あれから何度となく妖精郷を訪れた。混沌の泉を満たし、ヘルムカヤールと話をする。そしてまた人の世に戻ってくる。それをどれほど繰り返したか。それでもなお、二人は倦むことを知らなかった。 「なぁ、アケル」 シャルマークでは、末の姫が二十歳となり、婚約をした祝いが催されていた。ラウルスはふと気づく。 「なんですか?」 当たり前の吟遊詩人の顔をしてアケルは広場で奏でていた。人々が足を止めて聞き入る。それすら見えていないような顔をしているのに、ラウルスの声だけははっきりと聞こえるアケル。 「いや……後でいい」 まだ演奏中だった。ちょうど人足は途絶えているとは言え、アケルはいまだリュートを弾く指を止めてはいない。 それなのについ、話しかけてしまった。実に珍しいことで、だからだったのか、アケルは黙って演奏を終える。 「行きますよ、ラウルス」 それでもまだ足を止めていた人が、素晴らしい音楽だった、彼こそカルミナ・ムンディに違いないと噂する。その声を背中に聞き、アケルは路地へと歩いていく。 「それで?」 路地にある、小さな酒場だった。普段はひっそりと静かな店なのだろう。だが今日の祭りの日にはそんな店であっても賑やかだった。おかげで店の奥に引っ込んだ二人の声は誰に届くこともない。 「たいしたことじゃ、ないんだがな――」 ためらうラウルスの声にアケルは微笑む。運ばれてきた葡萄酒に口をつければ芳醇な香りがした。大異変から、どれほどの時間が経ったか。復興と言う言葉すら、遠くなりつつあった。 「早く言わないと怒鳴りますよ? こんなところで怒鳴られたいんですか、あなた?」 「だから! すぐに怒鳴ろうとするな!」 「さっさと言わないあなたのせいです! 僕は悪くない!」 声を荒らげつつ、アケルは笑っていた。半ば冗談めいた彼の言葉。だが本気でないとはラウルスは思わない。少なくとも、少しは。軽く溜息をつき、ラウルスは言う。 「お前、変わらないな」 「なにがです?」 「見た目。俺の生まれが生まれだ。つい忘れがちだがな、お前、幾つになった?」 ラウルスは王家の生まれ。祝福されし血を受けた王家の長命を持つ。だから彼の外見は変化が少ない。並の人の二倍は生きる彼。あるいは三倍の長命すら持ち得る王家の人。 だがしかし、アケルは違う。かつての王宮に住み暮らす貴族に言わせるならばアケルは一介の庶民でしかない。山奥に暮らす、ただの狩人だ。 それなのにアケルはあの日以来、一瞬たりとも変ったように見えなかった。時は彼の前で足を止め、そして彼を忘れ通り過ぎて行ってしまったかのように。 「さぁ? 数え忘れましたけど。出逢ったころのあなたくらいかな?」 アケルは小さく笑って茶化す。当時のラウルスと言うならば、アケルにとって祖父の年。それほどの時間が行き過ぎたとは、とても。 「……変わら、ないな」 苦い声にアケルは顔を上げる。そんな声を出される覚えがなかった。アケルにしては珍しく、慌ててもいた。 だからなのかもしれない。店の中、喧騒が支配する大衆の前。それなのにアケルは手を伸ばし、ラウルスの両手を包み込む。 「どうしたんです、ラウルス?」 包んだ彼の手が冷えている気がして、アケルはそのことのほうがずっと怖かった。ラウルスは忘れていたのだろう。けれどアケルは自分の生まれと、この身の上に流れるはずだった時間を忘れたことはない。 旅の途中、泉で水浴をするとき。あるいは宿で手をすすぐ盥の水に映ったとき。アケルは時の流れから切り離された自分を嫌でも感じた。 青春の只中にあって滑らかさを保ったままの頬。一筋の白いものもない赤毛。手足は伸びやかなまま強張ることもなく、体が痛むこともない。 老いとは無縁になった命を喜ぶべきだろうか。否。少なくとも禁断の山の狩人であるアケルには、そうは思えなかった。これは紛れもなく呪い。老いることすら許されない、死ぬべき命を永らえさせられている呪詛。 だが、けれどそれがなんだと言うのか。黒き御使いは言った。なすべきことがあると。ならばできることをできるように努めていくだけ。それは狩人のあり方としては自然な考え方で、アケルにとって馴染み深い。自分は偶々、ありえない長寿を与えられただけだと、いまは納得していた。たとえそれが呪詛であろうとも、人々のために尽くすことができるのならば悔いはないとばかりに。 「お前が……」 ためらうラウルスの声にアケルはゆっくりと微笑みを浮かべなおす。それに彼がまた戸惑うのが見えていた。気配のほうが遥かに雄弁に彼の心を歌っていたとしても。 「聞いてくれますか、ラウルス? 僕は僕です。どんなことになっても、僕は僕でしかない。僕はあなたにはなれないし、それを羨むつもりもない。今ここにある僕が、それですべてです。それに……。それですべてだって言える自分が、僕は誇らしくもあるんですよ」 わかりますか、とアケルは首をかしげた。もしもわからないと言えたなら。ラウルスは黙ってうなずく。 「それでも」 「呪詛がなんです? 僕は老いることもできないんでしょうね。でもそれはあなたもでしょう? ちょっとね、想像もしましたけど」 「なにをだ?」 間髪入れないラウルスの声にアケルは唇を歪める。そんなに気にすることではないのに、と言えたらいい。けれどそう言って納得するラウルスではない。 「例えば。あのまま何事もなくすごしたとしますよ。そうしたら、あなたには小さな孫がいくらでもいたでしょうし、新しい曾孫だって生まれたでしょうし」 現にティリアの末娘は程なく結婚するのだろう。となれば、彼の曾孫が産まれる日も遠くはない。 「でも、そんな長閑な景色の中ですごすあなたがどうにも想像できなくって。……違うな。孫やら曾孫やらに囲まれておじいちゃんをしているあなたが想像できないのかな?」 「……おい」 「だって、そうでしょう? 孫可愛さに手先の器用なあなたが玩具を作ってやったりするんですか? あるいは、膝に抱えてお話でもしてやりますか?」 「……我ながら、想像ができん」 「でしょう? だからね、僕らはこれでいいじゃないですか。当面は死ぬこともできず老いることもできない。おまけに人々に覚えていてもらうことも望めない。それでもまぁ、いいかなと」 肩をすくめたアケルの言葉を疑ったわけではない。しかしラウルスには強がりのよう、聞こえていた。 「いいことがひとつ、ありますよ?」 ラウルスが口を開いて抗議する前、アケルが言葉を挟む。あまりにも具合のいい間で、ラウルスは読まれていることを感じては苦笑する。 「なんだよ?」 「姫様の哀しみが癒えつつあること、ですよ」 「それは……」 「違うなんて、言いませんよね、ラウルス? 考えてもみてください。姫様の記憶に僕らは残らない。だから姫様は、記憶を遠くにやって、前に進んでいける。それは、いいことじゃないでしょうか」 「ティリアに限らず息子たちも、だな」 「えぇ、そうですよ。皆さん、明日を見ている。お父上を亡くしても、明日を臨んでいる。ちゃんと一歩一歩と足を進めている。出ましょうか、ラウルス」 突如としてアケルが席を立つ。慌ててラウルスは残っていた葡萄酒を飲み干し彼に続いた。店の中より静かだろうと思った路地だったけれど、肩がぶつかるほどの喧騒に席巻されていた。 「こんなこと、あのころには言えないことだったと思いますし、今でもどうなのかな、と思いますけど。でもね、ラウルス。あなたが元気で生きて帰っていたら、お子様方はどうなっていたと思います?」 「そりゃあ、まぁ」 「そこそこの統治はしたでしょうね、ラクルーサの方も」 ラウルスの長男は決して凡庸ではなかった。それは近くで会話する機会を得たアケルが知っていること。 「でもあなたが側にいたらあの方々は、全力で打ち込むことはできなかった。そう思いませんか?」 歩きながら、アケルはリュートを爪弾いていた。柔らかな音が響き渡るのに、振り返るのはラウルスだけ。他の人々には聞こえていない音楽だった、世界の歌い手の奏でる音楽だった。 「それは、そうかもしれないな。多少、甘やかしすぎたきらいがないとは言えん」 「嘘ついて。あなたは自分の教育が厳しすぎたって、知ってるはずですよ?」 笑って言うアケルだから、ラウルスはそのままにしたくなってしまう。そうではないとわかっているはずなのに。けれど唇から漏れた言葉は、その思考とはまるで違うもの。 「まぁ、結局のところはと言うならば。いまだに若さにあふれるお前が可愛いな、とそれだけのことなんだがな?」 「なにを……急に、馬鹿なことを言わないでください!」 「どこがだよ? 完璧に真面目だったぞ! でな、アケル! ちょっと待て、話は他にもあるんだ。聞けって!」 慌てふためくラウルスの要請を受け入れるアケルではなかった。にんまりとしたかとも思いきや、背伸びをして、しかもその上で飛び上がり、逃げるラウルスの髪をめちゃくちゃする。 「よせって、やめろよ!」 「誰がやめるんですか!? 絶対聞いてあげないんですからね!」 「だからちょっと待てって言ってるだろうが! ヘルムカヤールのことで相談だ、相談!」 竜の名を出されては、アケルに抗う術はない。了解とばかりに肩をすくめてアケルは再びリュートを爪弾きはじめた。 「さぁ、なんですか!?」 「だから喧嘩腰になるな! ドラゴンだよ、ドラゴン」 「なんで……言うんですか」 現実を直視させるために。ラウルスの厳しい王の顔にアケルは息を飲む。 「……もう、どこにもいない、そんな気がしてきたよ、俺は」 「よしてください! きっとどこかに必ずいますよ!」 それは願望か。それとも世界が告げる真実なのか。ラウルスは問わなかった。問わずとも、答えなどはじめから知れていた。 ラウルスはアケルのように黙って微笑みも何も口にはしなかった。竜が舞う過去の空を見つめるラウルスの腕、珍しくアケルが絡みついてきていた。 |