「すみません。思ったより影響が大きかったみたいです。大丈夫ですか」 「……腹が減って目を回したらこんな気分かもしれんな」 「ご冗談を、国王陛下」 くすりとアケルが笑った。それでラウルスは本復を果たす。思い切り頭を振って眩暈の名残を振り払えば、やはりそこに竜たちがいる。それなのに、何かが違った。 「アケル、お前。何した?」 「わかりますか?」 「いや……何かしたってのは、わかる。なんだ、これは。知ってる気がする。なのに、なんだ……?」 ラウルスは意識を凝らす。知らないはずはないもの。魂に染み付いている危機感。そして竜。微笑むアケル。手の中の、魔王の剣。 「――混沌か!」 思い至って戦慄した。言われて見るまでもない、知らないはずのない感覚。そして竜たちに必要なもの、混沌。彼らがヘルムカヤールから生まれたものであるのならばそれは自明。 「えぇ。かつてのティルナノーグに、混沌の湖を作りましたよね、前に? 放っておいてもそのうち消えるものですけど、今は必要だったので。ちょっと、こっちに呼び寄せました」 「……そりゃ、大技だ」 「僕もできると思ってなかったんですけど。やればできるものですね。人間やってみるものです」 「お前なぁ……」 呆れて言葉もなかった。けれど唇が笑いに歪んでしまう。ラウルスは思い切り強くアケルを抱きしめていた。 「ちょっと、ラウルス! 何するんですか!」 「なにって見ればわかるだろうが。抱きしめてる。すごいな、お前! どうしようか。俺はどうしたらいいんだ!?」 「ラウルス! なに言ってるんですか、頭は平気ですか!」 「平気だ。全然問題ない。いやはや! 惚れ直した!」 「……問題、大有りじゃないですか」 ぼそりと呟き、アケルはラウルスの腕から抜け出した。その耳が髪より赤く染まっていて、ラウルスはにんまりと唇に笑みを刻む。 「照れたか?」 小声で言えば、振り返りもせずアケルが睨み付けてきた。竜に向かってそうしているのだろう、嫌そうな顔をした竜が一頭、そっぽを向いた。 「お前は、すごいな」 「……あなたがいるからですよ。あなたが僕の側にいて、魔王の剣と言う目標物があった。だからできたことです。僕一人の力じゃない」 竜たちを見つめるアケルの傍らへと並べば、彼は遠い目をしていた。 「寂しいか?」 「え?」 「妖精郷が、人の世に変わっていく。それをしたのは、お前だ。必要なことでもあった。けれど、あの場所がなくなっていく。寂しいよな」 「もう……妖精はいませんから。ティルナノーグも、必要ない。だったら、あの場にあった混沌だけでも、必要なドラゴンたちに」 「それに……そうだな。お前には笑われる気がするけどな、アケル。妖精郷は、なくなっていない、そう思うよ。俺は」 竜たちが、湖の側でまどろんでいた。心地良さげに息をして、遊び戯れていた。アケルには、どんな思いがあったのだろうとラウルスは思う。 妖精郷がただの人間の世界になって行くこと。それへの寂寥も無論、あるだろう。だがしかし、ここは聖地。禁断の山にかつて囲まれていた、アケルの故郷にして聖域。 以前、大異変の直後だったか、とラウルスは思い出す。聖地の湖に集ってしまった混沌の欠片を消滅させたことがあった。アケルには自然で当然の成り行き。 今しかし、彼は同じ湖に混沌を集めた。竜たちのために。何よりも清らかな思い出の地を彼は自らの手で再度汚したも同然。竜たちのために。 「妖精郷はな、アケル。ここにある、そんな気がする」 ラウルスはそっと胸に手を置く。自分たちの心の中に、妖精郷はあると。妖精たちの思い出がここにある、それがある限り、妖精郷はなくなりはしないと。 「えぇ。そうですね……」 会えなくとも、遠い別世界で生きている妖精たち。目の前の竜は、逝ってしまった友たる竜の面影。 「ちょっと、妬けなくもないよな」 「なにがです?」 「でっかいのを、お前がどれだけ慕ってたかってことさ」 肩をすくめてラウルスは言った。アケルは小さく笑う。ほんのりと、思わなくもないのだろうが、それは嫉妬ではない、ラウルスの声音に優しさを聞く。 「混沌、足りるのか?」 話題を変えるようラウルスは咳払いしを、それをまたアケルが笑った。もっとも、サティーたちですら賄えなかった混沌だった。ラウルスの懸念も当を得ていないわけではない。 「この前、猫の声は聞こえないって、言いましたよね? 猫の声は聞こえなくとも、なにを考えてるかくらいは、わかるんです」 唐突にアケルは呟くようそう言った。目は竜を見つめながら。ラウルスは黙ってアケルを抱き寄せる。 「ドラゴンたちは――。彼らが歌うのは、思い出。彼が見ているのは昔。彼らに今の言葉は届かない、意味がない」 「だったら……」 「それでも、生きているんです。死んだ、名残の面影だけじゃない。ドラゴンは、今ここに、ヘルムカヤールたちとは別の種族として生きているんです。だから、いずれ僕の言葉も届くようになるのかもしれない。彼らの声が聞こえるようになるのかもしれない」 アケルは試すよう、歌いかける。竜たちは、物の見事に反応しない。歌を聞いてはいた。けれど彼らの耳に聞こえるのは過去の歌。ヘルムカヤールが聞いた過去のアケルの歌声。 「生きているなら、変わって行きます、繁殖もするでしょう。そのとき初めてこのドラゴンたちは、この世界の生き物になる。そのとき、僕の歌も届くでしょう」 アケルは手を差し伸べ、届かないものを掴もうと。憧れかもしれない。後悔かもしれない。ラウルスは黙って彼の手をとった。 「だからね、ラウルス。混沌はこれだけあれば充分です。その間に彼らは、この世界の生き物になって行く。ヘルムカヤールが言っていたでしょう? この世界には自浄作用があるって。竜たちは、この世界で生まれたもの。僕らと同じです。いずれ遠からず、世界の一部になるでしょう」 言いつつアケルは微笑んでいた。微笑んでいるのに、遠かった。知らず。ラウルスの目に涙があふれて止まらない。驚いたアケルが振り向き、抱きよせ。無言でラウルスの頭をかき抱いて佇んでいた、我関せずと遊ぶ竜たちの前で。 |