アケルはその場に座り込む。いまになって涙があふれて止まらなかった。陽気で可愛らしい異種族の友人。魔族であっても、彼らは友人だった。
「アケル――」
 そっと隣に腰を下ろしたラウルスの腕が伸びてくる。それを見ていたはずなのに、気づけば彼にしがみついて泣いていた。
「泣くな、アケル。頼む、泣くな」
「でも――!」
「これでサティーたちは助かる。それでいいと、そう思うことにしよう。な?」
「わかってます。そんなことはわかってるんです!」
「でも、寂しいよな……」
 長い付き合いと言うほど長くはない。深い付き合いと言うほど知りもしない。それでも二人はいつも自分たちを助けてくれた。今度はこちらの番だと、そう思っていたのに。
「アケル。妖精郷に行くぞ」
「どうして――」
「女王の説明が聞きたい。それくらいはしてもらおう。いままで黙ってたんだからな」
 何もある日突然にサティーたちの生命が危うくなったわけではないだろう。ラウルスの示唆にアケルの涙は止まる。見る見るうちに顔が険しくなっていく。
「ティルナノーグの女王! 僕の声が聞こえているはずです! 答えてくれないなら、押しかけますよ!」
 唐突にアケルは立ち上がり、腕を振り回して叫んだ。ラウルスは一度頭を抱え、やはり立ち上がる。
「お前な。もう少し外交ってものを覚えろ」
「なんですか、それは!? 僕はただの狩人です! そんな面倒なことはあなたがすればいいんです、我が王!」
「……押し付けるなら、話を面倒にするのは勘弁して欲しいんだがな」
 ぼそりと言ったラウルスに答える寸前、霧がかかった。何もないところに突如としてかかる霧、などというものは存在しない。自然現象としては。だからこれは。
「聞こえていますよ、世界の歌い手、アクィリフェル。お怒りのようですね、おいでなさい」
「言われなくても!」
「だから喧嘩を売るな、喧嘩を」
 できることならば襟首を引っつかんでアケルを引き戻したかったラウルスだったが、それをしては八つ当たりをされるとばかり放っておいた。いずれにせよ、メイブに尋ねたいことがあるのは同じだった。
「女王」
 霧の中を一歩と進んでいなかった。それなのにそこは滴る緑の地、妖精郷。麗らかに照った日が眩しいほどだった。
 ラウルスはアケルの非礼を詫びるよう、軽く頭を下げて見せる。メイブもそれに応えて目礼をした。
「サティーたちのことですね、世界の歌い手」
「もちろんです! どうしてなんですか、なぜこんなに、いきなり……」
 きゅっとアケルが唇を噛む。慰めてやりたくとも、人目があるうちは拒むだろう。だからラウルスはただ黙って隣にいた。
「わたくしの言葉が、信じられますか。世界の歌い手」
「どういう意味――」
「あなたは、わたくしに怒っているのでしょう。そのわたくしの言葉が信じられるのですか」
「……努力は、します。サティーのことを僕はあまりにも知らない。女王の言葉を信じるよりないんですから」
「でしたらお座りなさい。アルハイド王、あなたも」
 座れ、と言うことはとにかく今のところ敵意も何もない、話し合いがしたいと女王は望んでいるのだ、そうラウルスは解釈する。
「アケル」
 肩に手を置いて促せば、渋々と腰を下ろした。ラウルスは、この瞬間こそ、現実が悲しくなった。いつもならば、座ると同時にいたるところからサティーが現れたものを。そして飲み物はなにがいいかと尋ねて笑い、用事を言いつけられたとはしゃいでは踊っていた。
「……もう、いないんですね」
 アケルがそっと呟いた。まるで自分の声によって現実になってしまうことを恐れるような、けれど紛れもない事実だとすでに知っている、そんな声。
「えぇ……」
 うなずいた女王の声に、初めてアケルは彼女をまっすぐに見た。じっと見つめ、けれど見てはいない。聞いていた。
「ティルナノーグの女王。お寂しいのですか」
「あなたはわたくしを何だと思っているのですか。もちろん寂しく思います。サティーたちは、長く我が客人でありましたもの」
 遥か昔からずっと、そして何事もなければ永久にこのまま。女王ですら、そう思っていたのだとアケルは知る。
「混沌の侵略がなければ……」
 サティーたちは、いまも妖精郷で戯れ、遊んでいたことだろう。それを思えばやりきれなかった。
「女王、尋ねてもいいか」
「なんでしょうか、アルハイド王」
「さっき、そこで黒き御使いに会った。彼、と言っていいのかどうか知らんが、あの方が、サティーの主なんだな?」
 ラウルスの言葉に、メイブは動きを止めた。夢のように美しい彫像のごとく、動きを止めた。
「女王?」
 アケルの声が再びメイブに生気を吹き込む。激しく、けれどゆっくりと深い呼吸をし、メイブは瞬きをした。
「私はそんなに妙なことを言ったかな、女王?」
「あの方がこの地にいらした、と聞いて死ぬほど驚いた、それだけですよ、アルハイド王」
「なんだと? そんなに驚くようなことなのか? 我々がお目にかかったのは、これで二度目だが……」
 首をかしげるラウルスに、そっとメイブは溜息をついた。それほどの異常事態だとラウルスはまるで認識していなかった。アケルも当然そうだった。
「主人自ら、従者の一族を迎えに来た、と言うことはそれほどサティーの命は危なかった、と言うことなんですね、女王?」
「従者の一族と言いましたか。それをどこで――いえ、あの方が自ら仰せになったのでしたね。えぇ、そうです。もっとも、あの方の従者をしているのは一人か二人。サティー族のすべてがあの方に仕えているわけでもありません。少なくとも、わたくしはそう聞いています」
「女王にもわからない?」
「お忘れですか、アルハイド王。わたくしは妖精です。彼ら魔族と、疎遠ではありませんが親しくもない。あなたがたが妖精と親しくはないように」
「ですが女王、サティーたちは、長くあなたの元にあったはず。それでもわからないことのほうが多いんですか。どうして急に、こんな……」
 アケルが言葉を途切れさせ、メイブは彼を見つめた。その眼差しにある慈愛にラウルスは驚く。そしてその瞬間に悟った。真実、女王はサティーの帰還に寂寥を覚えてもいるし、自らの無力を嘆いてもいる。ラウルス自身、覚えのある感情だった。
「わたくしにとっても、急なことだったのですよ、世界の歌い手。まだ大丈夫だ、もう少しで元気になる、本当に、そう思っていたのですよ」
 メイブの視線が背後に流れた。気づけばそこは、あの混沌の湖。いつもここでサティーたちは遊んでいた。あの声も踊りまわる足音も、もうここには影もない。
「先ほどのことです。あなたがたが黒き御使いと呼ぶお方の従者がわたくしの下に参りました」
「パーンですか? さっきもそこにいましたが」
「えぇ、そうです。パーンが、わたくしに言うにはもう限界だと。彼らがこの大地で生きていくのは難しいと。だから、魔界に連れ帰る、そう言いました」
 ラウルスはパーンを思う。独特な、けれどサティー族らしい話し方をしていた。一度、ピーノとキノ、そしてパーンが共に楽しく踊るところを見てみたかった。そう思う。もう叶わない願いではあったけれど。
「混沌が、足らないのだそうです。それは、わたくしも……感じないでは、ありませんでしたが……」
「ちょっと待て、女王。と言うことは、だ。妖精族の危機でもあるわけだな?」
「無論です。言いませんでしたか。我々は、人間より遥かに混沌と秩序の均衡の変化に敏感です。加えて言うならば、人間より多少、混沌が多くなければなりません」
「だったら決まりだな、アケル?」
「もちろんです」
 うなずきあった二人の意思の在り処が、メイブにはわからないようだった。軽く首をかしげて見つめられ、ラウルスは苦笑する。
「まだまだ混沌の収集を続ける、と言うことさ、女王」
「あなたがたは……なぜですか」
 驚いた女王は、奇妙なほどに少女の容貌。あどけなく可憐、けれど老獪な。アケルはそこにいるのが妖精であるとまざまざと見せつけられた思いで見ていた。
「世話になったからだ。忘れたのか、女王。あなたが助けてくれなければ、我が民の死者はどれほどだったか。あなたが忘れても、私は忘れん」
 きっぱりと言うラウルスに、メイブは莞爾とした。儚いほどに美しく、同時に何より強靭な。まさしく女王の笑み。
「ところで、ティルナノーグの女王」
「なんですか、世界の歌い手。わたくしも聞きたいことがあるのですが」
「ではそちらを先にどうぞ?」
 肩をすくめたアケルにラウルスは笑い出したくなった。初めてここを訪れたときには、女王の存在に恐れおののいていたものを。
「もうわたくしに怒ってはいないのですか。あなたがたの友人を、勝手に引き渡したわたくしを、怒ってはいないのですか」
「僕らに相談する時間があったら、サティーたちの命を考えていただきたく思います。サティーたちの命は、旦夕に迫っていた、そうですよね? だったら、怒りません。確かに……驚きましたし責めたくもありました。でも、仕方ないことだった。――僕らはもう会えないのかもしれない。それでも違う世界でピーノもキノも生きている。それで、いいことにします」
 本当にそれでよいとはアケルは微塵も思っていない。寂しくて、切なくて、助けられなかった後悔で、アケルは今にも崩れ落ちそうだった。ラウルスは黙って手を伸ばす。握ったアケルの手は、冷えた指先をしていた。
「だから今度は僕から質問です。――ヘルムカヤールは、どこです?」
 アケルに言われ、初めてラウルスは気づいた。はっとして辺りを見回す。見落とすはずもない巨体が、そこにはなかった。常にサティーたちと共にあった竜が、湖にいなかった。
「女王、まさか!」
 ヘルムカヤールに、何かがあったのか。だからこそ、アケルの声は震えていたのか。聞きたくないことを、すでに悟っているのか。ラウルスは彼の手を強く握り締める。繋いでいるのか、すがっているのかわからなかった。




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