折りたたんでいた翼を広げた。それだけで視界いっぱいに美しいものが広がる。大地の緑、空の青。言葉にすればそれだけのもの。けれどそこにはあらゆる美がある。 「おう、帰ってきたかね」 とろりとしたヘルムカヤールにラウルスとアケルは駆け寄った。どうやら寝起きらしい。何度か欠伸をするものだから、二人の目の前に今度は真っ赤な洞窟が出現する。 「噛まれそうで怖いな」 ラウルスの声に冗談を聞き取ったのだろうヘルムカヤールは。 「ヘルムカヤール!」 本当にラウルスをぱくりと噛んだ。口の中、ラウルスの頭がすっぽりと入ってしまっている。だが二人とも慌ててはいなかった。アケルはけらけらと笑っていたし、ヘルムカヤールの口中からはくぐもった音が響いてきている。どうやら大笑いをしているらしい。 「まったく、面白みのないやつらよ」 「なんだ、驚けばよかったのか。でっかいの?」 「それが人間というものだろうが、ちっこいの!」 「まぁ、そうだろうがなぁ」 「その辺はあなたが諦めたほうが早いですよ、ヘルムカヤール。この人はこの世の常識を鼻息で吹き飛ばすような男だから」 「お前なぁ。人をなんだと思ってるんだよ」 「なにって。それは愛しの我が王にあらせられますよ?」 どこからどこまでが冗談で、どこからどこまでがただの戯言なのか。さすがのラウルスにもわからなかった。だからただ鼻を鳴らすだけで話を終わらせてしまう。それをまたアケルとヘルムカヤールが笑った。 「ヘルムカヤール。あなたはここで何を?」 アケルの問いに、一瞬ではあったが竜は答えなかった。代りに声を発したのは女王メイブ。 「言ってみれば。そうですね、サティーたちの子守と言うところでしょうか」 「あぁ、そうだの。それが一番近いか。なに、ほれ。悪さをするやつがいないとも限らん。今のサティーは身を守ることもできんからのう」 こくこくと長い首を揺らして竜が言う。ラウルスはただ眉を上げた。アケルは目を瞬いた。共に虚偽を感じた。 「なるほどな。そういうことにしておこうか?」 言いたくないことならば聞かない、とラウルスははっきり告げる。これが、後になって響いた。聞いておけばよかったものを、と何度となくアケルは後悔した。だがいまはそれで話が済む。 「はじめましょうか、アクィリフェル」 女王の声に促され、アケルは泉のほとりに腰を下ろす。リュートを構えて振り向けばそこにラウルス。 「俺は何をすればいい?」 魔王の剣の柄に手を置き、気軽な調子で彼は言う。声に潜む困惑と恐怖が聞こえた。アケルは何事もない、大丈夫だと知らせるよう微笑む。 「ちょっと聞きますけど。僕ら狩人は弓だけ使うわけじゃないんです、知ってますよね? 短剣も習うんですけど、一番最初に覚えるのが、型なんです。みっちり覚えれば、鍛錬にもなるし危険も少ないから。あなたも似たようなことをしたり、しました?」 「あぁ、したぞ。長剣でな」 「だったら、型をさらっていてください」 ここでか、と問うようラウルスは首をかしげる。別にするのはかまわなかったが、アケルの意図がわからない。 「剣、重いんですよね。だったら型をさらっていれば、重さが変わったのが一番よくわかるんじゃないかなと思って」 「それはまぁ、そうだな。要するに、だ。俺が使い慣れてる重さになるまでやってろ、と言うことだな?」 「違います。その重さになったら僕に教えてください。すぐさま、即時に、寸時をおかずに」 真剣なアケルの声にラウルスは目をむく。彼のこのような声はここしばらく覚えがない。じっと見つめれば、諦めたようアケルが肩をすくめた。 「その剣は混沌の塊。わかってますよね? 僕はこれからこの泉に向かって混沌を開放する。少しずつ、溶け込ませる。だから、加減をうっかり間違えると――今度は僕が混沌を呼びアルハイドを滅ぼすことになる」 息を飲み、それが自分の立てた音だとラウルスは知る。気づけば、剣の柄を握り締めていた。これが混沌の塊だということは知っていた。だが、理解したのはこの瞬間なのだとラウルスは思う。 あの、ハイドリンの城を襲った混沌の化身を思い出す。大陸中を席巻した混沌を思い出す。二度と再びあのようなことは起こさせない。そう誓った自分とアケル。心はすぐに決まった。 「わかった。気をつける」 体中に剣の感覚を馴染ませる。使い慣れていたころの記憶を呼び起こす。いまは重過ぎる剣。これを適正な重さまで、減らす。それ以上は、決して。アケルを破壊者になど決してさせない。 「では」 メイブに向けアケルは軽く頭を下げた。まるで演奏前の吟遊詩人。あながち間違いでもなかった。ゆっくりと伸ばされた指が、リュートの弦に触れる。 はじめの一音。ラウルスは迂闊にも耳を覆いそうになった。そうしなかったのは、単に剣を持っていてできなかった。それだけのこと。 聞いた例のない不協和音がまだ耳に残るうち、アケルは曲を奏でだす。裸の背筋を蛭が這い登ってくるような、汚物の溜まりで転げまわっているかのような。 それなのに、彼の音楽はこの上なく美しい。世界の身じろぎだ、ラウルスは思いつつ剣を振った。遥か昔、剣を仕込んでくれた武術師範に習ったことを一つ一つ思い出すつもりで。 眼前に構えた剣を大きく引く。それから振り下ろし、下ろす途中で軌道を変える。そのまま振り上げ、回転させる。剣を振るのであって剣に振られるのではない、懐かしい武術師範の声が聞こえた気がしてラウルスはそっと口許に笑みを刻む。 その間もずっと曲は続いていた。聞き惚れるのか、それとも集中を乱すまいというのかメイブもヘルムカヤールも黙ったまま。 回転から続けた足元から掬い上げるような切り技。不意に違和感を覚えた。軽くなっていた。だが、まだ。 そろそろかもしれない。そう声をかけようとして、ラウルスはやめた。息遣いからでも、その程度のことは感じているはずのアケル。ならば自分がすべきことは、峻烈なまでの区別だ。どの瞬間が適正か、アケルに知らせることだ。 ラウルスはいっそう型に気を入れる。これほど丹念に型をさらったのはいったいいつが最後だったか。師範が知れば怒ることだろう、すでにこの世にはない師範ではあったが。 一度型をさらい終え、もう一度。更に二度。ラウルスの額には汗がびっしりと浮かんでいた。背中は服の色が変わるほど汗が滲んでいる。 大振りな頭上からの切り技を囮にした、腹への突き。手ごたえが違った。 「アケル!」 突然だった。音が途切れたかと思うほど突如として音楽が変わる。聞き慣れた、アケルの音色。世界を歌う普段の彼の音楽。 手に馴染ませるよう、ラウルスは型を続ける。同時にそれは重さを確かめるためでもあった。最適なものかを確かめるためであり、減り続けていないかの確認でもある。 「どうです?」 まるで歌い続けていたかのような掠れ声だった。アケルの疲れきった声音にラウルスは飛んでいってやりたくなった。が、いまだ彼は奏でていた。 「ちょうどいい。これが前の重さだな。完璧だ」 「当然です」 「さすが俺のアケル」 もういいか、と声に問いを忍ばせれば、泉を向いたままアケルはうなずく。振り返る気力もないようだった。 「お疲れさん」 剣を鞘に収め、ラウルスは歩み寄る。泉のほとりに膝をつき、背後から抱き寄せればくたりともたれかかってきた。よほど疲れているらしい。 「これは緊張していたからか、それとも初めてだからか?」 似たような言葉の意味。だが違った。ラウルスは問う。混沌をこの大地に解き放ちかねない緊張ゆえなのか、あるいは単に初めてで硬くなっていただけなのか、と。 「非常に遺憾ながら後者ですよ」 「まぁ、お前はそういうやつだしな。慣れそうか?」 「慣れなきゃ身が持ちません」 ちらりと首だけ振り向ければ、ラウルスが神妙な顔をしてうなずいている。が、目が違うことを思い出しているのが見て取れる。 「ラウルス。いまは冗談をやって遊ぶ気分じゃないんですけど」 「俺は何もしてないだろうが。ただの思い出し笑いだ、気にするな」 「無茶言わないでください!」 結局いつもどおりに怒鳴らされて、アケルは否応なしに立ち直らされてしまった。そこまでが彼の策略、否、配慮なのかはわからない。どちらも両方と言うところだろうとアケルは思う。 「ほれ、相変わらずの二人とも。喧嘩してないで見てご覧」 楽しげなヘルムカヤールの声に促され、アケルは見た。ラウルスも見た。息を吸うことも忘れて、見入った。 「さすがですね、お二方。もうサティーたちが目覚めはじめましたよ」 メイブの言葉に押されたよう、眠たげなサティーが一人また一人と体を起こしていく。一番に目覚めたのは、どちらか。ほぼ同時にもう一人が。 「やったのなの、キノが最初!」 「違うの、ピーノが一番! 一番ね? うふふ。いっちばーん」 「いやん、違うのキノなのキノなの。キノなのなの!」 目覚めた途端に言い争いをはじめてしまった二人のサティー。その間にも続々とサティーが起きていく。 「いやまぁ、なんというか。喜ばしいことではあるが、虚脱はするよな?」 「言わないでください。僕だって必死に耐えてるんだから!」 小声で言い合う二人にサティーが気づいた。無論、ピーノとキノが最初に。そして全員が。そっとラウルスは身を引きかけ、腕の中にアケルを支えていることを思い出す。 「僕を置いて逃げたりしたら、別れてやる!」 「脅さなくっても逃げねーよ」 「本当に?」 くつくつと笑い出したから、アケルは回復しはじめているのだろう。このまましばらくすれば、回復もするのだろう。放っておいてもらえれば、だが。ラウルスの願いもアケルの祈りも虚しく、喜び勇んだサティーたちが二人に突進した。 |