大急ぎで駆けつけたものの、一足遅かった。領主の屋敷は村から半日、馬で走れば速かったはずだが、二人には自前の足しかない。 「なにがあったんでしょうか?」 旅の吟遊詩人を装ったアケルが門番に問えば、真っ青な顔をした門番は震えて話にならなかった。そこにいた別の男が代って口を開く。身なりから見て衛兵だろう、とラウルスは見当をつけた。 「ドラゴンが――」 「ドラゴン? こんなところに珍しいな」 「疑うのか!? ……いや、それも当然だな。だが、本当なんだ! お庭に降りてきたんだぞ!」 「庭に? へぇ、それでお姫様でも襲われたかい?」 茶化すラウルスに衛兵がかっとする。だがかえってそれで正気に戻ったのだろう、しゃんと立ち上がってラウルスを睨みつける。 「我が君に姫君はおらん!」 「……いや。怒るの、そこかよ」 「言ったのはおぬしだろうが!」 アケルは傍らでそっと溜息をついた。肩にかけたままのリュートを軽く一鳴らし。すっと深く衛兵が息を吸う。それからきょろきょろと辺りを見回した。 「どうしたんだい?」 「いや……なんだか、懐かしい匂いがした、そんな気がした」 面白いものだ、とラウルスは思う。アケルが鳴らしたのはリュートであって、匂いなどないはず。それなのに彼の音色には五感が伴う。音だけではなく、匂いだけでもなく。 「ドラゴンは、どうしたんでしょう。まだお庭にいるんですか? だったら、ちょっと怖いな」 わずかばかり怯えた顔を作り、アケルはラウルスに寄り添う。逞しく力強い恋人に守ってもらおうとでも言うように。ラウルスはといえば、吹き出さない用心に己の尻に爪を立てたほどだった。 「もういないよ、大丈夫だ、心配は要らない」 微笑ましげに衛兵が言う。どこからどう見ても男のアケルなのだけれど、どうにも他人には優美可憐に見えているらしい。時折、目が悪いのはどちらかとラウルスは疑う。 「本当ですか! よかった……。でも、どっちに行ったんでしょう? 僕らが行く方向だったら、やっぱり、怖い」 ちらりとラウルスを見上げて見せる芸達者ぶり。ラウルスはできるだけ自信ありげに優しげに、と心がけてアケルを見つめるけれど、どうにも成功したとは言い難い。その証にアケルはラウルスにだけわかるよう、彼を睨みつけた。 「実はな……ここだけの話だが」 そんな二人に好感を持ったのか、それとも単に話し相手が欲しかっただけか、衛兵は声を潜めて身をかがめ話しかける。 「討伐に行ったのがな、いるんだよ。ちゃんと」 「すごいな! ドラゴン退治の英雄様の誕生ですね! 帰ってきたら、ぜひお話を伺いたいな」 「吟遊詩人だもんな、お前。歌の種が欲しいんだろう?」 「それもそうですけど。でも、素敵じゃないですか、英雄ですよ?」 「残念なことだね。お前の英雄は俺だと思ってたんだけどなぁ」 嘯くラウルスにアケルは頬染めて軽く打ちかかる。そんな二人だからこそ、衛兵の口も軽くなろうと言うもの。 「いやいや、仲がよくってけっこうだな。羨ましいよ。ま、行ったのは英雄にはだいぶ――遠いかな」 「え、そうなんですか?」 目をきらきらとさせるアケル。他意など微塵もない、あるのは純粋な興味。ラウルスですら一瞬の半分ほどは信じそうになる。が、中身はあのアケルだ。とても信じられるはずもない。 「まぁ、こっからが実はってやつでね。御領主様には、お子がない。で、行ったのはってところだな」 「なるほどな。養子候補で武勲を立てたい、と?」 「そうそう。俺らにしてみたら、血気ばっかり盛んな馬鹿なんだけどなぁ。でもドラゴンに殺されるのは寝ざめが悪いなぁってとこ」 ラウルスはそれではじめの衛兵の虚脱ぶりに納得した。好きでもない養子候補の助勢に行かされるかもしれない、と思えば青ざめもする。なにせ相手は竜だ。 「あの馬鹿は、ドラゴン追っかけてあっちに行ったけど……。俺たちはできれば、行きたくないんだよなぁ」 衛兵の指が北の山を、シャルマークとの国境となっている山を指したのをアケルは確かに見た。ラウルスにこくりとうなずいて見せれば彼もうなずく。 「衛兵さんも大変ですね。僕らはそっちに行かないよう、気をつけます。教えてくださってありがとう」 にっこり笑って衛兵がまた寄れよ、と叫ぶ声を背中に二人は足を速める。急ぎつつ、ラウルスが笑っていた。 「なにがおかしいんですか」 「いやぁ、まぁ。お前、可愛いふりがうまいなあ、と思ってな」 「有効なので。使えるものは何でも使うべきですよ。情報は大事ですからね」 「だからと言って顔まで使うか!? そのうち別のものまで使うとか言い出しそうで俺はちょっと怖い」 「そんなこと言うわけないでしょう!? あなたは僕のなんなんですか! 僕がそんなことして平気なんですか!」 「平気じゃないから怖いっていってんだろ!?」 「そもそもそれが信頼の欠如だって言ってるんです!」 「お前の演技があんまり堂に入ってるから、たまには怖くもなる」 声を荒らげていたラウルスが、それだけは静かに言った。アケルは答えない。頭に上っていた血がさっと引く。黙ってラウルスの腕に寄り添い、自分の腕を絡めた。 「おい」 「たまには弾きながら歩かなくってもいいです」 「邪魔じゃないのかよ」 「邪魔ですか」 「俺は、別に。まぁ」 「だったらいいじゃないですか」 鼻を鳴らして、それなのにしがみつくアケル。ラウルスはそっと笑った。彼の仕種を、ではなく、自分の思いを。なぜ怖いなどと思ったのだろう。これが彼で、あちらが演技。容易に区別がつくことのはずが。 「……化けているときの僕は、声に音を乗せてるんですよ。そういう言い方でわかってもらえるかどうか、わかりませんけど」 「音?」 「世界を歌うときの音。僕らは所詮、余所者ですからね。警戒されて当然でしょう? でもいつまでも警戒されてると話しにならない。だから、警戒を解いてもらうんです。それが……」 「無邪気で可愛い吟遊詩人に見えるってわけか?」 「それは余計ですけど。相手にどう見えてるのかなんて僕は知りませんよ。その……音が、あなたにまで影響を与えてるのも、事実なんですけどね。聞こえてるから」 「うん?」 「どっちが本当の僕かわからなくなる。そうでしょう?」 すがりついたままアケルは見上げてきた。その北の海の青い目にラウルスは撃ち抜かれ飲み込まれたかと思った。 「こうやって話してれば、これがお前だって思うんだがな」 「音の影響が抜けるのが早い人でよかったです。あっちの僕で居続けるのは、疲れるから」 「無茶苦茶言って我が儘いっぱいのお前のほうが可愛いってのも、どうかと思うがな」 「それは僕のせいじゃないです。あなたの趣味が悪いせいです」 小さく笑って、アケルは目をそらそうとする。不意にラウルスは気づく。怖いと言ったのが、ずいぶんと衝撃的だったらしいと。そこにあるのは理解されにくい自分と言う存在への寂寥だろうか。 「アケル」 呼ぶだけで、よけいに目をそらした。だから捕まえてしまう。最初からわかっていたから、手も早かった。あまりの素早さに驚いたアケルが目を閉じる隙もない。 「あ――」 抱き寄せられ、肩を包まれ、くちづけられた。唇が離れていってからも、胸の中に包まれた。温かく、彼の鼓動の音がする。 「根性なしの男ですまんな」 「……何を、急に」 「お前を怖がる意味がわからん、我ながら。まぁ、言ってみれば、そうだな。能無しの俺は、お前に相応しいのかな、と思わなくもない。それが不安でもあるってところだ」 「ちょっと待ってください! 誰が能無しですって!?」 「根性なしのほうは突っ込まないのかよ!」 「そんなの自明じゃないですか! 最愛の恋人を捨ててまで自分の責任を果たそうとしたのはどこのどなたでしたっけ!? そういうの、性根が据わってるって言うんです! 地位も才能も能力もある男は誰なんですか! あなたが能無しだったら世界中の男は全員屑です!」 「いや……」 「まだ言うことがあるんですか!?」 「――地位は、ないと思うが」 「あなたは僕の王です! それでまだ不満があるんですか!」 「いや。ないです。はい。ありません」 「けっこう。では急ぎましょう。ドラゴン退治に行った馬鹿をとっ捕まえてなんとかしなきゃいけませんからね」 顎を上げて傲岸不遜。自分の王だと言った男の前で見せるアケルの態度にラウルスは復調を果たす。くつくつと笑えば、いやな顔をしつつアケルも小さく笑っていた。 「なにがおかしいんです?」 「お前も言うようになったなぁ、と思ってな」 「口が悪いのは昔からですよ。姫様にも呆れられたくらいですからね」 「そっちじゃねぇよ」 くっと笑ってラウルスはアケルの肩を抱いた。そのまま歩けば、アケルも嫌だとは言わない。覗き込むように一度見て、それから目をそらす。 「最愛の恋人を捨ててまで? それ、自分で言うか?」 「事実は事実です。多少、歪曲してますけど! 実際、捨てたのは僕であって、あなたは悪くなかったんですけどね」 「そうだったか? 古い話だからもう忘れたよ。いまお前がいる。それでいいや」 肩をすくめたラウルスの、その仕種に従って強く抱き寄せられた気がしてアケルはほんのりと頬を染める。演技ではなく、音のせいでもない。アケルの自然な表情だった。 「――いい」 その表情を視界の端に収めたラウルスがぼそりと呟く。そのほうが可愛い、と。アケルは言葉もなく、それどころか声もなく悶絶した。彼に褒められ慣れてはいる。それでもこんな風に言われるのは、照れくさくてたまらなかった。 |