女王は、うっとりと微笑んだ。まるで満足のそれ。ラウルスは一瞬とは言え、頭に血が上りそうになる。それをとどめたのはアケルの手だった。 「違いますよ、ラウルス。女王は……たぶん、喜んでいるんじゃないですか」 小首をかしげ、アケルはメイブを見やる。それに応えて女王はうなずいた。 「えぇ、そうです。ヘルムカヤールはすでにわたくしの友人でもありますもの」 「客ではなく?」 「はじめは客人でした。が、いまは」 にこりとメイブが笑った。紛らわしいことをしないでいただきたい、とラウルスは内心で小さく呟く。それでもなぜか女王には感じ取られてしまう、そんな気がした。 「それで。ティルナノーグの女王。ヘルムカヤールは、どこです」 きゅっとアケルが唇を噛んだ。元気でいるのならばなぜここにいない。竜はいつもここでサティーと共にいたものを。 「だからですよ、世界の歌い手」 メイブの声にはっとした。そんなことにも気づかなかった己の頭を殴りたくなる。すらり、アケルは立ち上がる。 「行きましょう、ラウルス」 「どこに、だ」 「ちょっと離れれば……大丈夫じゃないかな」 首をひねってアケルは考える。そっとラウルスは溜息をつき、アケルに従うことを選んだ。色々と問い質すより、そのほうが遥かに早い。 「女王。あなたはどうなさる」 「わたくしはここに。あなたがただけでお出でになるとよろしいでしょう」 「それは?」 「ご友人だけでお話しになったら、と言う気遣いですが」 本当か、と言わんばかりの目つきでラウルスは彼女を見つめた。いずれ、妖精の真意など人間にはわかりがたい。ならば肩をすくめて進んだほうがずっといい。 「行こうか」 アケルを促し、ラウルスは女王に軽く目礼を送る。アケルはきちんと一礼し、二人は足を進めた。どちらに、と言うわけでもない。 一歩進むごとに景色が変わるようだった。以前はそのようなことはなかったと思えばこれが女王の気遣いなのか、それとも女王の力の衰えなのか、わからなくなる。 「どっちだ、アケル」 ラウルスの言葉に、声に。アケルは小さく微笑む。黙ってリュートの弦に手を置いて静かに爪弾いた。 「だからじゃないですか、もしかしたら? ヘルムカヤールと三人で話せって言ったのは」 「自分のことは話題にされたくない……いや、してもいいが聞きたくはない、と言うところか」 「たぶんですよ、たぶん。僕でも妖精族の心は聞き取りにくい」 軽く肩をすくめ、アケルはリュートを奏でていた。それからぱたりと足が止まる。 「どうした?」 あまりにも唐突でラウルスは唖然とした。何かよくないことでも起こっているのではないかと疑いたくなるほど、アケルは急に止まっていた。 「馬鹿だ。僕はこの上もない愚か者だ! どうしてこんなところをとてとて歩いてるんですか、僕は!」 「いや……それは、ヘルムカヤールを……」 「だから! 見つけるんだったら探しまわらないでいいんです!」 そう言ってアケルはリュートから手を離す。どうするのかと思ううち、彼は腰の小袋から何かを取り出す。 「あぁ……それか」 ようやくラウルスも気づいた。確かに馬鹿だと言いたくなる気持ちもわからなくはない。アケルを見やれば多少、落ち込んだ表情。 「色々あったからな」 ぼそりと言えば首を振られた。何もかもを自分で考えたいのか、そうも思う。責任感が強すぎるのも考え物だった。 「なぁ、アケル。前にも言った。全部を何でも自分でしようと思うな。それじゃスキエントの二の舞だ」 「あなたはどうなんです? 我が王よ、アウデンティース国王陛下? あなたは全部を自分でしたい人でしょう?」 「できることをできるだけやってただけだ。まぁ、それは今もだがな。なんでも全部とは思ってないぞ?」 それが真実なのだとしたらとんでもない男もいたものだとアケルは思う。器量が違う。全部はできないなどと言いながら、本当になんでもできるのだから。 「本当はな、アケル。統治者としては望ましい性格じゃないんだぞ? 国王ってのは、あれこれ指図するのが仕事でもある。任せられるところは任せたほうがいいんだ。俺の場合、任せるより自分でやったほうが効率がよかったってのがまぁ……幸か不幸かってところだ。それだけだな」 なんでもないことのように言う。初めてアケルは理解した。三人の彼の子供たちが、王国を三分割せざるを得なかった理由。誰も彼のようにはなれない。 「あなたは、真実最後のアルハイド王なんですね……」 もしかしたら、以前の王は彼に似ていたのかもしれない。けれど以後の王は彼には似ないのだろう。アルハイド王国は消え去り、そして三つの王国が大陸を統べていく。 「時代が、変わっていくんだな」 呟くアケルの声に忍び込んだのは寂寥か。変化していく時代に、自分たちは入り込めない。ただ遠くから見つめるだけ。 「後悔してるか?」 「まさか! 人知れぬ守護者で充分ですよ。いずれ狩人とはそういうものでしたしね」 言って思いを振り切るようアケルは手の中の物を唇に当てた。それは小さな笛だった。細かく繊細な彫刻が施された笛。木ではなく、金属でもない。滑らかな白は、竜の牙だった。 「おぉ……」 ラウルスの唇から、声が漏れる。思わず漏れてしまった、そんな声音だった。笛の音は澄んだ高い音色。それでいて豊かに轟く。 「でっかいのの音だな」 小さく微笑んでラウルスはアケルを見つめる。その笛は、以前ヘルムカヤールがアケルに渡したものだった。竜自身の牙を彫ったもの、と言って。 「こっちです」 「ん、わかるのか?」 「僕を誰だと思ってるんです? ヘルムカヤールの声が聞こえます。応えてくれたみたいだ」 悪戯っぽく言い、アケルは再び歩き出す。その足取りのためらいのなさにラウルスは笑い出したくなる。なぜかはわからない。奇妙に愉快だった。 「なぁ、アケル。色々変わってもな、悪くはないと思うこともあるよな」 「そうですね。寂しいけど、今はまだ寂しいですけど。変わっていくんでしょうね。でも、たぶん、世界は変わらないんです。変わっていっても、この世界はこの世界として、あるんです。なんだかそれって、すごく安心しませんか」 彼の言葉にラウルスは空を見上げる。緑の大地を見下ろす。踏みしめる足の下、確かなものがそこにある。 「風の音も。月も星も太陽も。変わらないものはちゃんといつまでもそこにあるんです」 「人間もな」 「えぇ、きっと」 こくりとうなずき、アケルは手を伸ばす。まるで風を掴み取ろうとするかのように。そんな自分に照れたのか、アケルがそっとうつむいた。 「アケル」 その頬に手を触れた。照れて赤くなった頬は、かすかに熱い。手に心地良い熱を感じつつラウルスは身をかがめる。甘い唇がそこにあった。 「人を呼びつけておいてなにをしているか、ちっこいのども!」 怒号に。ラウルス共々アケルが飛び上がる。そのまま体勢を崩して草の上、尻餅をついた。狩人としては最大級の失態と言わねばなるまい。 「ヘルムカヤール! なんでここにいるんですか!」 「そりゃせっかく会いにきてくれた小さいのを迎えにきたに決まっておろうが。だと言うのに、まったくお前らときたら」 長い首を優雅に振って溜息をつく竜などめったに見られるものではない。が、何度も見たいものでもないな、とラウルスは思う。 「でっかいの」 「なんだ、ちっこいの」 「ちっとは遠慮しろよ。せっかくいい雰囲気だったんだぞ?」 「なにを言うか! 人を呼びつけておいてだな、それで雰囲気をつくろう、と言うのがそもそも間違っておる。違うか、ちっこいの!」 「まったくもって返す言葉がないがな。でも遠慮しろ!」 「なにを馬鹿なことを言うか!」 竜の前にすっくと立ちはだかり偉そうに胸を張るラウルス。生真面目に礼儀を言い募るヘルムカヤール。アケルは溜息をつく。 「それ、どっちもどっちですから」 「お前な! こういうときには俺の味方をするものだろうが」 「なにを言ってる、小さいのは我の味方だ。そうだな?」 「どちらかと言えばどっちの味方もしたくないです。それで、ヘルムカヤール、本題に入っていいですか?」 「ふん、呼びつけておいて――」 まだ一くさり文句を言おうとする竜の首にアケルは手を置く。そして竜の目を覗き込み微笑んだ。そこにヘルムカヤールがなにを見たのか、ラウルスにはわからない。なぜかほっとした、そんな気がした。 「あなたがここにいてくれてよかったです」 「なんだ。用があるなら笛で呼べ、といつも言っておろうが」 「違います」 そうではない、とアケルは首を振った。緩やかな動きにつれて赤い髪がなびく。美しいのに、胸がざわめく。 「もし……あなたまでいなくなってたら。そう思って」 「あぁ……サティーか。残念なことをした。寂しいよ、我も」 呟く竜の声音にアケルはまたも涙がこぼれそうになる。けれど、幸福なことだとも思う。寂しいと切ないと、互いに言える相手がここにいる。友はまだ、ここにいる。それは幸せなのだと、アケルは思う。 けれどそれが、哀しかった。意味などわからない。けれど。アケルは竜の首に腕を絡めてすがりつく。優雅な首は、しかし逞しかった。とても抱きすくめることはできない太さ。一枚が盾ほどもある鱗。静かに竜は首をかがめ、アケルの肩に頭を寄せた。 「寂しいな――」 そこに入れない自分が、ではなく。ラウルスは一幅の絵画のごとき竜と人との景色が、胸に迫るほど美しく、哀しかった。 |