五年が経ち、十年が経ち。一番結婚の遅かったラクルーサのケルウス王にも最初の王子が生まれたころ。
 二人はちょうど国境大河を渡っていた。ラクルーサとミルテシアを二分する大河は、滔々と水の流れる豊かな川だった。いずれは橋をかけよう、と言う話もあるものの、さすがにまだそこまでは手が回らないらしい。
 とは言え、いたるところで槌音が響くということはなくなりつつある。復興が完全になったとは言いがたいものの、ほとんどの人々が平静の生活に戻りつつあった。
「ようやくだなぁ」
 吟遊詩人を喜んで迎えてくれる村も増えはじめている。旅をはじめたばかりのころは吟遊詩人と言うだけで嫌な顔をされたこともある。楽器が持てるならば大工道具を持て、旅ができるほど足が達者ならば仕事をしろ。何度もそう言われた。
「やっとですね」
 二人の人々を見る目は温かかった。大河を渡る船に乗り合わせた人の顔がどれも明るい。はしゃぐ子供の声もそこかしこで聞こえた。
「あの子たち――」
 年の頃は八つか十か。いずれにせよ大異変を知らない子供たちだ。彼らにとって世界は生まれたときからこうだった。
「段々、増えていくな」
「寂しいですか、ラウルス?」
 あなたが愛したアルハイド王国を知らない世代が増えていくことが。アケルの問いにラウルスは小さく首を振る。その口許に笑み。
「人は変わらんさ」
 アルハイド王国であっても、現在の三王国であっても。同じ人々が、愛し憎み笑い嘆き、そうして生きていく。
「そう言うことができるように、努力せんとな」
 にやりとラウルスは笑った。最初に混沌を届けて以来、妖精郷には定期的に混沌を届けている。混沌を溶かしこんだ、と表現するよりない泉の周囲でサティーは暮らしている。魔族の彼らにとってそこが現時点でもっとも安全で生き易い場所らしい。
「そう言えば、ラウルス? なんでヘルムカヤールはサティーの子守をしているんでしょうね」
 子守という表現に多少の嘘を聞き取ってはいた二人だった。だがヘルムカヤールは嘘のはずの子守であっても楽しんでいる、それもまた間違いなかった。
「意外と子供好き……この場合は小さな生き物が好き、と言うべきか。そうなのか、あのでっかいのは」
「さぁ、どうなんでしょう。この前は、ちょっと悪いけど笑っちゃいましたけどね」
 つい最近、妖精郷を訪れたばかりだった。いまのラウルスの剣は軽い。その柄を握り締めて彼もまた、思い出し笑いをしていた。
「あれはなぁ。すごかったよな」
「ヘルムカヤールに、登ってましたよね。サティーたち」
「たかっていた、のほうが正しいんじゃないのか、あれ」
「ほとんど遊び道具ですよ、サティーの。それをまた渋い顔をしながら許してるんだから、あのお人好しドラゴンは」
 くすくすとアケルが笑う。笑い声まで音楽のようだとラウルスは耳を傾けた。さすがに船の中では迷惑になりかねないから、リュートに手を置いているだけ。奏でてはいない。それなのに話し声まで音楽のよう。
「ラウルス。それはあなたのせいですから」
「俺? 何もしてないぞ?」
「そっちじゃありません! あなたのそれは惚れた欲目って言うんです!」
「……自分で言うところがすごいよな、お前」
「ほっといてください!」
 鼻で笑ってそっぽを向いて、それでも照れているアケル。長く伸ばした赤い髪を見つつラウルスはそっと口許を手で覆う。背中で揺れるそれに見惚れていたら、憤然としてアケルが振り返る。
「じっと眺めてて、何が楽しいんですか!?」
「見てるだけで楽しいぞ? 情けないなぁ」
 ラウルスのついた大袈裟な溜息に、アケルは眉を上げて見せる。怒りの仕種なのに、唇がひくり、痙攣した。
「俺はどうやらお前に見惚れてももらえんらしい。実に残念極まりない」
「……それは」
「たまにはじっと見つめてみないか、うん?」
 からかわれて、アケルは知った。と言うよりも聞こえてしまった。時折、彼が違うところを見ているときにそっと眺めていること、陶然と見惚れてすらいること。それをラウルスは知っていた。知っていたと、アケルは聞こえてしまった。
「もう、知りません!」
 体ごとそむけてきゅっとリュートの首を掴んだ。以前ならば苛立ったかとラウルスも思うことだろう。だがもう共に過ごしてきた年月は短くはない。からからと笑って相手にされなかった。
「ほれ、アケル。ついたぞ」
 渡し舟の船員がミルテシアの岸辺に船を寄せはじめていた。粗末な船着場のまま、劣化が始まっている。辺りを見回せば、新しい船着場を少し上流に作っている最中だった。
「橋はまだまだ遠いな」
 これでかつては一国の王。それも現在の三王国のすべてを治めていた王。橋の建設にどれほどの人出と費用がかかるか知っている。
「大変ですね」
「船があるだけまだましだ」
「これ……」
 初めて気づいたのだろう、アケルが船を下りつつちらりと振り返る。それにラウルスはうなずいて見せた。
「あぁ、国でやってるんだな。どっちも役人だ。まぁ、船頭は雇ってるんだろうがな」
「役人に今すぐ舟の漕ぎ手になれって言っても無理ですからね」
 それにしても、とアケルは思う。一応はラクルーサとミルテシアは違う国なのだ、現在は。それなのにこうしてごく当たり前に民の利便のために協力することができる。
「さすがあなたの――」
 お子様方だ。アケルの言わなかった言葉にラウルスはそっと微笑んで感謝に代えた。たとえ聞かれたとしてもすぐさま自分たちのことは忘れられてしまうのだけれど、騒ぎの種を撒き散らして周ることもない。
「お。見ろよ、アケル」
 船着場から少し進んだだけでラクルーサには多くない若い木立が増えはじめる。時を経ればここは雄大な森の国になるだろう。
「すごいな……。ちゃんと、木が生えて成長、するんですね」
 あの大異変を知っているからこその言葉。ラウルスにはわからない形で、アケルはその驚異的な変化を体感した、らしい。アケルが語るには、まるで我が身が引き裂かれ、再生し、別のものになったかのように感じたとのこと。だからあの瞬間、アケルはこの世界そのものと同化していた、そう言っていいのかもしれないとラウルスは思う。
 だからこそ、あの凄まじさを知っているからこそ。アケルは驚く。そして喜ぶ。木が生えた。育った。たったそれだけのことにアケルはこれ以上ない歓喜を見せる。
「あの日からは、考えられんな」
「えぇ……、本当に。こうやって、人も。ちゃんと」
「何事もなく平和にってのは、難しいがな。誰がどうしようが争いごとはあるもの。それを最小限にするのが王の役目ってものだな」
「そして、そうして暮らして行けるようにするのが」
 自分たちの役目だとアケルは目で語る。隅々まで混沌を追い詰め、妖精郷に運ぶ。人間と妖精、双方にとって益のあることだった。それなのにアケルが小さく吹き出した。
「どうした?」
 いまの話題に笑う要素が見出せず、ラウルスは首をかしげる。歩きはじめていた二人だ。とっくにアケルはリュートを奏でている、あるいはその音かと思ったほど小さな笑い声ではあった。
「いえ……ちょっとおかしいなって。結局のところ僕は前と変わらない生活をしてるんだなって思って。王の手から零れた人々を守るのが、僕らの生き方でした。だから、いまも」
「なるほど。それは……何と言うか、嬉しいものだな」
「そうですか?」
「あぁ。少しな……夢想した。あのころ、もしも全部片がついて、お前が許してくれるなら、狩人になりたいと思ったこともある。実際は投げ出せないものが大きすぎてどうにもならんとわかっちゃいたんだがな」
 肩をすくめたラウルスに、そっとアケルは寄り添った。いまとなっては馬鹿馬鹿しい大喧嘩。なぜあれほど怒ったのか、行き違ってしまったのか、理由も原因もわからない。
 それでも、あの日があったからこそ今がある。単純だけれどそうも思う。そしてあの日々、彼がそのようなことを夢見ていたとは少しも知らなかった。
「お前が言ったんだろ」
「え……。何か言いましたっけ?」
「ひどいやつだな。忘れたのか? お前が案内してやるって言ったんだぞ、昔。まだ、喧嘩する前だ」
「あぁ……そうだ。えぇ、言いましたよ。狩人最大の好意だって言うのに、あなたは理解した様子もなかったんでしたよね」
「ちょっと待て、わかってたっつーの!」
「本当ですか?」
 疑いもあらわな目が笑う。くすくすとした笑い声が、気づけば歌になっている。そのまま歌いだしたアケルの声が木立の中に響く。若い森の下生えの道。幹に絡んで伸び上がる歌声が、枝を渡り梢へと届き。一枚一枚の葉にまで広がっていく。光のように、あるいは風のように。
「まるで腐葉土だな」
「なんですか、それは」
「知らんか? 庭師が使うんだが。植物に栄養を与えるとかで元気になるらしいぞ?」
「僕が聞いてるのは腐葉土の意味じゃありません! そんなものは山にいたんですから、いくらでもあったんです。知ってますから!」
「そう言えばそうだな。あぁ、そうか。だから山は樹も立派なんだなぁ」
「ラウルス! そうじゃなくって僕の歌が腐葉土ってどういう意味ですかって聞いてるんです!」
「うん? この木立が立派に育っていつか大森林になるように。そう願ってお前、歌ってたんじゃないのか?」
 アケルは息を飲んで、迂闊にもリュートの音色が止まってしまった。驚きに、足まで止まりかけ、そのことに気づいて瞬きをする。
「よく……わかりますね」
「何年聞いてると思ってるんだよ?」
「でも、だからって!」
「年数は関係ないか。お前の歌だからわかる。信じる。それじゃ、駄目か?」
 覗き込んでくる猛禽の金の目。吸い込まれそうで射抜かれそうで。アケルは言葉もなく目を閉じる。他に人影は見当たらない。これ幸いとラウルスは柔らかく唇を重ねた。




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