路地から大通りへ。そしてまた路地へ。祭りは夜に入って更なる熱気を帯びていた。大異変直後に比べれば、人々の着るものも食べるものも格段に豊かになっている。何より笑顔がそこにある。 「さっきのな、お前が変わらないなって話だけどな」 「まだ繰り返すつもりですか、ラウルス?」 からかうように言えば違うと首を振られた。その表情に深刻さを見て取り、アケルは目顔で問う。 「お前じゃない。メイブ女王の、と言うか妖精のことだ」 ラウルスの言葉にアケルは顔を強張らせた。自分の勘違いではなかったのかと。気のせいで済ませたいことだったのにと。 「やっぱりな。お前も感じてたか」 「あなたも、だったんですね」 「そろそろ、限界なのかもしれん。それなのに俺たちは……」 ヘルムカヤールに約束をした。竜も妖精も暮らせる地を必ず探して見せると。豪語したのに、一向に見つけられないでいる。不甲斐なくて情けなかった。 「女王は……」 会うたびに、疲労の影を濃くしていった、メイブは。何事もないかのよう微笑んで見せるけれど、ラウルスにはそう見えた。アケルには更に顕著に聞こえていた。聞き取りにくい妖精の声の響きが聞こえるほど、メイブは疲労していた。 「混沌の、せいだと思いますか」 あるからではない。なくなりつつあった。ヘルムカヤールは言った。聖性すら人間にとって害のない形にこの世界は変えていくと。ならば逆もまた同じ。大異変で崩れた均衡を取り戻そうとする世界の過剰反応なのか、二度と侵略を許さないと言う自衛なのか。世界は大異変前から存在していた瘴気や聖性までも浄化しつつある。 「焦っても、どうにもならんことはわかっちゃいるんだがな」 唇を噛みしめるラウルスにかける言葉がなかった。黙ってそっと寄り添うだけ。しかしラウルスはその心にどれほど慰められていることか。 「おい、あんた! 吟遊詩人だろ? 弾いてくれよ!」 不意に一人の男が朗らかな声をかけた。その響きにアケルは感動すらする。何度となく感じたこと。変化し続ける世界。そしてそこに生きる人間の逞しさ。人間は、それと知らず魔族のサティーを放り出し、妖精族すら振り捨てて未来へと歩いていく。眩しいような強さではある。だがアケルは、否、ラウルスと二人、その寂寥だけは覚えていようと思う。大異変当時のことを思い出す。人々は、音楽を聞く余裕すら失っていたものを。 「残念。もう店じまいなんだ。またね」 軽く手を振るアケルをラウルスは不思議そうに見やった。いついかなるときにもアケルは弾いてほしいと言われて断ったことがなかった。 「どうした?」 何か異変を嗅ぎつけたか。この祭りだ。混沌が這い寄っていてもおかしくはない。ラウルスの声にそれだけのことを聞き取ったアケルはためらうように首を振る。 「……そこに、宿があるんですけど。泊まりませんか」 言われた途端、ラウルスは吹き出すのをこらえる羽目になった。ここで笑っては、アケルが激怒する。だが励まし、慰めてくれる彼の心根のありがたさ。 「ラウルス!」 「まだ笑ってないだろうが!」 「気配が大笑いしてました!」 「……否定はしにくいな。だから! 怒るな!」 「無理です」 きっぱりと言って宿から遠ざかろうとするアケルの腕を掴み、ラウルスは抗う彼を気にも留めずに宿へと入った。 「二人。泊まれるかい?」 宿の亭主は二人を胡散臭そうに見つめた。当然だろう。どう見ても一方は嫌がって逃げ出そうとしているのだ。 「……相場の倍はもらうよ」 「なんといっても祭りだしな?」 にやりとするラウルスに宿の亭主の唇が一瞬ほころぶ。が、すぐさま引き締まった。 「それと。揉め事はごめんだ。警備兵を呼ばなきゃならないようなことは避けてもらいたいね」 「揉め事? なんのことだ」 怪訝そうに言うラウルスに、アケルは溜息をつく。自分の態度がどう見えているかまったく理解していないらしい。 「あなたのせいですよ。ご主人、別に無理やり連れ込まれるわけじゃないですから。ちょっとした意見の相違で口喧嘩をしていただけです」 「……あぁ、なるほど。なんだ、俺はお前を無理やり襲ってるように見えてたのか? 冗談だろ。無茶するならもう少しまともな相手にするぞ」 「ですよね。あなたの趣味の悪さには同情します」 「それ、自分に全部跳ね返ってくるって、わかってるか?」 「言わないでください! せっかく目をそらしてるんだから!」 宿の主人が呆れたように肩をすくめた。どうやらただの痴話喧嘩に過敏な反応をしただけらしい、と心得た主人の態度は立派なものだった。相場の倍、と言われたはずの宿の値段は、驚くべきことに順当な額へと戻っていた。 「まったく、あなたって人は!」 部屋に入ってから、心行くまで怒ることにしたらしい、アケルは。寝台の上に荷物を放り投げ、腰に手まであててラウルスを睨んでいる。 「なんだよ?」 言いつつラウルスはアケルに近寄っては彼の体を腕に抱く。わずかに抗う気配。まるで媚態のよう。それなのに、何の作為もない。ラウルスの頬に熱が上った。 「さっきの態度、どう見ても犯罪者でしたよ!?」 「お前が抵抗するからだろ。愛してるよ、アケル」 「だから――!」 更に言い募ろうとしたときには唇を塞がれていた。軽く何度もついばまれ、アケルの体から強張りが解けていく。 「待ってください、ラウルス」 「だめ。待たない。泊まりたいって言ったの、お前だろうが」 「そんなことは――!」 「言った言った。演奏の依頼を断ってまで二人きりになりたいってお前は言った」 「そこまではっきり言ってません!」 「俺には聞こえた」 妙にきっぱり言われてつい、アケルは笑い出していた。くつくつと笑う唇に何度となく触れるラウルスのそれ。気づけば寝台に押し倒され、圧し掛かられ。 「いつも、不思議なんですけど」 「なにがだよ?」 首筋に、胸にとラウルスが唇で触れていく。くすぐったくて、そして熱くて。アケルは身をよじっては逃れようとする。けれど、もしかしたら別のところに触れて欲しくて体を差し出している、そんな気もした。 「いつも気がついたら脱がされてるんですけど? 器用だなと思って」 「そりゃ、それだけお前が熱中してるってことだろ」 「……僕だけですか」 「一人じゃできないよな?」 くっと笑ったラウルスの金の目がすぐそこにある。思わず見惚れてしまいそうでアケルは目を閉じた。その瞼にも触れる唇。 「ラウルス」 もどかしくなって呼びかけついでとばかり、アケルは体を入れ替えた。あっという間に組み敷かれたラウルスが驚く間もない。愛撫の唇はアケルにあった。 「おい――」 「嫌ですか。嫌なんだったら、どうして僕にいつもこんなことするんです?」 「嫌だとは、言ってないだろうが」 かすかに掠れたラウルスの声に欲情を聞く。世界の歌い手の耳を持っていなくとも聞こえた音。しかし持っているからこそ更に鮮明なその響き。 「なに赤くなってるんだよ?」 からかうラウルスの声音にアケルは首を振る。これほどまでに望まれている歓喜など、言葉に表しようがない。だから態度で示した。 ラウルスの息が上がっていくのを体で感じた。自分の呼吸が弾むのを耳で聞いた。汗ばむ肌が触れ合う音。互いを求める心臓の響き。 「あなたには、聞こえないんだと思うと、残念です」 気づけばラウルスが上にいた。覗き込んでくる眼差しにアケルはそう告げれば、彼はそっと笑って額に唇を寄せた。 「それでも俺にはお前がいる」 答えようとした、アケルは。だができなかった。答えなどはじめから要らない、否、はじめからここにあると言わんばかりにラウルスは返事を求めなかった。代わりに自らを与えた。 「ラウルス――」 入り込んでくる彼の熱。アケルは浮かされたよう彼の名を呼ぶ。世界の歌い手の呼び声に、ラウルスは耳を傾ける。真摯でどうしようもない思いがそこにある。情熱と言うには広大な、愛と言ってもまだ足りない。 「あなたがいるから、僕がいる」 しがみついてくる体をラウルスは抱きしめる。途端に、気づいた。どちらがしがみついているのかと。 「お前がいるから、俺がいる」 耳許に囁けば仰け反る体。繋がった腰を耐え切れぬげに振るアケルのその眼差しに捕らえられた。半ば開いた唇に惨いほどのくちづけを。限りない喜びとして、アケルはそれを望んで受け入れた。 とろとろとした眠りに身を浸したまま、アケルはラウルスに肌を摺り寄せる。いまだ服を着ていない彼の肌は熱かった。 「アケル、起きたか」 まだ早いでしょう。もう少し眠っていたい。あるいは、もう少しだけこのままでいたい。言いかけたアケルではあった。だが彼の声のその響き。 「待て」 体を起こそうとしかけたアケルをとどめ、おまけにラウルスは片手でアケルの目を覆った。 「なにを……」 「あのな、俺は悪くない。で、冷静になれ」 「どうして先に言い訳をするんですか!」 「そうでもしないとよけいに怒鳴られるからだ」 笑いもなく断言し、ラウルスはアケルの目を覆っていた手を離した。当然、アケルは目を開けた。そして見たもの。 「……怒鳴っていいですか。あるいは、金切り声を上げてもいいですか。あなたに八つ当たりをして、喚き散らしていいですか」 「それで気が済むならやってもいいけどな。無駄だろ?」 ゆっくりと体を起こすラウルスにアケルは溜息をつく。同感だった。もう一度深く溜息をつき、アケルもまた起き上がる。 「起きたの、起きたの。うふふ、目を覚ましたの! 仲良しさん?」 「いやん、いま起こそうと思ってたのに、なの! 起きちゃったのなの? あのね、赤毛のお友達?」 そこにはなぜかピーノとキノがいた。彼らだけではなく、見たこともないほど大勢のサティーたちが群がっていた。 「ちょっと待って! まず服を着させてよ、お願いだから!」 ついにアケルが絶叫した。群がるサティーが一斉に笑い出し、ラウルスも頭を抱えたくなる。宿は跡形もなくなり、見たこともない景色がそこに広がっていた。 |