本来、竜と言う生き物は人里に下りてくるものではなかった。だからかつての竜が人語を解する、と知っている者もそう多くはなかったのだ、元々。 「だからと言ってなぁ」 ラウルスはぼやく。確かにヘルムカヤールから生まれた今の竜はまるで意思の疎通が図れない。ただアケル一人がぼんやりと意思を交わすことができるのみ。 「だから怖いってのはまぁ、わからんでもないがな」 「当然だと僕は思いますよ」 二人はぬかるみに足をとられつつ歩いている。湖から溢れ出した水が滴って酷い沼地になっていた。アケルは静かに振り返り、後ろを確かめる。 「怖い、驚く、びっくりする。逃げたい。それは理解する。俺にもわからんでもないからな」 「あなたが?」 「俺だって怖いもんはあるぞ?」 茶化すように言って足元の危ないアケルに手を貸せば、溜息まじり、手をとってくれた。ぐっと力を入れてアケルを引き上げれば、とられていた足がずぼりと抜ける。 「でもな、アケル。だからと言ってなんで人間はこうも凶暴なんだ? 昔はもうちょっとまともだった気がするぞ、俺は」 ラウルスの溜息が背後へと流れる。二人の後ろ、そこには傷ついた竜がいた。領主の庭に舞い降りた竜とは違い、飛ぶことはおろか、歩くさえままならないほど傷ついた竜。 「昔も今も、人は変わらないと、僕は思いますよ」 「そうか?」 「忘れたんですか? ヘルムカヤールがお城の庭に降りたとき。あなたのご子息方はどうしましたっけ?」 からかいの声音で言われれば、ラウルスは怒ることもできない。覚えていた。確かに息子たちは竜を討とうとしたのだった。 「だが――」 「王子殿下方は剣の柄に手をかけただけ。抜いてはいなかった気がしますよ。どうだったかな? 抜いてたかも」 「おい!」 「でも切りかかりはしなかった。理性的といえば理性的。でも庶民はどうなんでしょうね?」 「庶民だからと言って理性がないなんぞ言ったらぶん殴ってくれるからな」 むつりと言うラウルスの声にアケルは微笑みそうになる。すでに三王国は確固としてある。アルハイド王国最後の王を人々は忘れはじめている。シャルマークの末の姫は結婚し、子もいる。「今は亡きアウデンティース王の曾孫」が誕生している。だが人々はそうは言わない。「ティリア建国女王の孫」と呼ぶ。 それでもなお、これほどの時が流れてもなお、ラウルスは王だった。王冠なき王。玉座を持たぬ王。あるいは、この大地すべてが玉座であり、天の星々が彼の王冠。 「なんだよ?」 そんなアケルの王を彼は見つめる。言葉より、歌声より明確で真摯な眼差し。世界の歌い手の歌よりも遥かに。 「別に。なんでもないですよ」 言いつつ繋いだ手に力が入る。ふ、とラウルスが笑った。 「ラウルス。あなたは、幼いころから剣をとっていましたよね?」 「まぁな」 父王の側室から生まれたラウルス。私生児ではないものの、正嫡とも言いがたい生まれであった彼は、王妃が産んだ王子の第一の臣下となるべく育てられた。王の側近であり忠臣であれと。だからこそ仕込まれた剣の技。結局、幸か不幸か彼は玉座につき、王国随一の剣士であり国王でもある、と言う奇妙な人生を歩むことになったのだが。 「僕もです。僕は剣ではないですけど。弓矢に短剣、各種罠の類。山で戦う術は叩き込まれましたから」 「だから?」 「だから、僕らは武器を手にする機会の少ない庶民より、怖くないんだと思うんです」 「……なるほどな。いざとなったら身を守れるかどうか。それは大きいか。身を守るには逃げるしかない。逃げ切れない。だから無茶苦茶に立ち向かう。相手がどうかなんぞ関係なしに。……そう言うことか?」 「だと思いますよ。ただちょっと、覗きに行っただけなんでしょうけどね、あのドラゴンは」 ちらりと振り返り、アケルは小さく歌いかける。傷ついた竜がのそりとアケルを見やる。 「もう少しだから、頑張って」 呼びかけても、通じない。あの竜には、ヘルムカヤールのよう言葉は通じない。それでもやはり、話しかけてしまう。どことなく、わかってくれるような気がしてしまうせいかもしれない。 「気のせいかもしれんがな」 ラウルスがアケルの手を引いた。振り返った拍子に体勢を崩したアケルの体を支えるように。その声音にあるものにこそ、アケルは身を引き締める。 「ただの戯言だ。気にしなくていいんだがな、アケル。なんだか、俺はあのドラゴンにはあのドラゴンなりに、意思がある気がしているよ」 ラウルスは振り返らなかった。アケルを見もしなかった。もしかしたらこれは、アケルにとっては酷い現実であるのかもしれない。だから彼を見られなかった。 「例えは悪いがな、俺はお前じゃないから巧くは言えん。例えば、だ。お前、猫に意思がないと思うか?」 「はい!? 急に何を言い出すんですか! 猫に意思。あるに決まってるじゃないですか。あんな我が儘で自分勝手な生き物、意思がなかったらそっちのほうがびっくりですよ!」 「お前、猫に恨みでもあるのかよ」 「ありますよ! この前の宿で僕が食べてるチーズ取られましたからね!」 「……張り合うなよ、猫と」 「張り合ってません! 僕は腹を立てている、それだけです!」 「いや、まぁ。それならそれでいいけどな。まぁ、猫に意思はある。それはお前も認めた。だったらな、アケル。お前は猫の声が聞こえるか?」 「あ――」 人間の心ならばアケルは容易くその声からすべてを聞き取る。妖精は難しかった。が、聞こえなくはない。竜ですら、聞き取ることができた。さすがに天地の御使いともなると無理だったが。 「どうなんだ?」 「……試したことがないので、なんとも」 「馬鹿言うな。お前はいやでも聞こえてるはずだ。聞こえるものならな。俺の心も他人の心も、人間ならば聞こえなくてもいいことまで聞こえている。そのお前に猫の声が聞こえない。だったらそれはどういう意味だ?」 「……僕に、聞き取れない」 「だが猫に意思はある。あるように見えるだけかもしれない。人間の勝手な思い込みかもしれない。けど、あるよな? でも聞こえないよな? だったら、ドラゴンは?」 「いやな……ことを言いますね、ラウルス」 「すまんな」 詫びたふり。謝ってなどいない。それでよかった。謝罪など、つらいだけだった、アケルには。 ラウルスはこう言ったに等しい。猫に意思はある。けれど声が聞こえない。それは獣だから。竜の声は聞こえない。それは獣だから。けれど意思はあるに違いない、と。 「もう……」 「でっかいのはどこにもいない。でっかいのの思い出だけが、この世界の空を飛んでいる」 「綺麗なのにね。おかしいですよね」 「本当だな。思い出の色ってのは、みんなこんなに綺麗なもんなのかね。もしも俺の思い出が形になったら、どんな色か見てみたいもんだな」 その言葉に、アケルが小さく笑った。くつくつと笑う口許を、沼地の泥で汚れた指で押さえるものだから、顔まですっかり泥まみれ。それでも楽しげだった。 「なんだよ?」 「いいえ? きっとあなたの思い出が形になったら、それは紅葉の赤だろうな、と思って」 「お前の髪の色ってか? 言うようになったもんだ、まったく。だったらお前はどんな思い出を形にするんだかな」 「決まってるじゃないですか。僕の思い出は空駆ける鷲ですよ」 「おい、よせって!」 言い様にアケルはラウルスの髪に手を伸ばした。金とも茶ともつかない不思議な色合いの彼の髪。猛禽の翼の色合い。 「なにを今更!」 すでに泥が飛んでいる。この期に及んでアケルに触れられたからと言って嫌がる意味がないほどに。 「あぁ、もしかしてラウルス?」 「なんだよ!」 「照れました? 意外と言ったらなんですけど。あなたって妙なところでうぶですよね。可愛いですよ、ラウルス。純で無邪気で照れ屋なあなた。寂しがり屋さんで泣き虫で。本当に可愛いですよ」 「お前な!」 「なんです?」 「嫌味なら嫌味らしく言えよ! 笑顔で言うな笑顔で」 「なに言ってるんです? 僕の心からの感想なのに。照れて嫌がるあなたもいいですね。可愛い」 「お前ね」 可愛いを連発するのはどう聞いても嫌がらせた。ラウルスはそっと溜息をつく。やり返せばいいのか、受け流せばいいのか。たまにわからなくなる。 「そんなお前でも可愛いなぁと思う俺はどうかしてるとしか思えんよ、我ながら。悪趣味極まりないのになぁ。まったく。どうしてお前がいいかね?」 結局、やり返すことに決めた。原因はたぶん、竜だ。後ろからつらそうに歩いてくる竜の足音。それが二人の言い合いだかかけ合いだかわからないものに、少しだけ楽になったように聞こえた。気のせいかもしれない、ラウルスは思うけれど。 「僕も思いますよ? あなたみたいないい加減で大雑把な人、嫌いなんですけどね。どうしてあなたがいいんだろう。それどころか可愛いなんて思う自分の感性が信じがたくって」 「まったくもって同感だ。すぐさま怒鳴るわ切れるわ平気で恋人を睨みつけるわ。俺は虐げられて喜ぶ趣味はないはずなんだがな。きゃんきゃん吠えてるお前が可愛くってしょーがねーわ」 「なんですか、その投げやりな声は!」 「だって事実だろ? 第一、今も怒鳴られた」 「それは……!」 言葉に詰まったアケルの負けだった。くっと喉で笑ったラウルスの耳にも届いた声。アケルがそっと振り返って竜を見た。 「もうちょっとだから」 二人のやり取りに、竜が笑ったように聞こえた。笑い声ではなかった。少なくともヘルムカヤールの笑い声とは似ても似つかなかった。それでも二人には。笑い声のよう聞こえていた。 「くだらない痴話喧嘩もたまには役に立つか?」 「役に立っていたとしても、僕らの他に誰もいなくて幸いです。他人には聞かせられない。恥ずかしくって」 「……自覚はあったわけか」 無論、ラウルスの恋人はそれを聞いて黙っているような男ではなかった。竜を聖地の湖まで案内する間中、滔々と文句を垂れ続けた。まるで湖から流れ出す水のように尽きることなく。 |