「本当にあってるんですか?」
 二人はあの大異変の日にできたシャルマークの北壁にいた。峻険な山は時によじ登り、時にあえて滑落して進まなければならなかった。
「あってるはずだぞ?」
 一度は通った道でもある。以前、北の海を眺めに行ったとき、この山を踏破していた。が、厳しいことに違いはない。さすがの二人の呼吸も荒かった。
「薬草採りが入る道だって言うけどな」
「ずいぶん……すごいところに入りますよね……!」
「まったくだ!」
 その薬草採りの話だった。昔はここで竜を見た、と言うのは。その話を確かめてのち、二人は山に登っている。
 黙々と、ただ進んでいた。時折水袋に詰めた水で唇を湿らせる。多くは飲まなかった。疲労が増すだけ、と二人とも知っている。とはいえ、思い切り水が飲めたらどれほど心安らぐか、と思うような道だった。
 そもそも、道ではない。獣道ですらない。あちらの方角へと進めばそのうち山を超えられるであろう場所である、と言うだけだ。
「本当に……!」
 立ち止まり、水で口を湿らせてアケルが呟く。空を仰ごうにも、聳え立つ木々が邪魔をしていた。
「後悔してるか?」
「いいえ? なんて道だろうな、とは思いますけどね。僕が思うのはそれじゃなくて、この木ですよ、木!」
「木? 木がどうした。俺には普通の木にしか見えんぞ」
 大らかに育った立派な樹木だった。鬱蒼とした濃い影を作るほど茂る梢の葉。大人二人が両腕をまわしても抱え切れないだろう太い幹。ラウルスの子供時代、シャルマークにはこういう木がいくらでもあった。
「その普通の木って言うのがおかしいんじゃないですか。よく考えてくださいよ、ラウルス! この山、いつできたんですか。あなたが子供のころからここに聳え立ってるって言うならわかりますけどね。まだあの日から二十年そこそこでしょう?」
「あぁ……そう言えば、そうか。何でこんな太い木があるんだ?」
「ちなみに! 前に来たときからこうでしたけどね!」
 あのときには北の海を眺めたい一心で、山のことなど目にも入っていなかったラウルスは言われてはじめて気がついた。
「世界の不思議ってやつだな」
「本当に。昔は薬草がたくさん採れるってわけでもなかったですしね」
「なんだ、知ってるのか?」
「忘れたんですか? 僕は禁断の山の生まれです。禁断の山はどこにあったんですか? シャルマーク地方、現シャルマーク王国にあるんですよ!」
 言われてみれば確かにそのとおり。だがラウルスとしては不思議でもある。禁断の山は、彼の目から見ても植物の豊かな地だった。少し眺めわたしただけでも多くの薬草を見て取れた。それなのにわざわざ薬草採取の地を探した、と言うのだろうか、狩人たちは。もっとも、当時はここは山ではなく単に厳しい荒地だったはずだが。荒地にこそ薬草はよく育つもの。とはいえやはり不思議だった。
「あのね、ラウルス。僕らは狩人なんです。いくらでも怪我はします。薬草はいくらあっても足らないくらいなんですよ」
「なるほどなぁ、そうか……そう言うことか……」
 ゆっくりとうなずいて、再び歩きはじめたラウルスの背に、アケルは小さく微笑んだ。素直に感嘆してくれる男のありがたさが身にしみるのは、強い疲労のせいだろう。
「――と言うのは、外的な言い訳ですけどね」
 小声で言えば、肩をすくめられた。話したければ話してもいい、そんな気配をアケルは感じる。まして、アケルの昔話だ。滅びてしまった故郷の話をするとき、ラウルスはこんな態度をよく取った。
「狩人は、隠された民の守り手。金がなくて薬草医にもかかれないような人って言うのも、いましたからね」
「……本当は、領主がするべきことだがな」
 わずかに言いよどんだのは、何らかの思いゆえではなく、岩を乗り越えるためだった。遠くを見やれば、頂上がもうすぐそこだった。
「そう言っても、人々の面倒を見ない領主ってのもずいぶんいましたからね。カーソン卿のような方のほうが珍しいくらいじゃないかな」
「あの男は貴重だよ。王国の宝だった」
 ラウルスの、否、アウデンティース王の片腕にして懐刀。彼が最も信頼を寄せたアルハイド王国の将軍。その彼も、数年前に亡くなっていた。早すぎるその死をどれほどラウルスが嘆いたか、アケルは覚えている。
「……みんな、いなくなっちゃいますね」
 ぽつりとしたアケルの声にラウルスは足を止める。危うくアケルがその背にぶつかりそうになるほど唐突に。
「おい」
「なんですか、急に! 危ないでしょう! ここがどこか、わかってるんでしょうね!」
「だから、怒鳴るな! あのな、アケル。俺は、それでも――」
「はいはい、わかってます。それでもあなたは僕を愛してますよ、えぇ。そうですね。僕もですよ。これでいいですか? 僕はなんの含みもなく寂しいですねって言っただけなのに!」
「本当にお前ってやつは! どうしてそこまで滔々と文句を垂れる!」
「言わせてるのは誰ですか!」
「だから――。いや、やめよう。進むぞ。このままやってると日が暮れかねん」
「ですね。行きましょう。もう少しですよ、ラウルス」
 互いににやりとして足を進めた。ラウルスには、アケルの言わんとしていたことがわかるつもりだった。
 アケルの言葉は嘘ではない。が、真実でもない。本当に自分でよかったのか。この自分と二人きり、時の流れからすら切り離され、忘却の彼方で生きていることに後悔はないのか。アケルの逡巡が手に取るよう、ラウルスにはわかっていた。
「俺は、お前がいいよ。アケル」
 前を見たままラウルスは呟く。たとえどれほどの小声であろうとも、アケルには聞き取ることができるはずだった。案の定、答えは返ってこない。きっと今頃は真っ赤になったまま歩いていることだろう。
「アケル。荷物。頼んだ」
 ひょい、と肩から荷物を下ろし、ラウルスは一人で崖をよじ登る。さっさと行かれてしまったアケルが岩の下で文句を言っていた。
「こういうことなら僕のほうが得意なのに!」
 聞こえていたがラウルスは気にも留めない。両手両足を使って登りきり、大きく息を吸う。それから肩にかけてきた縄を下へと投げ落とした。
「いいぞ!」
 すぐさま縄に重みがかかる。アケル自身と彼の荷物、そしてラウルスの荷物の分とがかかった重みだった。しっかりと握っていても、両手が痺れそうになる。
「お疲れ様です。ありがとう」
「なぁ、アケル」
「なんですか?」
 縄を登ってくるのも並大抵ではなかったのだろう。アケルが額に浮かんだ汗を拭っていた。
「お前、太ったか?」
 からかうように言った途端、アケルの険悪な眼差しにラウルスは射抜かれる。もっとも、はじめからそうなるだろうと予想していたことでもある。気にした様子もなかった。
「太れる要因がどこにあるんですか、どこに!」
「いや、重くなったなと思ってな。それだけなんだが」
「あなたの荷物の分でしょうが!」
「それを差し引いても、なんだがな」
「だいたい! そんな細かいことがわかるはずないでしょう!」
「なんでわからないと思うんだよ? お前の重さだぞ? けっこう正確に知ってるけどな」
「なんで……いえ、失言です! どうしてわかるかなんか、聞きたくないですからね!」
「そりゃあ、なぁ?」
 にんまりとするラウルスからアケルは完全に体ごとそむけてしまった。その目に飛び込んでくる一面の青。
「あ……」
「ついたぜ。北の海が見える」
 再びにやりとして、ラウルスはアケルを背後から柔らかに抱いた。その腕を彼は拒まない。ゆったりと、体を預けさえした。
「アケル。こっち向けよ」
「なんです?」
 首だけ振り向けた彼の目にラウルスは見入った。そして海を見やる。山の頂上から見下ろす北の海は穏やかな深い青をしていた。
「ラウルス?」
「いや……。お前の目は、北の海の色なんだけどな」
 どこまでも深く濃い青。冷たく厳しい冷たい色。海の色は確かにその色をしていた。厳しい中に豊かさを秘めた海の色と、アケルの目を見比べ、ラウルスは微笑む。
「俺は、お前の目の色のほうがずっと綺麗だと思った」
 驚いて目を見開いたアケルの額に唇を寄せれば、甘い溜息。そっと離れれば、目を閉じたアケル。薄い瞼にくちづければ、壊しそうで怖かった。
「アケル――」
 促しに、アケルがかすかに仰のく。その瞬間、いつもアケルは恥ずかしげに頬を染める。王を王とも思わずぽんぽんとやり込める男と同じとはとても思えないほど、純に。
「ちょっと待ってください!」
 が、咄嗟になぜかアケルが飛び離れた。何事か、とラウルスも腰の剣に手を添える。辺りを見回し、警戒をする二人の目に、けれど危険なものは何も映らなかった。
「どうした、アケル。何か聞こえたか?」
「いえ……このところ、いざと言うときに必ず邪魔されていたもので。また邪魔されるかな、と思って」
「邪魔。邪魔な、邪魔。あぁ、確かに邪魔されたよなぁ」
「ちょっと、ラウルス! なにが言いたいんですか!?」
「いーや。別に?」
 にやつく男からそっぽを向き、けれどそのままで済むとは思っていなかった。やはりラウルスの腕に捉えられ、唇を求められる。嫌ではなかった。むしろ、もっと。思うだけで顔に血が上る。そんな自分をも、ラウルスは知っていて遊んでいるのではないかとすら、穿ってしまうほど気恥ずかしい。
「愛してるよ、アケル」
「知ってますよ! えぇ、僕もですよ、ラウルス。愛してますから、仕事しますよ!」
「もうちょっと優しく言えよ!」
 声を荒らげるラウルスだったけれど、アケルは意に介さない。彼の声が笑っていた。響きに潜む無限の思いに自分は相応しいのか。不意に恐ろしいほどの愛を感じた。




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