妖精郷を抜けるとそこは見渡すかぎりの草原だった。ラウルスは辺りを見回し、胸いっぱいに息を吸い込む。 「戻ってくると、妙にほっとするな」 「ティルナノーグもこの世界の一部ですよ?」 「とは言え、俺は人間だからな」 肩をすくめるラウルスに、実のところアケルも同感だった。妖精郷は確かに美しい。生気に満ち溢れ、瑞々しい世界だ。だがあの場所は、人間の住み暮らすところではない、アケルはそう思う。 「で、アケル。ここはどこだ?」 妖精郷に出入りすると、常に入った場所とは違うところに飛ばされる。それが善意なのかただの悪戯なのか、ラウルスにも判断はできない。 「見ればわかるでしょうに」 呆れ顔のアケルにラウルスは再び肩をすくめた。 「……シャルマークの、西のほうですね」 アケルは下手を打ったと後悔していた。見ればわかる。確かに以前ならばそうだろう。彼はこの国の王だったのだから。だがしかし、いまは。変わってしまった世界だった。アウデンティース王が知っていた世界とは一変したこの世界。見てわかるはずがない。 「さすがだよな、アケル。やっぱり禁断の山の狩人だ」 「……世辞を言われても嬉しくないです。何も出ませんからね!」 「素直に喜んどけ」 からりと笑ったラウルスの声音に、アケルは純粋な畏敬を聞き取る。他意のない、失言など気にしてもいない彼の声。だからこそ、忸怩とする。 「なぁ、アケル」 「なんですか!」 「あのな、変なことを気にするのはやめろよ? 俺はいまはいまでけっこう楽しんでるしな」 「……すみませんでした。失言です」 「だから! 気にするなって言ってんだ。何度も言ってる気がするけどな? あのまま王位にあったら山と王宮に泣き別れだぞ? いまは一緒にいられる。お前、楽しくないか?」 問題はそこではなかった。アケルだとて、共に生きるのを楽しんではいる。だが変わってしまった世界。ラウルスが愛したアルハイド王国はもうない。 「俺の国が無くなろうと民は生きてる。ちゃんと生きてる。それでいいんだ。アケル」 「――時々、あなたが信じられなくなりますよ!」 「なんでだよ?」 「だって! 僕にはこの耳がある。あなたにはないのに! どうして僕の考えてることがわかるんですか!」 「そりゃあ、なぁ?」 「ラウルス!」 声を荒らげたアケルをラウルスは黙って抱き寄せ、その首に触れた。喉に指を滑らせるのは、傷めてしまうのをたしなめているのか。 「惚れてるから、色々考える。考えるから、想像して、わかる気がする。それじゃだめなのか?」 耳許で囁かれた声のその響き。甘く苦く痛いほどに快い。アケルは無言でラウルスの背に腕をまわしてはしがみつく。 「愛してるよ、アケル」 あまりの声に、アケルは応えることができなかった。ラウルスは、それでも理解してくれる、その確信。ただ頬を摺り寄せた。 「ほんと……こういうときのお前って可愛いよな」 くつくつと笑う声に正気づく。はっとして顔を上げれば、楽しげに笑う男がそこにいた。 「なにがおかしいんですか!」 「いやまぁ、色々と? すぐ怒鳴るかと思えば妙に可愛くもなる。困ったもんだ」 「なにがですか!?」 「そんなお前に惚れてる俺ってのも困ったもんだな、と思った。それだけだ」 何の含みもない言葉だからこそ、アケルは言い返せない。ただひたすらに赤くなるだけだった。それがまたラウルスの目を楽しませると知っていてなお。 「それで! どこに向かうご予定ですか、我が王!」 「可愛い嫌味だね、アケル」 ふん、と鼻で笑ってラウルスは取り合わなかった。それから辺りを見回し、首をかしげる。考え事をしている彼を妨げるアケルではなかった。 「シャルマーク、か……」 「姫様の姫様、お祝いに向かいますか?」 「なんだそれ? あぁ、ティリアに娘が生まれたって言ってたな……。いや、それよりヘルムカヤールが先だな」 ひとつうなずきラウルスは遠くを見やる。その眼差しの先に見たいものをアケルは悟り、黙ってラウルスの体の向きを変えさせた、シャルマークの王宮の方向へと。 「じゃ、行くか。シャルマークの北でドラゴンをよく見たって聞くからな」 「へぇ、そうなんですか。初耳です」 「そうか? 禁断の山の狩人でも知らないことがあるんだな」 軽く言い、ラウルスは歩き出す。王宮の方角を知った彼の足は、正確に北を指していた。 「お忘れですか? 僕はただの若い狩人だったんです! 父は知ってたでしょうけど、僕が知らないことなんかいくらでもありますよ」 「それはそうか。まぁ、そうだよな」 「なんですか、その腹に一物ありげな声は!」 リュートをかき鳴らせば、苛立ちとは裏腹の美しい響き。ラウルスはアケルの心根を聞いたかのよう、小さく微笑んだ。 「そう言えば若かったなぁ、と思ってな。まぁ、見るからに若いけどな?」 「未熟で申し訳ないですね!」 「そんなことは言ってないだろ。見ていて楽しいな、と言ってる」 「それ、物凄く年寄りくさい表現ですから」 「実際、お前から見たら年寄りだろうが」 「どうにもそうは見えなくて頭を抱えたくなることもしばしばですよ」 今度鼻で笑うのはアケルの番。だがラウルスはそれにからからと楽しげに笑い返した。事実、アケルは息子の年と言うよりは孫の年といったほうが近い。ラウルスが王家の人間でなければ、だが。 それを知ってもアケルはまったく気に留めた様子もなかった。王位にあると知っただけであれほど激怒した男が、一端和解したとなると一切を気にかけなくなったというのは面白いものだとラウルスは思う。 「ラウルス」 「なんだよ?」 「北って、どこまで行くんです?」 ゆるゆると歩くと見えながら、二人の速さは相当なものだった。旅慣れた健脚がそれを可能にしている。まして狩人と王国随一と謳われた剣士の足だった。 「とりあえず……そうだな、山までは行ってみるか」 「海までは、行かないんですか?」 アケルが視線を向けてきた。その目にラウルスは北の海を見る。厳しく人を拒む冷たい海の色。それなのに、豊かな海の色だった。 「お前の目の色をした海を眺めるのもいいけどな。海にドラゴンはいないしな」 「水棲のドラゴンって、いてもいいような気がしますけどね」 「でも聞かないよな?」 「ヘルムカヤールが泳いだら、すごく綺麗だと思いませんか?」 アケルの目は水を切る竜を見ていたのかもしれない。うっとりと、あり得ざる光景を瞼に映す彼こそが、美しかった。 「……妬けるな」 「なに言ってんですか!?」 「なーに動揺してんだよ? 俺が妬いたらなにか問題があるのか、え?」 「ちょっと! ヘルムカヤールみたいなこと言わないでください!」 あからさまにうろたえてアケルは両手を振り回す。それなのになぜかリュートの音色は途切れていない。不思議なものだった。 「また見つけたな」 「なにをですか!」 「お前が照れるところ。こういうところでも照れるんだなぁ。中々興味深い」 もっともらしく言うラウルスの足をアケルは無言で蹴りつけた。――はずが、見事にかわされた。さすが王国随一の剣士、など感心している暇はなかった。 「ちょっとラウルス! 何するんですか!」 「そりゃ、仕返し。するだろ、普通」 ひょいひょいと手が出てくる、足がでてくる。踊るような滑らかさで次々に繰り出される技をアケルはよけるのが精一杯だった。反撃など、とんでもない。 「本当に! どこにこんな国王がいるんですか! どうしてこんなに強いかな!」 ぜいぜいと息を切らせるかと思いきや、アケルの呼吸は乱れていない。それが若干悔しくもあるラウルスだった。 「どこにって、ここにいるだろうが。だいたい俺はシャルマークの田舎育ちだ。体を動かすのは当然だぞ?」 「どこにそんな当然があるんだか! 田舎育ちって言っても大公家の若様じゃないですか!」 「だからだっての。俺はいずれ玉座についた兄の騎士になるために育てられてたんだって。剣の腕を磨くのは、だから義務だったんだよ」 軽く言われた言葉の重さ。アケルは失敗を悟り、そしてすでに許されているのさえ知ってしまった。そんな彼をラウルスはちらりと見やって微笑む。 「剣の鍛錬は、好きだったしな。面白いじゃないか、自分の体を自在に使うのってのは」 「それは、よくわかります」 「だろ?」 にこりと笑うラウルスの、少年時代をはじめて知りたいとアケルは思う。出逢ったころにはすでに国王であった彼。王国を失っても、いまだ王である彼。国王の重責を知らないラウルスを知らないのだとアケルは気づく。 「あなたは……」 「なんだ」 「……どんな、子供だったのかな、と思って」 「普通の子供じゃないか。シャルマークに育った子供と同じよう、野原で駆けまわって遊んだし、冷たい泉で泳ぎも覚えた。木登りもずいぶんしたなぁ」 「ずいぶん奇妙な若君ですね?」 「だからシャルマークではそれが当たり前だったんだって言ってるだろ。いまじゃどうか知らないがな、俺が子供だった当時のシャルマークは寒いわ水は少ないわでかなり厳しい土地だったからな」 変わってしまった世界。一変した土地。歩き進める二人の足元、踏みしだかれる長い草は、あのころと変わらない青い匂いをしている。ラウルスはそう思う。 「僕も――木登りはずいぶんしましたよ。生活に必要な技術ですからね」 噛みしめるように言うアケルにラウルスはうなずく。確かに彼の故郷では、木に登れなければ家にも帰れない。 「どっちが速いか、今度競争するか!」 失ってしまったもの。新たに得たもの。ラウルスの声にアケルは知る。朗らかに笑って自分が勝つ、と宣言をした。 |