黒き御使いの肯いに二人はほっと息をつく。それだけでよかった。それで充分だった。悲哀はいまは心に秘め、二人は眼差しを交わす。不意に輝ける光と眩き闇が別たれた。 「かの世界を歌うものよ。奏でるがいい」 闇の声にアケルは自ら知らずうちにリュートを構える。ひと撫ですれば妙なる音がした。 「我が剣の使い手よ。招くがいい」 ラウルスはアケルの背後に立つ。問うことはできなかった。それなのに、為すべきことを知っていた。リュートの邪魔にならないよう、軽く彼の肩に手を置けば、うなずく気配。 そして音楽がはじまった。この世界に響くはじめての楽。胎動の、そして生まれいずる苦しみと悲しみの。あるいはたとえようもない喜びの。 「うふふ。素敵」 「いやん、キノもなの!」 「素敵、素敵。いい音楽ね? 音楽ね?」 サティーたちが口々に言い、踊りだす。旋回し、手を打ち鳴らす。弾む足取り、差し上げる腕。サティーたちもまた、音楽だった。思わぬ形であの日のラウルスの望みが叶う。キノとピーノにパーン。彼らが揃って楽しげに舞い踊る、その姿。 その足元に浮かび上がるかそけき光。アケルがリュートを奏でれば、光は煌き、サティーが笑う。ラウルスは見ていた。アケルと同じものを見ていた。あるいは、聞いていた。 「これが……」 世界の歌い手が見ている世界。彼が常に耳で聞く世界。光と闇があふれ、眩暈すらしそうなほどに鮮やかな。 「ラウルス」 アケルの声にラウルスは息を飲む。そして眼差しをあげた。その手にラウルスは剣を取る。銀に漆黒に輝く魔王の佩剣を。抜き放てば、サティーのさんざめき。うっとりとした溜息の中、輝く光だけが、かすかな不満を漏らす。いまラウルスはそれを聞いた、アケルと同じように。そしてラウルスは剣を掲げた。 「女王メイブ、我が召喚に応えられよ。かつてすべてのアルハイド王が女王の召喚に応えたように」 声と共に、ラウルスは見た。聞いた。彼の眼前に、アルハイドの景色が広がる。遠くに響くアケルの音楽。大陸に散らばる妖精たちがメイブの下に参集する。悪戯を好む妖精族にして、一切の遅滞なく。 「東雲の衣装まといしお方。麗しのメイブ女王」 アケルのからかうような声音。それは歌だったのかもしれない。単に呼ばわっただけなのかもしれない。いずれにせよ、それは妖精を招く楽となる。 「うふふ、できたの」 ピーノの声が聞こえたような気がしてラウルスは視線をそらす。そして呼吸を止めそうになった。膨大な人数のサティーたちが踊る足元、広大な妖精の輪が出現していた。 「妖精郷の番人、シルヴァヌスよ。輪を越えられよ」 ラウルスの声と共に、妖精の輪が輝く。目を焼く光ではなく、甘く切ない黄昏の光。そしてそこに生ける樹木たるシルヴァヌスがいた。 番人は辺りを見回し、そして輪に向かってうなずいた。少なくとも、そう感じられる気配がした。同時に、待ち構えていたかのよう、次々と妖精たちが飛び出してくる。 人間の姿に似て似てはいないフェイたち。蝶のような鮮やかな羽を持つ小さな妖精。岩石そのままのようなアーシス。アケルは水蛇のハイドラすら見た気がした。 「よくぞ参られた、メイブ女王」 輪の中から、最後に現れたのは女王メイブ。アケルの歌が作り出したかのような美しい青紫の衣装が体にまとわりつき、ほどけては絡みつく。 「アルハイド王の召喚ゆえに」 ふわりとメイブが笑みを作った。その笑みにラウルスは息をつく思いでいた。先日来、女王の表情にあった影が、形もなく消えていた。 ゆるゆると流れるアケルの音楽が、妖精を導き尽くし、そして新たな居場所を寿いで、風へと消えて終わりを告げる。 「ここに、幻魔界創世を宣言する」 輝ける光がそう告げた。 「同意しよう」 眩い闇が肯った。 その瞬間、世界は呼吸をはじめた。真に世界が生まれ出る。生き生きと動き出し、世界が世界として形あるものとなる。 「なんて……」 歌い続けてわずかに掠れたアケルの声にラウルスは驚愕と憧れを聞いた。それほど、素晴らしかった。 魔王の言葉にこそ、世界は息づいた。ただそこにあっただけの樹木が、樹液を通わせ水を吸い上げる。風は色づき、花は甘く香る。滴る花の蜜に、早速と小妖精が喜びの声を上げて吸いついた。 「聞いたようだな、人間よ? やはりこの世界は幻魔界と呼ばれるらしい、我が君の仰せのように」 からかう黒き御使いの声に、輝ける光たる天使が閃光を放つ。それは怒りであったのかもしれない。わからなくて幸いだ、とラウルスは思う。 「輝ける我らが玩具たるお方よ。俺で遊んでいる暇はあるまい? 何しろ、規律規範こそを旨となさるのだから」 これに比べれば、アケルがかつて敬称を蔑称のように呼んだ声音など赤子の泣き声も同然だ、とラウルスは思う。アケルは更に顕著だった。ぞっとして体を震わせる。その肩にあるラウルスの手がなければ、倒れ伏していたかもしれない。 「戯言を。――よろしいか」 黒き御使いの言を切って捨て、光は闇へと言葉を向ける。アケルはなぜか闇が微笑んだ気がした。 「天を導く我が告げる。我が名にかけて今後再び悪魔と相争うことを禁ずると。境界を侵さぬ限り滅ぼしはせぬと」 ラウルスは見たように思った。天使の手に黄金の剣があるのを。抜き放ったそれは、太陽よりも光り輝き夕暮れのように美しかった。 「ならば告げよう――」 眩い闇が口にした瞬間、生まれたばかりの幻魔界が耳を澄ませた。世界そのものが魔王の言葉を聞かんと。 「黄昏の星たる愛しき弟よ。我が愛にかけて誓おう。我が配下が二度と天を騒がせることはないと」 「かつて兄であった悪魔よ。御身はいかがする。その誓いに御身は含まれてはいない」 「――変わらず生真面目なことだ、変わらぬそなたが愛おしい」 「戯言を抜かすのならば協定は――」 「交わしてつかわす。我が身も含め、天を騒がさぬ。我が玩具を壊したくはないゆえな」 交わされる言葉の意味など少しもわからなかった。それなのに壊したくない玩具と言うものに二人の住む世界が含まれているとアケルは気づいた。そっと背後を窺えば、ラウルスのうなずく気配がする。 「ここに協定は交わされた。去るがいい、汚らわしき者どもよ」 告げるなり、光が空に舞い上がる。それを興味深い、と言うには意地の悪い目をして黒き御使いが眺めていた。 「この協定の地にて再びまみえる日を楽しみに待つ、愛しき者よ」 眩い闇が告げ、光は消えた。ときを同じくして、闇もまた、解け消えた。アケルの耳に音が戻ってくる。最初に聞こえたのはサティーたちの笑い声だった。 「いやはや、緊張したな」 そして気の抜けるようなラウルスの声も。どこがだ、と言い返したい気持ちだけはあった、アケルにも。だがとても気力が追いつかなかった。 「それでか? とてもそうは見えんな、人間よ」 幸いなのかどうか。黒き御使いが言い返してくれたことをアケルはありがたくも思う。リュートに縋り、弦を弾く。それで幾分なりとも気力が甦った。 「ティルナノーグの女王。旅はいかがでしたか」 佇むメイブはいつになく美しかった。アルハイドの大地にあって永の年月に淀んだ疲れがその身から一瞬にして取り去られたかのように。 「快適でしたよ、世界の歌い手。あなたの音楽が、我らを導いてくれましたから」 「……女王、ご存知だったんですか」 「アルハイドを去らねばならないことを、ですか? いいえ。わたくしたちは、あのまま静かに消えていくつもりでしたよ、世界の歌い手」 声音の中にはじめてはっきりと女王の声を聞いた。限りない感謝と喜びを。メイブが背後を振り返れば、すでに世界に散っていく彼女の民。ただシルヴァヌスだけが静かに女王を待っていた。 「メイブ、従者の一族が長く世話になっていた。望みがあれば言うがいい」 黒き御使いに、メイブがすらりと頭を下げた。そのことにラウルスは驚きを禁じえなかった。あの女王に屈するものがあるとは思っても見なかったこと、と。 「あるがまま、為すがままに生きていくことをお許し願えるならば、それに勝る喜びはありませぬ。我が民は、自由こそを愛しますゆえに」 「我が君の意に適う。麗しき夜明けの星は何者にも屈さぬ。屈さぬゆえに、膝折らぬ者をこそ愛おしむ」 「天なる方はいかがでしょうか」 「なに、気にすることはあるまいよ。いずれ闇の手が触れたそなたらが存在する世界だ。幻魔界には用がなければ訪れん」 「用がありましょうや?」 「ないだろうな、頻繁には」 鳩のよう、黒き御使いが笑う。メイブが微笑み、そして妖精はこの地で生きる。サティーたちがメイブに走りより、まとわりついては歓迎にと踊りだす。 それはありえない美だった。アケルはただひたすらに彼らを見ていた。見て聞いて、少しでもこの心にとどめようと。 それなのに、なぜか心にある空虚。アケルの指が本人の知らぬ間に弦を弾いた。 「アケル?」 その体の強張りに、アケル自身よりラウルスが先に気づく。息をすることすら忘れ果てたかのよう、アケルは呆然と辺りを見回した。 「……いない」 「なに? アケル、しっかりしろ。それじゃわからん!」 「いないんです! ヘルムカヤールが、いないんです!」 絶叫に、ラウルスが確かめるよう辺りを見回す。メイブが目をそらし、サティーたちは空々しく踊った。 「女王、言うべきことがあるのならば今ここで告げてもらおう」 厳しい王の声に、メイブの目が光を放つ。怒りではなく、憤りですらなく。ラウルスは見た。その光を、悲哀と言う。 「……そんな」 それを見たのはラウルスだけではなかった。アケルもまた。まるでこの世界の歌を聞こうとするかのよう、リュートに手を置き耳を澄ませる。世界は歌っていた。ヘルムカヤールの不在を。 「我が君は、幻魔界に命が満ちるのを望まれた。ゆえに、人間たちよ。褒美を取らせよう」 黒き御使いが夜空のように翼を広げる。はっとしたよう、キノとピーノが走ってくる。二人が手を伸ばした瞬間、アケルとラウルスは御使いの漆黒の翼に包まれていた。 |