若い木立を抜けた先、大きな村があった。もう少し栄えれば町、と呼ばれるようになるだろう。賑やかで、大勢の人が行きかっている。 「ちょうどいい、ちょっと何か食ってくか」 船から下りたあと、歩き詰めで空腹を覚えてもいた。アケルもラウルスも狩りができるから食料に不自由はしないものの、たまには人の作ったものを食べるのも悪くはない。 「いいですね、温かいものが食べたいな」 「あればいいけどな。あっても焼いた肉か、じゃなかったら煮込みってとこだろうな」 「僕はあなたほど口が贅沢にできてないんで平気です」 「俺だって――」 贅沢ではない、言いかけてラウルスは口ごもる。アケルにはそう謗られても致し方ないかな、と思わなくもなかった。何しろ国王時代を知っている彼だ。 「あなたが僕を餌付けしてたころ、持ってきてくれたのってみんな贅沢品ばっかりでしたよね?」 「餌付けってな!」 「あれを餌付け以外になんと呼べ、と言うんです?」 眉を上げ、呆れた顔を作って見せながらもアケルの目は微笑んでいた。和解することがなければ単なる苦痛の経験だろうけれど、今となっては双方共に懐かしい思い出だ。 「俺はだな。お前と一緒に飯を食いたいとだな」 「それは知ってますけどね」 「だったら!」 「ラウルス、食事にしますよ?」 門も何もない、囲いすらろくにない村の敷地に入り込み、アケルは辺りを見回す。たくさんの建物が建っていたけれど、大半は人家らしい。ふとアケルは眉を顰める。 「ラウルス」 「あいよ、わかってる」 「本当に?」 疑って見せつつ、アケルは信じていると言うようにうなずいていた。そして彼の足が一直線に進んでいく。まるで目的地が決まっているかのように。 ある意味では、決まっていた。そしてどこかもわかっていた。アケルには、聞こえていた。そして改めて自分の捨て目の利かなさにうなりたくなる。 「もう! こんなにちゃんと見えてるじゃないか!」 あたりに人影が多いのは、騒いでいるからだ。何も繁華で賑わっている、と言うわけではなかった。そんなことにも気づかずのんびり喋っていたのかと思うと恥ずかしくてうずくまりたくなる。 「行くぞ、アケル。悩むのは後にしろ」 「あなたに言われたくない!」 「そうか?」 アケルは自分をどう思っているのだろう。寂しがり屋だの泣き虫だの散々に言われてはいるが、もしかしたらそこに悩み性、と言うのも加わっているのかもしれない。そう思ってラウルスは密やかに笑う。 「うるさい! 行きますから!」 アケルが突進した先。扉が一枚。抜けた途端、喧騒が止む。二人の闖入者に驚いたのではない、店の中の人間がすべて、凍りついていた。 「早く酒もってこいって言ってんだろうがよォ!」 村一番の酒場兼宿屋、と言うところだろう。たくさんの人が集っているのに声をあげているのはただ一人。 「あー、その。だな」 ラウルスがぼそりと声をかける。店の人間はいないのか、と尋ねているようにも聞こえたし、間の悪いときに来たかな、と困っているようにも聞こえた。 「ンだ、てめぇは! 酒だって言ってんだろうが、酒だよ酒。酒もってこいってんだよ!」 酔っ払い。にも見えなかった。確かに目はどんよりと濁っていたし、呂律もだいぶ怪しい。だがアケルはすでに気づいている。だからと言って、ラウルスができることは多くない。まずアケルの出方を見てから。思った途端に、頭を抱えたくなった。騒ぐ男に向かってアケルは突き進む。 「おい。まっすぐ行くか普通」 呟き声は幸い男には届かなかったらしい。アケルは店中の人間同様の凍ったような笑顔で男の側へと滑り寄る。 「てめぇ――」 男が何を言うより先、アケルはにこりと笑って男の目を覗き込む。その目の中、混沌を見つけてアケルは内心で顔を顰めた。 「歌、聞きませんか。聞きたいですよね、聞きましょう。えぇ、いま弾きますからね。はい、そこ座って」 「だからなんだ――」 リュートの首を持つ手とは反対の手がするりと伸びて、否応なく男を座らせた、と店の中の人々には見えたことだろう。とてつもない体術だ、とラウルス一人が天井を仰ぐ。 「はいはい今すぐですよ、ほら聞きたいですよねー」 なんというか、どうにもこうにも投げやりだ。温かいものでも食べに行こう、と決めたばかりだ。食べ物の恨みは恐ろしいらしい。ラウルスは溜息をついたが、さすがに剣の柄から手を離しはしなかった。 アケルの指がリュートに置かれる。怒鳴ろうとしていた男の息が止まる。リュートの音色が響いていた。 人々がほう、と溜息をつく。ラウルスは思う。彼らにはたぶん美しい吟遊詩人の音楽に聞こえているのだろうと。 実際は違った。ほとんど不協和音だ。背中と耳の中をかきむしりたくなる音の連なりでしかない。アケルはラウルスには真実を知っていて欲しいと願うからこそ、そのまま聞かせていた。 「嫌がらせじゃ、ないですからね」 ちらりとラウルスを見やって彼は言った。ラウルスが酷い苦痛をこらえるような顔をしていたせい。わかったとばかり彼が片手を上げる。 その間にも音は当然途切れない。不思議と歌声もそのままだった。村人の顔を見る限り、甘ったるい恋歌でも聞いているつもりにさせているのだろう。陶然と目を閉じ、一人また一人と腰を下ろしていく。いままで男恐ろしさに浮き足立っていたのがぴたりと静まり、次の瞬間には全員がうとうととしていた。無論、男を除いて。 「ぐ……あ。なん……」 男だけは、蠢いていた。喉に手をやり、自ら締め付けるよう動かす。それでいて、逃れようともするのだ。奇妙と言うよりは恐ろしい。 「さぁ、もう少しですよ」 ラウルスへの言葉。応じて彼は進み出る。アケルを一応は背後に庇い、そして剣を抜いた。混沌の剣は銀色に黒光りする。不思議な色合いに、男の目が吸い寄せられ手が伸びる。 「ラウルス!」 鬨の声ではあるまいし、一々合図に名前を叫ばないで欲しい、とラウルスは苦笑する。苦笑とは裏腹に手は正確に剣を操る。男の眼前に突き出し、貫いた。男には掠り傷ひとつつけずに、混沌の中心を。くたりと男が床に倒れる、その寸前ラウルスは抱きとめて椅子に寄りかからせた。 「いいですよ、下がって」 声に従えば、ほっと息をつきたくなってしまう。アケルが指し示すほんの一瞬の、それも塵より小さな一点。それを確実に貫くのはラウルスにとっても緊張することだった。 「よくわかりましたね?」 この数年と言うもの、そのような戦い方をしてはいない。二人の目的は混沌を回収することであって、混沌を滅ぼすことではない。 「まぁな。長い付き合いだしな」 肩をすくめたラウルスの隣でアケルはまだリュートを奏でていた。音楽は少し変化した。見ればラウルスの剣に見えない何かが集まりつつある。 「……混沌?」 「そうですよ。なんだと思ったんです?」 「いや、核を貫いた気がしてな」 「それはしてもらいましたけど。この人、乗っ取られかけてたんでちょっと危なかったですからね。でも、ただ霧散させるのはもったいないので」 淡々と言い、アケルは歌う。会話と歌唱を同時にどうこなしているのか、ラウルスには疑問だった。できると言うことしかわからない。 「もったいない。ま、確かにもったいないな」 「ですよね。これでサティーがどれほど食い繋げるかと思うと」 「涙ぐましい努力だな」 茶化してはみたものの、事実でもある。いくら混沌を運ぼうと、サティーたちが呼吸をすれば減る。もっとも、些細ながらサティーたちは息を吐くことで混沌を吐いてもいるのだから消費し尽くされるわけでもない。 「さぁ、ラウルス。起こしますよ?」 「算段は?」 「僕らは酒場を訪れて、一曲所望された旅の吟遊詩人です。で、気持ちよく聞いてもらったって言うところかな」 リュートを奏でつつ器用に肩をすくめて見せアケルは言う。眠らせた村人も、この男も目覚めたときにはたいして覚えてはいないだろう、いまのことを。 「行きます」 す、とアケルの音色が変わった。同じ曲調なのに、決定的に音が違う。驚くべきことだった。 「何度聞いても慣れんな。素晴らしい」 「褒めてもなにも出ませんから」 「ただ褒めたいだけだ。気にするな」 「……あなたって人は!」 どうやら何かに照れたらしいのだが、何年が過ぎようとラウルスにはアケルがなににどう照れるのかがよくわからないでいる。それはそれで楽しかったが。 まるで朝の光のように透き通った一連の音の流れ。途絶えたとき、全員が目を覚まして思い出したよう息をした。そして盛大な拍手。 ありがたくアケルは一礼した。どことなく困ったような面持ちで。当然かもしれない。アケルは吟遊詩人として音楽を聞かせたわけではないのだから。そもそも、音楽を聞いたものはただ一人、いまだ伸びている男だけだった。 「アケル?」 ちらりと見やれば、首を振られた。混沌に魅入られた男は二日酔いの設定にでもするのだろう。椅子の上、長々と伸びたまま目覚める気配もない。 「あんた、すごいねぇ! なんて吟遊詩人だ。こんなにすごい歌を聞いたのははじめて……いや、二回目だ!」 「あぁ、そうだ。ほんとによかったよ、吟遊詩人さん。こんなにすごいのが二人もいるんだねぇ。って俺ゃ聞いたことないが」 「なんだもったいない、知らないのかよ。川渡った向こうに来てたって話だぜ?」 「くはー。惜しいことしたなぁ。せっかくだから聞きにいきゃよかったよ――」 何事もなかったと信じている村人だから、ただ楽しげに話していた。アケルは少し首をかしげる。ラウルスはそこになにを聞いたのかとたずねることはせず黙って見守っていた。 「誰か腕のいい吟遊詩人がいるんですか?」 「いやいや、あんたも巧かったよ。俺としては匹敵すると思うね」 「そうそう、あのカルミナ・ムンディの歌に負けず劣らずだ!」 さっと顔色を変えたラウルスに、アケルはきょとんとした。それは誰だと問い返すことはせず、黙って彼を見つめれば力ない笑み。 |