そこは自然が作り上げた庭園だった。何の作意もなく、整ってもいない。それでもそこはどんな庭園より美しい花園。 「おい、お前ら!」 しぃ、と唇に指を当てつつ男が振り返った。それなのに大声で呼びかけるとはどんな意図が、とアケルは首をかしげるが、ラウルスはこれが衛兵の言っていた馬鹿か、と思っただけだった。 「お前ら、あれか。ドラゴン退治に来たのか!? 仲間か、仲間。いや、渡さんぞ。あれは俺の獲物だからな! いや協力させてやらんでもないがな。手柄は俺だ。いいな?」 「ちょっと待てよ」 「なんだ、不満か。不満ならいいぞ。そこで黙って見てろよ。それだったら俺に文句はないぞ」 胸をそらしていうものだから、衛兵の言葉がいかに控えめなものだったかわかるというもの。アケルはそっと溜息をつく。 「なんだお前。吟遊詩人付きか。手際がいいな。ドラゴン退治の場面を見せて歌わせようって腹か。うん、いいな。俺に寄越せ」 「……なんでそうなる」 「不満か、不満だったら金は出すぞ。おい、詩人。いくらだ、いくらで歌う」 「――あなたに払える額ではないと思いますよ」 額の問題かよ、と小さくラウルスが呟いた声はアケルにだけ聞こえ、彼に睨まれる羽目になる。 「なに言ってるんだ? 俺の養父は領主だぞ。父上は俺に甘いからな!」 ラウルスは首をかしげる。アケルはにっこりと笑う。 「あなたはまだ領主様の御養子ではなかったと思いますけど? それより、ドラゴンですよ」 お前など相手ではないのだ、と美しく儚げな吟遊詩人に言われ、男は頭の先まで赤くなる。無論、怒りにだ。 「ラウルス」 だがアケルはそんな男にかまうことなく、彼を呼んだだけ。溜息ではなく、笑い声を漏らしてラウルスは片手を上げた。了承の意だろう、と男は思ったか。 「手荒な真似は好かんがな」 上げた片手をそのまま男の後頭部に落とし、一撃で気絶させたラウルスは肩をすくめる。アケルは何も答えない、戯言だと思っているのだろう。 「どうするんだ、これ?」 「放っておけばいいでしょう?」 「そうもいかんだろうが。ドラゴン退治にこの馬鹿が出て来たってのは知られてるんだぞ?」 「ドラゴンにびっくりして気絶したってことにでもなりますよ、きっと」 とにかくアケルはこの男にかまう気がまったくないらしい。ラウルスとしても同意したいところではあるのだけれど、少しばかり気が咎めないでもない。 「あなたの民だからですか?」 「違うよ。あんまり馬鹿で気の毒になってきた」 「それは僕らの責任じゃないですから。いい年してなんですか。金で何でも解決できると思ってるんじゃ先は真っ暗ですよ。万が一にもご領主が養子に選んだりしたら民の迷惑ここに極まれりってところです!」 「ははぁ」 少し先に大きな生き物が見えていた。二人はそちらへとゆっくり歩いていく。間違いなく竜だとわかっていてその態度だった。 「なんですか?」 「いや、いくらで歌うかって言われたの、意外と癇に障ってたんだなと思ってな」 「目一杯障りましたよ! ああいう輩は大嫌いです!」 「まぁな」 「吟遊詩人ですからね、とりあえずこの身なりは。金で歌うのが仕事ですよ、確かに。それでも物の言い方ってものがあります。金でどうこうできると思っている根性が気に入らない!」 憤然と言いつつアケルはまったく竜のことを気にしていないように見える。それでいて、意識の隅にだけ竜はいる。 金に対する態度といい、竜への態度といい、こんなところは本当に狩人だ、とラウルスは思う。笑うのではなく、好ましかった。 「なに笑ってるんですか?」 「笑ってねーよ。微笑んでるんだ」 「一緒ですよ」 「どこがだよ? お前が可愛いなぁ、愛おしいなぁ、と思ってるんじゃねぇかよ」 「……その口調、物凄く嘘くさいんですけど」 「馬鹿言うなよ。俺がどんな大嘘ついたってお前は俺の本心を聞き取るだろうが」 鼻で笑えばアケルは黙る。だから図星を突いたのだとラウルスは知っていた。それよりも、ともうすぐそこに迫った竜を見やる。 「ラウルス。渡しておきますから、適当にやってください」 ひょい、とアケルが何かを投げてきた。思わず掴み取ってから掌を見れば、それはヘルムカヤールの牙の笛。 「おい、適当ってな!」 「適当は適当ですよ。頃合を見て吹くなりなんなりしてください」 「投げやりな!」 文句を言いつつラウルスは笑う。それしかアケルにも言いようがないのだとわかっていたから、もうこれは笑うしかないというところか。 合図をしたわけでもないのにぴたりと二人の足が止まった。同時に竜が長い首をもたげた。竜の全貌がそれで、明らかになる。 「あ……」 漏れ出た声もそのままに、アケルはリュートを構える。自覚など何もなかった。ただその目は竜を見ていた。 そして竜が吼えた。怒号ではなく、歓迎でもなく。ただ吼えた。 「わかっちゃいるけど、つらいもんだな」 よく喋り、よく笑いよく怒鳴っていたヘルムカヤール。彼の体から生まれ出た新たな竜たちは、一様に人語を解さない。それどころか明確な思考すらない。悪魔は言った、ヘルムカヤールの名残の面影、と。確かにそのとおりだった。 静かにアケルのリュートが響く。竜の吼え猛る声と調和するよう、音を絡めて行く。少しばかり不思議そうに竜の声が弱まった。 「覚えてますか。あなたは覚えてるんですね――」 アケルが歌う。言葉であり、夢想であり、それなのに歌声だった。 「ほら、見てください。ラウルス」 見ろと言われたにもかかわらず、ラウルスは牙の笛を唇に当てていた。思い切り、吹き渡らせる。不意に、竜の声が止まった。まじまじと二人を見やる。否、その目に映るのは思い出。 「覚えていますか、ラウルス。あの時のヘルムカヤールは、本当に美しかった」 アケルの音が竜を示す。そして過去の思い出をも示す。ラウルスはゆっくりと竜を見つめた。 「あぁ……」 そして思い出す。眼前の竜がヘルムカヤールの面影であるのならば、この竜はあの時のヘルムカヤールの思い出。 「王妃様の庭に降り立ったヘルムカヤールは、緑が滴らんばかりに美しかった」 天然自然の花園の中、竜は翠に煌いていた。草の色、花の色、木々の色。ありとあらゆる緑。 「姫様は、王妃様の庭を荒らしたんだって、怒ってらした」 ヘルムカヤールの背に乗せてもらって王宮に帰還したあの日をラウルスは思い出す。素晴らしい翼が、空色から淡く濃く、緑へと変化する様をまざまざと思い出す。 「あなたは、あの日の思い出」 アケルの歌声が竜へと響く。す、と首を差し伸べてきた竜に手を伸ばしたのは、ラウルス。ラウルスの手でありながら、それはアケルの手でもあった。リュートに触れている彼の代りに、ラウルスが触った、ただそれだけ。 「見て、ラウルス。ドラゴンの目の中に」 まるで緑の宝石だった。どんなに高価で貴重な宝石よりも煌く竜の目の中、ラウルスは確かに見たように思う。 「ティリアが――」 ヘルムカヤールが見た人間の姫の姿が。胸をそらして堂々と竜に文句を言うラウルスの娘の若き日の姿が。 「それに、ご兄弟も」 突如として襲来した竜から姉を守ろうと両脇についたラウルスの息子たち。青くなりながら、それでも姉だけは守ろうとする気概。ヘルムカヤールが楽しげに見つめていた心まで、伝わってくる。 「メレザンドも、マルモルもいるな」 「……覚えていたんですね、ヘルムカヤールは」 「あいつなりに、楽しかった思い出なのかもしれないな」 「僕も、楽しかったですよ」 「あぁ、俺もだ」 互いに言いつつ、竜に言っていた。竜は黙ってそれを聞いていた。ラウルスに首を撫でられながら。ゆっくりと、その目が閉ざされる。心地よさそうに、まるで陽だまりに憩う猫のように。 「ごろごろ言いそうだな」 くっとラウルスが笑えば、竜が鬱陶しそうに片目を開ける。すまん、と詫びるその声が耳に入ったのかどうか。竜は再び目を閉じてアケルの音楽に耳傾ける。 「なにを歌ってる?」 ラウルスの問う声にアケルは答えない。集中しているのか、と見やってもそうでもなさそうだった。不思議そうなラウルスに、アケルの口許が小さく笑う。 「なんだよ、聞こえてんじゃないかよ」 「聞こえてないとは言ってませんよ」 ふう、とアケルは長く息を吐いた。だからやはり、集中はしていたのだとラウルスは知る。肩でも揉んでやろうかと手をかけたその瞬間。 「おい!」 竜が突然に翼を広げた。そして大きく猛り声を上げる。それはラウルスほどの男が一瞬とは言え呆然とするほど。 「大丈夫ですよ、ちゃんと聞いてあげて」 「なに!?」 「ほら」 アケルが指差す。まるでそれに従ったかのよう、竜は翼はためかせ舞い上がる。悠然と二人の頭上を旋回し、そして飛んで行く、どこかに。 「あれは……さよならって言ったのか?」 「そんなところかもしれませんね。僕にも、彼らの声は聞こえないから」 「でも、思い出は聞こえる。あれは、確かにでっかいのの思い出だな。まったく、意外と可愛い思い出を持ってるもんだ。でかい図体してな」 茶化して笑うラウルスの心がアケルにわからないはずもない。黙ってラウルスの腕にすがれば、肩を抱かれた。 「で。どこに行かせたんだ?」 「やっぱりわかってましたか。えぇ……僕の、故郷にね。人里から離れていますし、緑も豊かだ。気に入ってもらえると思いますよ」 アケルの目は、過去を見ていた。大異変により崩壊してしまった禁断の山ではなく。狩人が務めを果たし、聖地の空を竜が舞う、過去を見ていた。肩を抱くぬくもりひとつ。それだけが確かな現在。 |