並みの人間ならば頂上から見下ろしたとて、竜が見つかるわけもない。だが二人は狩人であり、類稀なる剣士でもあった。 「おかしいですね……」 その二人がいて、竜の気配を微塵も感じなかった。山はなだらかに下っていて、竜の住処があるような異常はどこにもない。あれほどの巨体を誇る竜だ。住処があるのならば、山の異変として彼らの目には映るはず。それなのに。 「アケル」 厳しいラウルスの声にアケルは振り返る。その目にアケルは何を見たのか。ゆっくりと黙ったままリュートを構えた。 「頼む」 ラウルスの声と同時に、リュートが鳴り響いた。静かなアケルの歌声がそこに乗る。歌詞のない世界の歌い手の歌だった。 その歌は、世界に問うのか。それとも世界を聞くのか。ラウルスにはわからない。ただ、言葉にしようもない思いを感じた。だからこそ、歌詞のない歌なのだとはじめて気づく。 「ラウルス――」 歌いつつ、アケルが声を上げた。眼差しはどこを見るのか。遠くであり、とても近くを。この場ではなく、この世界そのものを。 「ドラゴンが、いません」 遠い響きのアケルの声に、ラウルスは体を硬くした。いるはずだった。竜は長寿なもの。薬草採りは昔、と言ったけれど、彼の昔が竜の昔とは限らない。いまもここにいるはずだった。 「前には、ここに……いたみたいです。大地がそれを覚えています」 「大地? 山じゃないのか――」 「えぇ、そうですよ。自分でもう、気づいてますよね? この山は最近になってできたもの。大地はドラゴンを覚えています。でも山は、知りません」 アケルの声の響きが変わっていた。大地の記憶を歌うアケルは物語の登場人物のようだった。いまここで、昔語りを聞いているかのように。 「なら、ドラゴンは……」 アケルの答えはわかっていた。わかっていて問うのは、愚かなこと。それでもラウルスは問わずにはいられなかった。違う答えを聞きたかったのかもしれない。だがアケルは黙って首を振る。 「でも……。もしかしたら、引越したのかもしれませんね」 「引越し?」 「えぇ。あの大異変で住処が壊れて、引越したのかも」 そんなことはない、と知っているアケルの声だった。ラウルスはそこに希望を見る。竜がいる希望ではなく、アケルのそうあれかしと祈る心を。 「――別の歌を、歌ってみます」 「どんな?」 その前に内容を聞かせろ、と言うラウルスに、アケルは小さく笑って見せた。心配性だな、とでも言うような笑みにラウルスは肩の力を抜く。 「大陸のドラゴンに呼びかけてみようかと思って」 自分でそんなことができるか考えるよう、アケルは首をかしげる。そしてできると確信を持ったのだろう、一人こくりとうなずいた。 「とりあえず、あなたが知っていたドラゴンはここにはいない。そうですよね? だから、呼びかけてみようと思います。このアルハイドのどこかにいるはずのドラゴンに向けて、歌ってみます」 「聞こえて、くれるといいが……」 アケルの気持ちを無下には扱いたくない。だが、竜にその歌を聞いてもらえるものなのだろうか。世界の歌い手の耳を持たないラウルスには、わからないこと。それがたまらなくもどかしかった。 「ラウルス」 そんな彼をたしなめるよう、アケルは微笑む。力になれないと嘆くことはないと励ますように。充分、力をもらっているのだからと告げるように。 「念のために言っておきますけどね。僕は、あなたがいてくれるだけでどれほど楽に歌っているかわからない。覚えてますか、ラウルス? このリュートが鳴らなかったころのこと。鳴りはじめたばかりのころのこと。あなたがいてくれなきゃ、僕は弾くこともできなかった。覚えてますか?」 滅多にないほど柔らかなアケルの声にラウルスは苦笑する。それは、自分自身に対する苦笑だった。忘れ得ぬことを改めて言われなくては自信を失う、自分への。 「いまも、そうですよ。僕にはこの耳がある。それでも、あなたがいてくれることがどれほど助けになってるか。忘れたんですか、ラウルス? 一心同体って言ったのは、あなたですよ?」 「それでも、何もしてやれんと思うのが人間ってものだろうが」 「だったら、聞いていてください。僕は、弾いていますから。あなたは聞いていてください」 黙って聞いていろとでも聞こえかねないアケルの言葉。それなのになぜこれほどまでに優しく甘い。聞くと言う行為そのものが、自分に力を与えるのだとアケルは告げる。 「恋歌がいいな」 「無茶言いますね。ドラゴンへの呼びかけなのに」 「できないか?」 「見くびってるんですか、僕を?」 にやりと笑い、アケルは歌いだす。それは確かに恋歌だった。珍しく、歌詞までつけたアケルの恋歌。ラウルスへの限りない慕情をアケルは滔々と歌い上げる。 「……聞いてるほうが、恥ずかしくなるのは気のせいか?」 「無茶な要求を出すあなたが悪いんですよ」 「だな」 くっと笑ってラウルスは黙って聞き惚れた。普段の口調が嘘のようなアケルの真摯な思い。どれほどこの男に愛されているのかまざまざと知る。怖いほどに愛されている。これほどの思いを向けられて、自分は何を返せるのか。 「ここにいてください、ラウルス。僕の側にいてください、ラウルス。僕は、あなたがいてくれればそれでいい」 「たまには――」 「なにもしてくれなくても。どんなに酷い男でも、最低の振る舞いをしても。僕はあなたがいい」 「――せっかくいい気分で聞いてるところなんだがな、アケル? あのなぁ、俺はそこまで酷い男かよ?」 「違うとでも?」 わずかに眉を上げてアケルは睨んで見せる。が、目だけはいつもどおりに笑っていた。互いに思い出す昔のこと。互いに相手を苛み続けた日々のこと。いまとなっては、恥ずかしい昔話だった。 「最低同士、ちょうどいいんですよ、僕たちはね」 肩をすくめ、アケルはリュートの弦を弾いた。それで歌は終わりだったのだろう。ラウルスには紛れもない恋歌だった。恋歌以上のものではあったけれど、竜への呼びかけには、聞こえない歌だった。その疑問が顔に出たのだろう、アケルが微笑む。 「覚えてますか? ヘルムカヤールは、世界の歌が聞こえるんですよ」 「あぁ、そういえば、鱗をもらったときに――」 「えぇ、夜明けの歌が聞こえるって言ってたでしょう? だから、ドラゴンにはこの世界の声が聞こえるはずなんです。なら、世界の歌に乗せた僕の声も届くはず」 「……なんて、呼びかけたんだ?」 「ここに来てくれっていうのも手間ですしね」 再び肩をすくめ、アケルは思い切り伸びをする。そのことでラウルスは知る。本来の歌の意味と、表面の意味。違う歌を歌えばアケルも疲労するのだと。申し訳ないことをしてしまった気分だった。それなのに、あの歌を聞かせてくれた喜びがまだ体中を占めている。ならばやはり、自分は酷い男なのだろうと思う。そのラウルスが体を強張らせた。肩先に、アケルの頭。 「僕はあなたがいいんだって何度言ったらわかってくれるんです? 信じてくれないほうが、ずっと酷いですよ」 「……どうして俺だったのかなってな。俺は、お前に相応しいのか?」 国王であったからなんだと言うのか。アケルという一人の男に、自分は相応しくあれるのか。急に、何もかもが不安になる。 「ラウルス、剣!」 問い返す間もなくラウルスは自分の手が勝手に剣を引き抜くのを感じた。同時にアケルの歌。呼び込み誘惑するアケルの歌声。 ねじ伏せ、絡めとり、吸い込んではじめて息をつく。そしてようやく相手が混沌であったことをラウルスは改めて理解した。 「なるほど。妙な不安感の原因はこれか」 「ですね。気弱なあなたはらしくないですよ」 「あのな、アケル。気がついてたなら言えよ、先に!」 「たまには不意打ちも新鮮かと思って」 嘯くアケルではあったけれど、嘘だと言うことはラウルスにもすぐわかる。アケル自身、急激に襲われたことを意外にも思っているようだった。 「歌だな、歌」 「え?」 「ドラゴンへの呼びかけに、混沌が先に反応した。呼びかけと言うよりは、お前の歌そのものにって言うほうが正しいか? まぁ、そんなところだろうな。いずれにせよ、混沌はすることなすこと理解できん。気にするな」 軽く言うラウルスに、アケルはほっと息をつく。許してくれているのを感じていた。許すも何もないとラウルスならば言うだろう。けれどアケルは許されているのを感じる。感じる分、二度と過ちは繰り返すまいと思う。 「それでも、何度でもやらかすんですけどね、僕は」 「ん、何か言ったか?」 「いーえ、何も!」 あからさまな態度をラウルスは笑って見逃してくれた。だからアケルはうつむいて微笑む。酷い男だなど、欠片も思ってはいなかった、いまは。 「で、アケル? 呼びかけの内容がまだだった」 「え……あぁ、はい。そうでしたね。単純です。ティルナノーグにヘルムカヤールがいるって言っておいたんです。女王も快く迎えてくれるだろうとも」 「なるほどな。確かにそれは手っ取り早い。まぁ、探しながら旅をするに違いはないがな」 「えぇ、ちょっと試しにってところでしょうね。歌は届くでしょうけど」 聞き遂げてくれるかはまた別の問題だ、とアケルは仄めかす。が、ラウルスは思う。竜は賢者よりも智慧のあるもの。ならば竜たちはいま、自分たちの状況を正確に把握しているはず。 「聞いてもらえると、いいな」 ぽつりとラウルスは呟いた。アケルの歌が聞こえたならば、竜はすぐさま行動に移ってくれることだろう。もしも妖精郷に竜が集まらないのならば、それはそういうことだった。 「えぇ、ヘルムカヤールのために」 こくりとアケルがうなずく。異種族の友人に対する彼の熱い思いが面白くなくてラウルスは呟く。 「でっかいのが最後のドラゴンってのは、中々ぞっとしないぞ? 威厳もない、神秘もない、あれじゃただのお喋りだ」 「なに言うんですか、ラウルス!」 アケルには、ラウルスの心が聞こえていた。それなのに、怒って見せた。否、怒りは怒りとしてそこにある。けれど、ラウルスの心の深いところまで汲み取って、声を荒らげてかつ笑っていた、アケルは。 |