村人ががやがやと楽しげに騒いでいた。いつもどおりの酒場の景色。酒場の主人がやってきて、歌の礼だと素朴な葡萄酒を寄越した。 「この人は、あんたさんの連れかい?」 「えぇ、そうです」 「だったらこの人にも差し上げような」 にこにこと主がラウルスのぶんも葡萄酒を持ってきてくれた。アケルとしてはこの上なく申し訳ない。歌いはしたが、こちらの都合。感謝されるいわれなどどこにもない。 だがそうとも言えず、アケルは笑顔で礼を言う。そして再びリュートを取る。先に礼物をもらった、と思えばいいのだ。 「では、もう少し歌わせていただきましょう」 緩やかな吟遊詩人の声でアケルは言う。流れるリュートに、ラウルスは不思議とミルテシアの大地を思う。大らかで、それでいて鬱蒼とした。あるいはそれは森の音。いずれ訪れる遥かなる未来のミルテシアの景色。 梢を渡る風のよう、リュートの音が遠のいていった。しわぶきひとつ立てずに聞いていた人々が、わっと歓声を上げる。 「いやはや、本当にすごいな、あなた。カルミナよりすごいかもしれん」 腕組みをしてうなるのは、音楽好きの男か。自分の審美眼に自信があると見え、ああでもないこうでもないと首をかしげている。 「その、カルミナ・ムンディとはどんな人なんです?」 アケルの言葉に。ラウルスが少しばかり困った顔をした。何か、と問う前に彼は葡萄酒を飲んで顔を隠してしまった。それこそをアケルは不思議に思う。 「金髪碧眼の若い男だって聞いたよ」 「なに言ってんだ。金髪は金髪だが、目も黄金。んでもって初老だって話だぜ」 「馬鹿言うなよ、目は青。赤毛の美女だぜ」 口々に言う村人の声にアケルはやっと見当がついた。長い溜息をつきたいような、喜びたいような、否々大いに嘆きたいような、そんな気がしてわけがわからなくなる。 「あの……どんな歌を?」 一応は聞いておくかとばかり問えば、こればかりは全員が口を揃えて言った。 「アルハイド王国の歌だよ。最後の王様の歌だ」 もうこれで決定的だった。小さく溜息をつき――さすがにここで盛大な溜息はつきかねたから――アケルはにっこり笑って葡萄酒を飲み干す。歌い終わって喉も渇いていた。 「ラウルス、行きましょうか?」 「なんだ。もう行っちまうのかい? この先は村があんまりないよ。どうせだったら泊まって行けばいいだろうに」 「ありがとう。でもちょっと先を急ぐんです」 「あぁ、あれか! あんた、あれだね。シャルマークの女王様にお姫様が生まれたんだったな? その祝いに駆けつけて稼ごうって腹だろう?」 「あはは、ばれちゃいましたか。えぇ、そうなんです。ですから、ここには帰りにでもまた寄らせてもらいますよ」 「そうしておくれ、約束だ!」 果たすつもりで果たしたこともある約束。けれど決して果たされることのない約束だった。いついかなるときでも彼らは二人を覚えてはいない。 何度繰り返しても少し胸が痛む。少し、で済むようになったとも言う。アケルは笑顔でリュートを手に、ラウルスは無言ながら愛想よく酒場を立ち去った。 「で。ラウルス、どういうことだと思いますか?」 アケルが口を開いたのは、村からずいぶんと遠ざかった後のこと。万が一にも他人に聞かれない用心だった。 「あれか、カルミナ・ムンディ?」 「です。あれ、僕のことですよね? 金髪金目と言うのはあなただと思いますけど」 「俺は金髪か?」 「どちらかといえばね。茶色と言うより金でしょ。それはとにかく置いておいていいんです。あのわけのわからない名前がどういうことなのか……」 きゅっと唇を噛んでアケルは考え込む。それは確かにそうだろう。アケル、あるいはアクィリフェルと言う名はもうどこにも残っていない。そう呼ぶのはラウルスと妖精、そして竜だけ。 「でもカルミナが自分のことだとは思ってるわけだな?」 どことなくからかうような痛むようなラウルスの声にアケルは正気づく。アケルの歌を何より買い、誰より楽しむ男。そして本人よりずっとこの歌が忘れられることを嘆く男。 「僕は別に自分の歌がどうなってもいいんです。吟遊詩人としたほうが通りがいいだけで、実際はまだ狩人だと思ってますしね」 「だけどな、アケル――」 「話しは最後まで聞いてくださいって何度言ったらわかってもらえるんですか!」 声を荒らげながら笑うという器用な真似をし、アケルは肩の力を緩めた。それまで随分と緊張していたらしいとようやく自分で気づく。 「僕の歌は、この世界のため。この世界の歌を聞いて、この世界のために歌うんです。僕の歌は――人のためじゃない。でも、他の誰のためでもなく世界のためでもなく、あなたは聞いてくれる。あなただけは楽しんで聞いてくれる。だから、僕はそれでいいんです。あなただけは僕の歌を覚えていてくれるから」 それで充分。名を残すことなど微塵も考えていない、アケルはそう言う。思えば彼は禁断の山の狩人。秘せられた務めを当然として受け入れた狩人。そもそも名を残すという考えがないのかもしれなかった。 「それでも俺は、お前の歌が忘れられるのが悲しいよ、アケル」 「そう言ってくれるあなただから、充分です」 久しぶりに綺麗な笑みだった。屈託もなく、照れてもいないまっすぐな彼の笑顔。眩しいような気がしてラウルスこそ照れてそっぽを向いた。 「さっき、どうして自分だって確信があるかって言ってましたよね? そんなもの、自明じゃないですか」 「そうか?」 とろとろと歩き続ければそこはまたも若い木立。遠くない将来、ここは大森林になるのかもしれない。そう思ってラウルスはその想像を笑った。森はできるだろう、確かに。けれど大森林は無理だ。アルハイドの大地には多くの人間が住み暮らす。人間は樹木を利用するもの。大森林にまでは育つまい。だからラウルスは夢想する、この若い木立が大きな森に育ったところを。木々がどこまでも続く道を歩くのは心躍ることだろうか、それとも恐るべき経験だろうか。試してみたいな、と不意に思った。 「聞いてます、ラウルス?」 「あぁ、いや。すまん。ここが森になったら素晴らしいだろうなと思ってな」 だったら仕方ない、とアケルはそっと微笑んだ。見れば気づかないうちにアケルはリュートを爪弾いていた。前と同じ、つつがない成長を祈る曲を奏でていたのだろう。 「カルミナが僕だって言う確信ですけど。あのね、ラウルス。よーく考えてください。いまのこの世の中で、アウデンティース王を、その最後の偉業を歌う吟遊詩人が、それも腕のいい吟遊詩人がごろごろしてると思ってるんですか?」 「……言われてみればそのとおり」 「でしょう? だからカルミナって言うのは僕のことです。なんでそんな名前になってるのかは知りませんけど。と言うか、半端な覚え方されてる理由もわかりませんけど」 肩をすくめ、アケルはなんでもないことのように歩いていく。けれどほんの少し、ラウルスにも見せない心の中で憤慨してた。 なぜ、自分だ。どうしてラウルスではなく自分が覚えられるのだ。立派なのも素晴らしいのも自分ではない、ラウルスだ。アケルはそう思っている。自分はただラウルスの手伝いをしているだけだと。 王冠を失ってからもこれほど彼は人々のために尽くしている。見返りなど求めていない。できることだからしているとあっさり言うだろう、彼は。だからこそ、偉業だとアケルは思う。その彼のことが何一つとして覚えていてもらえないのに、なぜ自分の歌が。怒ってでもいないと泣き出しそうだった。 「アケル」 「なんですか!」 「さっきお前は、俺が覚えてるからいい、聞くから充分って言ったよな?」 「言いましたけど、それがどうしました?」 ちらりと彼を振り仰ぎ、すぐさま顔を戻した。見てはいけない気がしたほど、ラウルスの笑みは見事だった。同時に、切なかった。 「だったら、俺も同じだ。俺のしたことは……まぁ、人のためになったこともならなかったことも、間の抜けたことも成功したことも。全部お前が見ててくれてる。お前が覚えてる。だから、それでいい。名声も記憶もいらん」 「……こういう時、つくづく似たもの同士だなって思いますよ」 「だからどうしてそれを溜息つきながら言うんだよ、お前は!」 「お互いに相手でよかったね、似合いだね、会えてよかったねって言って笑いあってたら進歩がないでしょうが、進歩が!」 「要するにお前はそう思ってる、と。なるほど、それは気づかなかった。ありがたいことだね」 「ラウルス! 僕はそんなこと言ってない!」 「生憎、俺にはそう聞こえた」 「どんな都合のいい耳してるんですか!?」 「こんな耳だって――やっててもいいけどな、アケル? ちなみに俺はなんでカルミナの名前が広がりだしたか見当がついてるぞ。聞くか? それともじゃれててもいいが」 「いいわけないでしょう!」 思い切り鼻を鳴らしてアケルはラウルスを睨み据える。まったくもって不思議だった。赤の他人にアケルは優しい。柔らかな、ぐずる赤ん坊を寝かしつけるのさえ容易だ、と思わせるような声で語りかける。態度も仕種も優雅にして典雅。吟遊詩人とはかくあるべし、と言いたくなってくる。 だが普段のアケルは。あるいはラウルスのアケルはときたらとんでもない勘違いか、別人だとしか思えない傍若無人。 「……しかもそっちのほうが可愛いと思ってるんだから、こりゃ病膏肓ってやつかね」 ぼそりと言ったラウルスに、アケルは聞こえたぞ、とばかり眉を上げて見せた。険のある青い目。それでもラウルスは彼のその目が好きだった。結局のところ、彼を付け上がらせているのは自分かと思えば、自業自得。それを嫌がってなどいないのだから、これは互いにいい相手を見つけた、と言っておくべきだろうかとラウルスは思う。 「ラウルス、白状してくれるつもり、あるんですか」 「ないって言ったらどうなるんだろうな。興味が無きにしも非ず、と言うところか」 「そんなこと言ったら……そんなこと言ったら……」 「さぁ、可愛いアケルは俺になにしてくれるのかなぁ、うん?」 「絶対に何もしてあげませんから!」 叫んでから、いかに珍妙なことを怒鳴ったのか自分でアケルは気づいた。思い切り赤くなり、うつむく。その頭上でラウルスが高らかと笑っていた。 |