宿屋は、村人が言うにはこの村はじまって以来の盛況、とのことだった。アケルとラウルスはそっと顔を見合わせて微笑する。以前、訪れたときにも同じことを言われた、と。
 このような身になってしまってしばらくの間は、そう言われるたびに切なさや寂しさに似たものを感じたものだった。今はもう寂しくはない、とは言わない。ただ、以前とは感じ方が変わってきていることも事実だった。
 ただひたすらに、この世界に住む人々が愛おしい。この世界に住まなくなってしまった人々も愛おしい。人間も、サティーも妖精も。いなくなってしまった竜も。
「なんだか世界が毎日きらきらとしている、そんな気がしますよ。僕は」
「あぁ……なんだか、わかる気がするな」
「変わっていって、変わらなくって、それでも少しずつ変わっていく。そんなところを遠くから眺めているせいかもしれませんね」
 人間の身でありながら、人間の間で生きていくことができない二人だからこそ、彼らを眺め暮らすより他に何もできない。
「最近は静かだしな?」
「混沌が再侵略、なんてことになったらまた忙しくなるんでしょうけど」
「そりゃないだろ」
 あっさりと肩をすくめるラウルスにアケルも同じ仕種で応えた。ヘルムカヤールが逝ったとき、悪魔が言ったことだった。天地の御使いの間に協定が発動した、と。
 二人にはいまだその言葉の真意はわからない。おそらく死んでもわからないと思っている。だがわかることがひとつある。天の御使いも地の御使いも、そうそう簡単にこの世界を訪れることはなくなったのだ、と。
 ならば混沌も同じこと。悪魔の世界に満ちるものが混沌であるのならば、それがこの世界を侵すことは難しくなった、と言うことだろう。願わくは、と言うところではあるのだけれど。
「そろそろ行きますよ」
 あいよ、と答えてラウルスはアケルの後ろに従った。宿屋の部屋で一息入れて、これからアケルは稼ぎに行く。
 階下に下りて酒場を見渡せば、とんでもない人いきれ。そして村人が言ったのだ、この村はじまって以来の盛況、と。
「さぁさぁ! 早く弾いとくれ!」
「まずはエールだよ、親父さん。歌い手さんにエールだ!」
「あらあら、彼氏さんにも一杯飲ませなくっちゃ、ねぇ?」
 口々に言う村人の間をアケルは苦笑してすり抜ける。ラウルスは笑いながらアケルに続き、酒場の一角に、と座を定めた。
「では。まずは最近の流行歌でも」
 にこりと笑ってアケルがリュートを奏ではじめる。途端に酒場が静まり返るのがおかしかった。どこをどう切り取っても、清聴するような曲調ではない。むしろ小気味よい手拍子が似合う歌。それなのに、アケルの歌ではいつもそうだった。
「そう聞き入らなくってもいいんですけどね」
 歌いながらぼそりと言うアケルにラウルスは笑いを噛み殺す。そして彼の指がリュートを一撫で。わっと酒場が沸いた。
「まったく」
 聞き入って欲しくない、そんなアケルの願いに人々が反応する。わいわいがやがや、騒いで飲んで踊りだす。
「お前、天下を取れるぞ。それ」
「そんなものとって何が楽しいんです? 我が君?」
「お前ね」
 ラウルスの苦笑にアケルは知らぬ顔。そして曲が変わっていく。このあたりで古くから歌い継がれてきた曲に。童謡、古謡、昔語り。アケルが歌えば今この瞬間にできたかのように新鮮で、時のはじめほどにも古い。
「頼んでいいか?」
「いいですよ、ちょっと待って」
 ラウルスの声に何を聞いたか、アケルはにやりとする。そのアケルをラウルスはそっと見守った。何をしでかしてくれるのだろう、と思えば日々が楽しくてならない。
「褒めてます、それ?」
「聞こえてんだろ」
「えぇ、まぁね」
 歌いつつ、村人には聞き取れない声でアケルが語る。そして新しい歌がはじまった。村人がはっとして耳を傾ける。次いで笑い声が上がる、楽しげで朗らかな。
 アケルは歌う、妖精の悪戯を。先ほど外で歌った曲を少しばかり長くして、これが本当の妖精の歌、とばかりに。
「いやぁ、なんだか懐かしいなぁ」
 歌の終わりに男が言う。エールを掲げ、何ものかに乾杯をしつつ。
「最近は妖精の悪戯もめっきり減っちまって。お目にかかってないもんなぁ」
「なに言ってんだい、やられたらやられたで一番に鶏冠にきてたのは誰だっけねぇ」
「それを言うない!」
 頭を抱える男と茶化す女。あるいは夫婦なのかもしれない。アケルとラウルスは眼差しを交わして微笑みあう。そしてラウルスは軽く片目をつぶって酒場から出て行った。
「いつだっけね? ほら、子馬の鬣をきっちり編まれちまって。あれを解くのにはほんとに難儀したよ」
「絞ったばっかのミルクがちょっと目を離した隙にチーズになってたこともあったっけなぁ」
「あれはありがたかったがね」
「そうかぁ? そりゃ、あんた。全部を見てないからだよ! 上のほうはちゃんとしたチーズだったがな、中は蛙入りだったぜ!?」
「蛙かよ!?」
「蛙だよ!」
 言い合って笑う村人の顔を見つつ、アケルは静かにリュートの弦を弾いていた。もうここは以前のアルハイドではない。
 それをまざまざと感じる。妖精の悪戯が減ってありがたいと笑う人々。もう彼らがいないのだとは知らない人々。
 少しだけ責めたくなってしまう。なぜ知らないのだ、と。同じ世界で暮らしてきたのに、と。
「僕も、一緒かな」
 昔、禁断の山の狩人であったころ。妖精とは身近な「昔話」であって、決してすぐそこに住んでいる異種族、だとは思っていなかった。何度か見かけたことがあったにもかかわらず。
「お前も大人になったもんだ」
「なんですか、急に!? 驚いたな。もう戻ったんですか」
「お前を一人にしておくのが怖くってな」
「なに馬鹿なことを言ってるんです」
 いま出て行ったと思ったはずのラウルスがもう戻ってきた。そう思ったけれど辺りを見回して違和感。村人の顔がだいぶ赤くなっていた。
「……ほらな?」
 時が過ぎ行くのすら気づかずにリュートを弾いていた、とラウルスは笑う。
「別に、でも。危ないわけなんか、ないですし」
「問題はそこか?」
「違うんですか?」
 アケルの問いにラウルスは眉を上げることで答えに代えた。はぐらかされた、と感じたのだろうアケルがふい、とそっぽを向く。今夜はこの分ではなだめすかして嘆願しなければ相手にしてもらえそうにない。そう思った自分をラウルスはそっと笑った。
 翌朝、すっかり機嫌が戻った事に不機嫌になったアケルの耳に村人のざわめきが届く。ちらりと隣のラウルスを見やれば、服も着ずに寝息を立てていた。
「いい気なものなんだから」
 国王時代にはこんなことはなかったのに、と思えば少しだけ笑えてしまう。どんなに強力な睡魔に襲われようとも、身づくろいだけはして眠った人だった。
「なにがだよ?」
「なんだ、起きてたんですか?」
「お前の声で目が覚めた」
 すい、と腕が伸びてくる。かわすより先に引き寄せられてしまった。裸の胸に頬寄せれば、目覚めたばかりの男の体は熱かった。
「前はちゃんと服を着てから眠っていたな、と思ったらおかしくって」
「お前は……前からこうだよな?」
 にやりと笑ってラウルスはアケルの首筋を一撫でした。するりとした指先が、そのまま下に流れて行きそうになってアケルは慌てて彼の手を捕まえる。
「ちょっと、ラウルス!」
「ちゃんと着て寝ろよ。風邪ひくぞ」
「あなたに言われたくないです! だいたい、そう思うのなら身づくろいする余裕を残してください!」
「ははぁ。なるほどなぁ。あんまりよくって、ついそのままうっかり寝ちまう、と?」
「そんなことは言ってないでしょう!」
「俺は聞こえたね」
 機嫌よさそうに鼻を鳴らしたラウルスが体を起こす。抱きかかえられていたアケルも同じように起こされてしまった。
「外が騒がしいなぁ。何があったんだろうなぁ」
「……ラウルス」
「なんだよ?」
 目を丸くして首をかしげて彼はアケルを見ていた。アケルは長い溜息をつく。わざわざ肩まで落として見せた。
「あなた、白々しいって言葉、知ってます?」
「知ってるけどそれがどうした?」
「もういいです! 僕は外を見に行きたいです! あなたはどうするんですか、ついてくるんですか違うんですか!」
「はいはい、お供いたしますよ」
 投げやりなのに、奇妙に楽しそうなラウルスだった。アケルは彼が何かをしたのだとは、わかっている。何をしたのかが、わからなかった。
 下におりてみれば、酒場まで大騒ぎだ。人の間を縫って外に出て、騒ぎの元へと歩いていけば、それはそこにいた。
 危うくアケルは吹き出すところだった。なんとか懸命にこらえるけれど、頬の辺りがひくりひくりと引き攣り動く。
「おいおい、あんた! これ見てくれよ!? 妖精だよ、妖精! そうだよな!」
 男が自慢げに連れているのは、立派な馬だった。こんな小さな村では一財産だろう。人の騒ぎに馬が嘶く。うるさい、と言ってでもいるようだった。
「あぁ、本当ですね。妖精の仕業だ!」
 笑ってアケルは男に言った。男が連れている馬の鬣は、見事に編まれていた。アケルはくすくすと笑い続ける。あんなに丹念に編んでしまっては、解くのが大変だろうと。それ以上にラウルスが一人ちまちまと薄暗い厩で鬣を編んでいたのかと思えばおかしくておかしくて腹がよじれそうだった。
「お前ね、笑いすぎだよ」
 耳許でこっそりとラウルスに囁かれ、アケルは我慢ならないとばかりに吹き出した。息が苦しくなるほど笑い転げ、それでもまだ収まらない笑い。呆れ顔で見ているラウルスは、それでもどことなく満足そうだった。




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