はっとして、辺りを見回した。見覚えがあるようで、見たこともない土地。二人と黒き御使いはそこに立っていた。
「ここは……」
 どこだ、と首をかしげるラウルスの声に、アケルは悟る。黙って腕を引いて促せば、彼の目にも映るもの。
「妖精郷か!?」
 かつてはサティーたちが遊んでいた場所。混沌を溶かした泉がひっそりと静かに光を弾く。静謐だった。
 何一つとして生き物の影のない土地にきてしまったかのよう、静かだった。歌う鳥の声すらない。そこかしこにいた妖精の姿はもう、どこにもない。みな幻魔界へと移ってしまった。
「もうここは、あなたがかつて治めたアルハイドの地。神秘のティルナノーグではなく、ただの大地に過ぎなくなってしまった――」
 アケルの囁き声に忍び込む切なさ。またひとつの時代が終わってしまった哀情。サティーたち魔族は去り、妖精も今ここに消えた。
「来るがいい」
 黒き御使いの言葉に、二人は黙って従った。ただ無言こそが似つかわしかった。この、過ぎてしまった時代に。逝き過ぎる時の流れに。
 御使いは、少しずつ足を進めては泉へと近づいていく。アケルは思う。御使いならば滑るように、あるいは翔けるように行くことができるはずなのに、と。だからそれは、もしかしたら人間への心遣いであったのかもしれない。
「な……」
 ラウルスの足がまず止まった。アケルは彼が止まるのと同時に走り出す。泉のほとりへと。まさかと思った。やはりとも思った。
「ヘルムカヤール!」
 世界の美を映す竜は、その巨体にもかかわらず、泉にひっそりと身を横たえていた。まるで泉になってしまったかのように。巨体が、酷く小さく見えた。
「なぜ、あなたは!」
「大きな声を出すでない、小さいの! 耳に響くわ!」
「あなたの耳ってどこですか!? 人間の僕には場所がわからないんですけど!?」
「わからなくともあるわい! だから怒鳴るな! ちっこいの、躾けろと言うておろうが!」
「前も言った。無茶言うな」
 ゆっくりと歩み寄ってきたラウルスが、恐れの予感を吹き飛ばすよう笑った。が、それはかそけきもの。とても笑い飛ばせはしなかった。
「このお方が、お前たちの言っていた、黒き御使いかね?」
 ヘルムカヤールの眼差しが、いまは泉の色を映して悲しいほどに穏やかな目が、御使いを捉える。何を納得したのだろう、竜はゆっくりとうなずいた。
「我の最期をこの二人に見せるとは、なんとも惨きことをなさるもの」
 竜の非難に二人は身を硬くする。アケルは馬鹿な、とでも言いたげに首を振っては竜の首に手を添える。その手がすくんだ。
「なぁ、小さいの。もうわかっておるだろう? 小さいのは、歌を聞くものなぁ。我の歌が聞こえておるだろう?」
「……聞こえない。全然、聞こえませんから!」
「嘘をつくでないわい」
 からりと笑う竜の声に、アケルの眼前が霞んでいく、涙に。ラウルスがそっと肩に手を添えてくれなければ、この場で泣き喚いて崩れ落ちそうだった。
「古き血に連なる竜に問おう。なぜあちらに移らなかった?」
「ここは我が生まれ、育ち、眺め暮らしてきた世界にて。加えて申すならば、我が友が生きる世界にて」
「だから黙ってここで死ぬか。なるほど、定められし時のあるものの考えは俺にはわからん」
 うなずく御使いに、悪魔に、殴りかかれたらどんなに気が楽になるだろう。アケルは唇を噛みしめて御使いを睨む。
「我が友は長い時を生きねばならぬのでしょう。ならばその友にせめて慰めを。この場に我がおらんでも、遠いどこかにいるかもしれない、希望をせめて。そう思っておりましたものを」
 長い溜息にアケルは疲労を聞く。いまだかつてないほど、竜の心の歌がアケルには聞こえていた。命尽きる時が近いからこそ。聞き取りにくい異種族の歌が、いやになるほどよく聞こえた。
 そしてはじめて理解する。竜の命が尽きようとしているその理由を。優しい竜は、サティーたちにその生命の根源に潜む混沌を分け与えていた。自らの命で養うように。そんなことをしなければ、ヘルムカヤールが死に瀕することはなかった。そうしなかったらサティーたちは死んでいた。今更わかる子守の真相。
「……僕は、この耳を、世界の歌い手の耳を呪います。こんな耳、なければいいのに」
「そう言うでない、小さいの。考えてもご覧、小さいの。お前はその耳で、我の歌を覚えていてくれるだろう? もしかしたら歌ってくれるやもしれんな? いつかどこかで、我は我の歌を聞くかもしれんなぁ」
「なに言ってるんですか! そう思うなら、移住してください! 世界の幕を隔てても、僕の歌を届かせてみせる!」
 アケルの言葉に、ヘルムカヤールの目に薄く淡い艶やかなものが浮かんで消えた。それは涙であったのかもしれない。ラウルスは目の惑いのようなそれを、しかし確かに見たように思った。
「異世界は遠いだろうが。だったらここで聞くさ、小さいの。我とも約束だ。いつか必ず歌え、いいな?」
 アケルは赤い髪を振り乱し、炎のように首を振る。アケルの心のように、激しく悲しく美しかった。それに竜は目を細め、ラウルスを見る。けれど言葉はアケルに。
「約束せい、小さなアクィリフェル」
 ラウルスはアケルの肩を支えたまま、一瞬とは言え自分の体を硬くした。彼は思う。また一人、彼をアクィリフェルと呼ぶものがいなくなった。否、もう自分しかいないのだと。
「アクィリフェル?」
 名残の記憶のよう、竜は呼ぶ。彼の本名を。もう二度と呼んでやることはできないのだからとでも言うように。
 アケルにも、ついに納得せざるを得ないときがきた。ぎゅっと唇を噛みしめたまま、うつむく。そして顔を上げたとき、晴れやかな笑顔がそこにある。痛みを押し隠してはいたものの。
「えぇ、約束です。でも僕は僕なりに歌いますからね! 苦情は受け付けませんから!」
「なにを言うか! 色々と注文はつけさせてもらうぞ、なんといっても我が主人公なのだ。この上なく素晴らしい歌でなければならんぞ!」
「僕の生涯で二番目に素敵な歌にしますよ、ヘルムカヤール」
 竜は少しばかり笑ってうなずいた。そしてじろりとラウルスを見やる。
「一番はお前か。ならば納得せねばならんの、ちっこいアウデンティース」
「すまん。許せよ、でっかいヘルムカヤール」
 片や人間、片や竜。二者の間に行き交うものを何と呼ぶのだろう。友情と呼んでもなお足らなかった。
「さて、我はそろそろ眠るよ、二人とも。我が眠ったらな、そのお方にお頼みして、我の牙を取るがよい」
「なに言うんですか!?」
「だから怒鳴るな、と言うておろうが! 小さいアクィリフェルにちっこいアウデンティース。我の牙はお前たちの助けになるよ。我の牙を取れ。我にも手助けをさせい」
 竜の懇願に、アケルはその長い首に顔を埋めた。目覚めることのない眠りについた竜の体を損ねられようか。だが彼の望みを絶てようか。
「アケルは了解したみたいだぞ。俺もあんたが側にいてくれると思うと、心強いな。でっかいヘルムカヤール」
「なにを頼りないことを言っておるか、ちっこいアウデンティースは根性なしだの。小さなアクィリフェル。これからでも考え直すには遅くはないぞ。気を確かに持って進めよ」
「……ちょっと、遅すぎたみたい、です。だから、大丈夫です。心配しないで、ヘルムカヤール」
 何度も何度も互いの名を呼び合う。アケルの掠れた涙声に、竜はただ微笑んだ。ラウルスの無言の微笑に心を励まされた。
「では、お頼み申しますぞ」
「心得た。休むがいい」
 御使いの答えとともに、竜の瞼が閉じられる。巨体が大きく呼吸をし、そして小さくなって動かなかった。
「……ヘルムカヤール」
 アケルは生命の失せた竜の首を、いつまでも撫でていたかった。だが静かに歩み寄る御使いに阻まれ、睨みたくすらなってしまう。
「かくして、夢と幻想の主は逝ったか。命のなんと美しく儚いものか。だからこそ、我らは強く惹かれるのではあるがな」
 御使いの指先が、愛撫のように竜に触れ、そしてそのままアケルに向かって差し出された。
「え……なんでしょうか」
「取るがいい」
「……これは」
 アケルは手渡されたものに目を見開き、そして竜の体を見やる。何一つ損なわれてはいなかった。それなのに、竜の牙は手の中にあった。
「お礼申し上げます、黒き御使いよ。ヘルムカヤールの体をそのままにしてくださったことに」
「なんの。美しきものを愛でるのは我が性。ただそれだけのこと。壊してしまうには、あまりにも美しい」
 御使いの目が、そっと細められては眠る竜を見つめた。その眼差しに、芯からの感嘆を見とってアケルは心の底から湧き上がるものを抑えきれなかった。
「ありがとう存じます。あなたを崇めてしまいたいほどに、感謝しています」
「では崇めてはいない、と言うことになるな?」
 楽しげな御使いの声にアケルはうなずく。そのアケルの表情が少しだけ明るくなったのに目を留めて、ようやくラウルスは息をつく。
「それが御心に適うかと」
 だがほっとしたのも束の間。アケルの不遜と言ってもまだ生ぬるい言葉にラウルスは背筋を凍らせた。それを溶かしたのは御使いの哄笑。
「これだから人間界はやめられん。実に楽しい我らの遊び場。協定が発動した以上はこれまでのよう頻繁に訪れることがかなわん我が同胞に同情しようか」
 アケルとラウルスには十全に理解することはできない協定と言うもの。憶測をするならば、今後は天の御使いも地の御使いも人の世界を訪れることはない、らしい。黒き御使いの言葉にはそれ以外に含みがあるような気がするものの、人間にはわからないことだった。
「心躍る一時であった。はじめは礼代わり、ここに運んでやるだけのつもりだったが……名残の面影をやろう」
 黒き御使いの手が閃いた。閃光として、漆黒の闇だった。目を焼いて、心なだめる闇色の光。ラウルスは咄嗟にアケルをその身で庇う。だがその必要はなかった。
 二人は御使いが消えたのにも気づかなかった。それよりも更に目を奪われたもの。ヘルムカヤールの体から沸き立ち舞い上がるもの。
 無数の竜だった。ヘルムカヤールに似て、似てはいない竜。ヘルムカヤールの夢であり、幻だった。生まれたばかりの竜たちは世界の色を映してその身の色を変えることはない。ヘルムカヤールの様々な一時をその身に留め、あるいは夕陽の赤に、あるいは晴れ上がった空色に。雪の白、草の緑に海の青。それらはみな、ヘルムカヤールの思い出だった。




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