体中が草にまみれ、それなのにアケルは楽しげに笑っていた。文句を言うのはラウルスだった。いずれにせよ、気にした風もなくヘルムカヤールの元に戻ってくる。 「で? 言いたいことってのはなんだ、でっかいの」 まるで何事もなかったかのようにラウルスは問う。ヘルムカヤールの牙の間から、またも吐息が漏れた。 「その気持ち、すごくよくわかりますよ。ヘルムカヤール」 「この人間は、何を考えてるんだ?」 「それがわかれば僕も気が楽になるんですけどね」 「まったく! もう少しまともな男を選べ!」 「僕に選択権があったとは思えませんけど?」 言葉を交わす竜と彼にラウルスは小さく溜息を漏らす。何か酷いことを言われているような気がするものの、当を得ているだけに中々言い返しにくかった。 「なぁ、でっかいの。さっさと話しを続けないとまた話がそれるぞ?」 からりと笑ってラウルスは言う。それにアケルが目を留めて、顔を顰めて見せた。あからさまに話題を変えたのが知られてしまったらしい。 「ふん……。言いたいことはまだあるが、勘弁してやろうか。呼びつけた用件だがな、二人とも」 不意に竜の声音が真剣なものになる。アケルは居住まいを正し、ラウルスの目は鋭さを増す。それに竜はうなずいて見せた。 「お前たちは当面は死ねない身になった、そうだな?」 「えぇ、何かするべきことがあるらしいです、黒き御使いの言ですが」 「それをどう考えておる。ちっこいの、どうだ」 「どうって言われてもな……。俺は討ち漏らした混沌を撃滅するのが俺たちの役目、と思ってるが」 「それが終わるまでは僕らに休息はない、と言うところでしょうか」 二人の人間に竜は溜息をついた。呆れているのではない。感嘆もしていた。だが、間違ってもいた。おそらくそうだろうと思ったからこそ、助言する気になっていた。 「ヘルムカヤール?」 アケルが竜に問いかける。柔らかな声音でありながら、芯の通った。それも強靭極まりない芯だ。ラウルスですら、背筋を伸ばしたくなるほどに。 「間違っておるよ。そうじゃない、そうじゃないぞ、お前たち」 「……どういうことですか、ヘルムカヤール。だって!」 「混沌なんぞ放っておいてもかまわん、人間にとってはな。お前たちは妖精のために集める、と言うのだろうが。人間にはもう関係はないぞ」 「そんなはずはないでしょう!」 「現に、混沌に操られたというか、乗っ取られたというか。そんな人間がまだいるぞ」 「それも次第に減って行く。すぐに収まる程度のことだ」 竜の言葉に耳を傾けないのは愚か者のすること。アケルはじっと言葉の意味を感じていた。言葉、ではない。声の意味、かもしれない。 「話して、くれるんですね?」 まだ言っていないことがある、そうアケルは問うように首をかしげた。だがラウルスは隣で厳しい顔をしていた。 「待て、その前に混沌だ。だいたいな、混沌があるから、アルハイドの均衡は崩れている。そうだな?」 「だからな、ちっこいの。それはあのときのような大量の混沌あってのことだ。わかるか、え? いまこの世界に残っている混沌は少々の影響を与えはするが、その程度だと言っておる」 「ちょっと待ってください。でも――」 「だからの、小さいの。この世界には自浄作用というものがある。あの程度の混沌は放っておいても世界がいずれ浄化する。まぁの、浄化、と言うわけでもないんだがな。人間にわかりやすく言えばそういうことだ。要は人間に害のない形になるということだからな」 独り決めしてうなずく竜に、人間たちは言葉もない。ならば自分たちのしていることは無駄なのか。否、妖精のためになる。否、根本的な問題がある。なぜ自分たちはまだ死ねない。呪いはいまだ解けてはいない。 「ヘルムカヤール。聞きたいことがある」 それはアルハイド国王アウデンティースの声だった。竜と言葉を交わして遊ぶラウルスではなく。それを悟ったか、竜も真摯な目をしてうなずいた。 「均衡の問題だ」 「なるほど、天の御使いのことが聞きたい、と言うわけだな? いい目をしておるよ、アウデンティース」 「言ってろ。混沌は、人間にとって放っておいても問題ないのは理解した。放っておく気はないが。だがここに均衡の問題がある。混沌が人間に害なすものであるかぎり、天の御使いの放つ聖性もまた問題になるはずだ。俺は、間違っているか?」 「いいや、あっておるよ、アウデンティース」 アケルは、時そのものが凍りついたかのように感じられた。まさかと思う。やはりとも思う。ラウルスが嫌った、いまは神人と呼ばれている天の御使いたち。それはもしかしたらアルハイドを統べる国王としての勘だったのかもしれない、民のためにならないと。 「だったら、ヘルムカヤール! 僕たちはどうしたらいいんです!? だって、天の御使いですよ! いくらなんでも人間の手には余る!」 「……怖いこと言うよな、お前は。まったく。いくら俺だってぶち殺そうとは思ってなかったぞ?」 ぼそりと言うラウルスに、ヘルムカヤールがその巨体を震わせた。それだけ恐ろしいことを聞いてしまった、と言うことなのかもしれない。そう思えばアケルは少しだけ、恥ずかしくなった。 「でも……! 神人が人々の害になるなら」 「待たんか、小さいの! 人の身で何をしでかすつもりか、お前らは!」 「それこそちょっと待ってもらおう! 俺を一緒にするな、俺を!」 「なにをほざくか。二人は一心同体だと言ったのは誰だ、え! 小さなアクィリフェルが考えてるならちっこいアウデンティースも考えておる。そうに決まっているわ!」 「あながち否定もできないところがちょっと悲しいよな?」 「否定してください、きっぱりと! あなたが僕を止めないでどうするんですか!?」 「なんだよ、止めてよかったのか?」 これが真剣に聞こえるのだから困ってしまう、アケルはそう思って首を振り気づく。自分を呆れさせるためにラウルスがそう言ったのだと。そして正気に戻すために。 「意地悪ですよ、ラウルス」 「なんのことだ?」 にやりとした男にアケルは小さく笑って見せ、肩の力を抜く。いま考えるべきは、人々のこと。そのために生かされているのだから。何をするべきか明らかにならなくとも。 「本当にお前らときたら!」 再び吹き飛ばそうとしかけたヘルムカヤールに咄嗟にラウルスは掴みかかる。アケルは唖然とした。友人であろうとも、相手は竜。よくぞそこまで思い切りのいいことができるもの。 「ちっこいの……お前なぁ」 さすがのヘルムカヤールも毒気を抜かれたのか、呆れていた。長い首を振り、戯れに突き飛ばす。ラウルスは上手に転がってアケルの元まできれいに戻った。 「話がそれてしまってすみません、ヘルムカヤール。それで神人のことですが」 「で、またあっさりと話を戻しよるわ。まったくお前らときたら――!」 「まぁ、そう言わずに助言をくれると嬉しいな、でっかいの」 にこりと笑うラウルスに、ヘルムカヤールは冷たい目を向けた。それなのに、そこに通うのが紛れもない友情であるとアケルにはわかる。それがたまらなく嬉しかった。 「神人なぁ、神人。まぁ、あちらも放っておいてかまわんよ、たぶんな。それこそ時を経てみなければわからんがね。我の確信は間違ってはおらんはずよ」 「その根拠は?」 戯れる男の顔から一瞬にして王の表情へ。アケルだけではなく竜ですら見惚れるほど鮮やかに。 「ヘルムカヤール。その人は僕のですから」 「要らんわ!」 「そうでしたか。残念」 「おい、アケル! もしでっかいのが欲しいって言ったらどうするつもりだったんだよ、お前」 「さぁ、どうしたでしょう?」 にっこりと、絶妙な笑み。ラウルスは天を仰ぎ、そしてそこにある竜の険悪な目を見てしまった。上から圧し掛かるようにして二人に牙を剥いている。 「あぁ、悪い。それで、だ。神人を放っておいていい根拠を聞かせてくれって頼んだところだったよな、でっかいの?」 「言おうとしたら小さいのが絡んできたんだ! お前の男だろうが、躾けろ!」 「無茶言うな。俺も命が惜しい」 「どういう――」 意味か、と問うより先にヘルムカヤールの怒号が響く。アケルが両手で耳を覆ったところを見れば、世界の歌い手にはずいぶんな打撃だったらしい。 「酷いですよ、ヘルムカヤール」 頭を振って頭痛を払うアケルに、竜は鼻を鳴らしただけだった。 「まず根拠と言うより推測の類だ、と言うことを理解してもらおう。我はな、ちっこいの。彼らが天の御使いではない、と思っておるのよ」 「な……!」 「いや……天の御使いではあったはず。だが、過去には、だ」 ヘルムカヤールはそう言って頭上遥かを仰ぐ。御使いの住む世界と言うのは、天にあるのだろうか。それとも遠い違う世界なのだろうか。竜にもそれはわからないことだった。 「御使いにとって第一でありすべてであるのは、規範だ。秩序を守る。それに尽きる。アウデンティース、我は問うぞ。この世界は秩序に満ちているか? 規範に則ってすべてが動くのか」 「いや……そんなことはない。そうだな、人間にとって、それは息苦しいことだろうな。俺にはアケルの耳がない。だから、勘の類だ。それでよければ言うが。規範と言うのは、確かに人間を正しく歩かせる。だが、混沌は規範とは反対の性質を持つんだな? だとしたら、それは人間に勢いを与える。人間は、どちらもなければ生きてはいけない」 「――まったく。お前のことがわからなくなるよ、ちっこいの。まったくもってそのとおりだ。ならば天の御使いにとってこの世界は正しい世界か? 救うべきものなのか?」 竜の言葉は重大な意味を含んでいた。アケルは背筋を震わせた。ラウルスは拳を握り締めた。だからこそ、天の御使いは混沌の侵略から救ってはくれなかったのだと理解した。人間を見捨てたのだと、理解した。 |