服を着る間にもサティーたちは容赦なく二人に群がった。おかげでいまだ半裸の有様。
「キノ! 返してよ、お願いだから!」
「いやんなのー。楽しいの、会いたかったのなの、ね?」
「それはそうだけど……って、そうじゃなくて!」
 悲鳴じみたアケルの声にサティーたちが笑う声。それを長閑に眺めていられるラウルスでもなかった。彼の服もまた、サティーたちが奪い合いをして悪戯をしている。
「こら、ピーノ! いい加減にしろって!」
「いい加減てどんな加減? うふふ。楽しい。うふふー」
 見たこともない場所をサティーたちが走りまわり踊りまわる。ラウルスは少しだけ、頭を抱えたくなった。
「人にゃ見せられん」
 ようやく奪い返した脚衣を穿き、ぼそりと呟く。アケルなど、やっとのことで下着を取り返したばかりだ。そそられる眺めではあるが、他人がいなければ、のこと。
「ピーノ!」
「うふふ。なぁに?」
 きゅっと、ラウルスの服を腕に抱いたサティーに彼はにこやかな笑みと共に忍び寄る。
「あ、ずるいの!」
 そして笑顔のまま警戒の薄れたピーノから服を奪還した。ちらりと見やれば、アケルはまだサティーに遊ばれている。
「聞きたいことがある。いいか?」
 わずかに厳しさの増したラウルスを、ピーノは首をかしげて受け入れた。こくりとうなずく様にラウルスはほっと息をつく。また遊ばれてはかなわなかった。
「ここは、どこだ?」
 ラウルスの声にアケルがはっと振り返る。真剣な表情なのに、いまだほとんど裸だ。思わず口許が歪んでしまったラウルスに彼は険悪な目を向けた。
「助けてくれたっていいでしょうに! 自分ばっかり先に着て!」
「それはお前の要領が悪いせいじゃないのか、うん?」
「うふふ。答えなくっていいの? いいなら、遊んじゃうの。赤毛のお友達と遊んじゃおうーっと」
「僕じゃなくて王様のお友達と遊んで!」
「アケル。つられてるぞ」
「……うるさいです!」
 うっかりサティーたちの口調のうつってしまったアケルをからかい、ラウルスはピーノの腕を取る。その場に座らせて話しを聞こうと言うのだろう。ピーノは逆らわなかった。
「だから、服を返して!」
 世界の歌い手の絶叫に、ラウルスは顔を顰めた。見れば数多いるサティーたちのすべてが顔を歪ませている。素晴らしい声量、と言うより凄まじい威力、と言うべきだろうか。
「――返してやるがいい」
 涼しい風が吹いた。それなのに、風はねっとりと甘かった。奥底に潜んだ深い苦味を感じられるほどに。さっとサティーたちが道を開け、くすくす笑いながらも膝をつく。まるで偉大な主人を迎えるように。
「な……」
 まさかここで見ることになるとは思わなかった。ラウルスの表情はその驚愕を語る。ひょこりと飛び出してきた一人のサティーがアケルの服を同族から取り返し、彼に手渡す。その足取りは彼にだけ聞こえる音楽があるかのよう。見ればあの時のパーンだった。
「黒き御使い――!」
 漆黒の中、一点だけ赤い耳飾りをつけた悪魔がそこにいた。ラウルスは知らず身震いをする。人間にはあり得ない美がそこにある。美などという言葉すらもが霞むほどに。
「なぜです、黒き御使いがなぜここに」
 わずかにラウルスの声が震えた。なんとか服を着終えたアケルが彼の側に戻りその手を取る。アケルのラウルスが動揺を見せるのは珍しいことだった。
「ここ、と言うがな」
 かすかに御使いが笑った。その漆黒の目が辺りを見回す。存分に見つめ、舐めまわし、味わう。俗な眼差しに漂う気品にアケルは言葉を失った。
「……あなたは、別人のようだ」
「ほう。中々いい勘をしている。あのときにもそう言ったがな」
「御使いよ、ここはどこです。あなたはなぜお変わりになった」
 果敢に問うラウルスに、アケルは寄り添うことで動揺を静めた。驚いているのも、緊張しているのもラウルスではなかった。自分。声の震えさえ、そう感じただけ。アケルはただ静かに呼吸をする。耳を澄まし、声を聞こうと。
「アケル、どうした」
 ぴたりと、一切の動きを彼は止めた。頭を振り、耳を傾ける。唇を噛み、何度も何度も繰り返し、また繰り返す。
「アケル!」
 その姿にラウルスは恐怖を覚えた。正気を失ったようなアケルの仕種に、知らず手が出た。
「あ……」
「すまん。殴らせてもらったぞ」
「いえ……。ありがとう。でも」
 わなわなとアケルは唇を震わせていた。そしてその目がすがるよう御使いを見つめる。このようなときだと言うのに、ラウルスは不快だった。
「ここは、どこです。僕らは、どこに連れてこられたんですか……」
 震えてうまく言葉が紡げない。それでもアケルは問う。頭を振り、せめて正気を保とうと。そのアケルに悪魔がうなずく。
「二人とも、さすがと言っておこうか。ここは――」
 悪魔の眼差しが世界を示した。二人は見たこともない景色。木々すら、見覚えがない。草は草の色をしていた。空も空の色をしていた。だが、ここは。
「僕らの……世界じゃ、ない……」
 アケルの声に御使いはとろりとうなずいた。わかっていたはずだった、ラウルスにも。アケルが何を言うか、漠然とではあっても感じてはいた。だがしかし、実際に聞くとなればいかに。
「そのとおり。さて、この世界をなんと呼ぶのか、俺は知らんがな」
 にやりと御使いが唇を歪めた。その言葉に。アケルはラウルスの手をきつく握った。ここは御使いですら知らない世界なのか、と。
「それは否定をしておこうか。あながち間違いでもないが」
「どういう、ことです」
「ここは――」
 ふと御使いが言葉を切った。そして彼もまたサティーのよう膝をつく。まるでそれこそが戯れのように。
「妖精、魔獣、神なる獣。命あるもの、亡き者。美しきも醜きも。これらをなんと名づけられましょう」
 艶然とした御使いの声。二人は動くこともできなかった。すぐ目の前に輝ける存在がある。眩く輝く漆黒がそこにある。否、いる。
「幻魔と名づく。もっとも――、あの者は気に入るまいが」
 喉の奥で笑うかのような声がした。ラウルスはアケルの、アケルはラウルスの手をとり続ける。それが命綱であった。
「あなたの仰せこそが至上にして唯一。美しき暁の御方よ」
 黒き御使いの言に二人は確信した。そして存在がいる、としかわからない理由までも。ここにいるのは御使いの主、闇に属し、混沌を従える魔王その人。だからこそ、知覚ができない。万が一にも識ってしまったのならば、人は人でなどいられるものか。
「至上にして唯一。それは我が神のこと。愚弄するか、悪魔」
 切りつけるかの声がした。人間などいかにも卑小。魔王が輝ける闇であるのならば、現れた新たなる存在は、光輝そのものだった。
「神など所詮は我らが戯れ。玩具のひとつといい加減に気づけばよいものを。楽になれるぞ、輝かしき天使よ」
「ぬかせ。切って捨てられたくなければ黙ることだ、汚らわしき者め」
「なんと寂しいことを言うものか。かつては――」
「――控えよ」
 静かな威容というものがここにあった。魔王の制止に黒き御使いは無論、即座に従った。目にだけ笑みを閃かせ。だがなお。二人は見た。光輝たる存在すら、一瞬とはいえ動きを止めた。それだけではない。光がそうであるのならば、それ以下の存在など。
 アケルはそっと目だけを動かそうとしてかなわない。ただ気配だけで知るよりない。それで、充分だった。この世界のすべてが、闇の主に従った。息を止め、命を止め、風もせせらぎも星々も太陽すらもが。
「生きるを許す」
 魔王の一言が、世界の命を永らえさせた。アケルは深く息を吸い、呼吸ができるのをはじめて知った。それまで、真実命を失くしていたのだとも。
「語るがいい。我が傍らにあるものよ」
「麗しの暁が仰せとあらば従いましょう。聞け、人間よ」
 すらり、黒き御使いが立ち上がる。膝をついて見せたも屈従もすべては戯れ。そしてそれを嘉納する魔王と知ってのその姿。
「すでに気づいているだろうな? 妖精族のことだが」
「……混沌、と言っていいのかどうか。わかりませんが、その」
「人間どもの拙き言葉になど頼る必要を認めない。我が意のままに見て取ろう。それこそが正しき振る舞い」
 光輝が言葉を発し、アケルは雷に撃たれたよう震えた。強く手を握っていてくれるラウルスがいなければどうなっていることか。思うことで意識を繋ぎ留めた。
「弟にして弟ならざるものよ。汝が振る舞いこそ、我らの協定を危うくするもの。再びの戦いを望むか」
 魔王の声に、光輝放つ天使が黙る。だが黒き御使いはそれを面白そうに眺めていた。おそらく人間にはわからないやり取りが交わされているのだろう。わからなくて幸いだ、とラウルスは思う。
「放っておくとしようか。話しはじめると長いものだからな、方々は。問題に戻るとしよう。世界の歌い手の言葉は的を射ている。そのとおり、問題は混沌だ。我らに属する混沌が、世界から減りつつある」
「だから、妖精たちは生き延びることが難しい……サティーたちのように」
「正に然り。故に、この地が創られ選ばれた」
 ラウルスは目を瞬いた。何かさらりと凄まじいことを言われた気がするのだが、呆然として何を問うべきかもわからない。
「我が主は先ほど幻魔と言ったな。ならば以後この世界は幻魔界と呼ばれるようになるのだろう。ここは、我ら悪魔と我らが宿敵にして類稀なる玩具との協定の地。本来は、その意味で創生された世界」
 わかるか、との問いに二人は黙って首を振る。言葉はわかる。意味もわかる。それなのに、理解ができなかった。ただひとつ理解できたこと。
「ここならば、妖精族は生きていかれるのですね?」




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