ラクルーサ王国を旅していた。と言うより、妖精郷から出たところがラクルーサだった。
「理不尽と言うか不可思議と言うか、いつものことだが眩暈がするな」
 まったくそのように思ってもいないくせにラウルスはぼやく。突入点と出現点が違うのは、どうやら彼にとっては通常のことらしい。
「そうなんですか? 僕はあなたほどティルナノーグに詳しくないから」
「俺だって詳しいってほどじゃない。何度か訪問したことがある程度だがな」
 彼のその国王時代に。言わなくてもわかることだから、アケルは問わない。ラウルスも言わない。それが気づけば優しい時間になっていた。
 過去の自分を思えば、アケルは笑いたくなってくる。隠し事をされたと言って怒り狂い、ラウルスの存在そのものを切り捨て、自らも死さえ選びかねなかったあのころ。
 それがどうだ。いまとなっては言わなくてもいい、そう言えるまでになっている。アケルには耳があるから。そのようなことではたぶんないのだとアケル自身は知っていた。
「どうした?」
「いえ……。たぶん、こういうのを信頼って言うんでしょうね」
「今更かよ」
「いまだからですよ。やっとです、やっと。あなたはどうにも信頼に足る人柄じゃないですからね」
「それ、お前が言うか?」
 さも嫌そうな顔をしてラウルスが小声で文句を言う。アケルはからりと笑って、肩先を彼にぶつけた。そうしても、器用にリュートは弾き続けたまま。
「僕は自分がどうしようもない愚か者だって理解してますけど? だからなんだって言うんですか、ラウルス。そんな僕がいいっていうあなたはひどく趣味が悪いと思いますけど」
「あぁ、そりゃ自覚してるわ。ほんとに我ながらどうにかならんのかな? まったくもってどうしょもねー趣味の悪さだな」
 長い溜息のわざとらしさ。だからアケルは怒らない。くすくす笑って歌にする。それをラウルスも微笑んで聞いていた。
 だから呼び止められたのは偶然ではない。小さな村に差し掛かっていたから。吟遊詩人の興行宣伝だとでも思われたのだろう。だから、偶然ではない。ある意味では、必然。彼ら二人にとっては。少なくともアケルにとっては。
「吟遊詩人かい? ちょうどよかった。今夜、結婚の祝いがあるんだ。ちょっと弾いてくれないかね」
 声をかけてきた男は花婿の親族だ、と言う。甥の結婚式だというので隣村から駆けつけたものの、どうにも式が寂しいのだと。
「喜んで」
 にこりとアケルは吟遊詩人らしく礼をした。ラウルスはそれを隣で見つつ、いっそ本職になってしまえばいいのに、など詮無いことを考えた自分に苦笑する。
「ちょっと急いでくれるかい? 式はもうはじまっててね。誰か通りがからんかと思ったんだが――」
「この道を、ですか?」
 偶々吟遊詩人が通りがかるのを待っていたというのか、この男は。ずいぶん悠長な親戚もいたものだとアケルは微笑む。だが、凍りついた。
「前はなぁ……この道は賑やかなもんだったんだよ、知らんかね? 吟遊詩人だけじゃない、大道芸人だって、旅の芝居一座だってよく通ったもんだ。ほら、見てご覧」
 男が指差した方角。それにラウルスはそっとうなずく。ラクルーサの要、アントラル公爵の居城があった方向だ。大異変前、この道は公爵の城に繋がる大街道だった。
「あっちが、公爵様のお城だったんだ。いまは――王様のお城さ」
「……その、お尋ねしていいのかどうか。前の公爵様のほうが、よかったですか?」
「いやいやとんでもない! いまの王様はそりゃいいお人さ。王様にいい人ってのも変な話だがなぁ。でもなぁ、本当にお優しいお方だよ、王様は。本当だったら、アルハイド全土の王冠を被る方だってのになぁ。上のお姫様と下の王子様に土地をお分けになって、そんでみんなで頑張って行こうなんて、中々言えるもんじゃなかろうよ、そう思わんかね?」
「そうですね、立派な方なんでしょうね」
「優しい方さ」
 にっこりと男は笑った。ラクルーサを治めることになったケルウス国王の治世が穏やかである証拠のように。
「あんたがたは、お城の街に行ったことはあるのかね」
 アントラル公爵家の所領だったころ、居城があった土地は単に繁華な街だった。いまは一国の首都となる。
「僕はありませんけど……」
 ちらりとラウルスを見やれば、苦笑いをしていた。実際、アケルも行ったことがないわけでもない。大異変ののち、旅してまわっているのだから訪れたことはある。だが、アクィリフェルとしてならば、知らない土地だった。
「俺はまぁ、あるな。ずいぶん昔のことだが」
 国王の巡幸として。アケルにだけ伝わる方法でラウルスが答えれば、男のほうはそりゃ羨ましいと話しだす。
 村の生活は退屈だの、変化がないだの言い募り。一転、変化がないことがいかに素晴らしいかを語り出す。あの大異変を生き延びたからこその感想。そして復興しつつあるからこその文句。いずれも微笑ましく逞しい。
「よう、連れてきたぞ! やっぱりちゃんと通ったじゃないか!」
 村の神殿前の広場に人々が集まっていた。そこで結婚式が行われるのは普通のことだったからアケルもラウルスも驚かない。
 驚いたのは、男がぶつぶつと何事かを言う相手から幾許かの金をせしめていること。どうやら吟遊詩人が通るかどうか賭けをしていたらしい。
「……結婚式って、聞きませんでしたっけ?」
「顔色変わってなかったが、ありゃあ相当できあがってたんだな」
 二人してぼそりと呟き、相手の顔を見ては溜息をつく。気合を入れ直すよう、アケルが背筋を伸ばした。
「皆様方にはまずお慶びを申し上げます。拙い手ながら美しい花嫁に更なる花を加えたく」
 本職顔負けの笑顔でアケルは朗々と言う。ラウルスは知っている。あれでアケルは内心で背筋を這い上がるものに耐えていると。恥ずかしいやら似合わないやら身の置き所がない思いにぞっとしていると。
「それにしちゃ、堂に入ってるよな」
 くつりと笑い、一歩を引こうとしたそのとき。アケルの目がこちらを向いた。一瞬の半分にも満たない時間、ラウルスは聞こえて咎められたのだと思った。
 だが違う。アケルの目は違うことを言っている。すう、と我知らず息を吸い込む。ゆるりと剣の柄に手をかけて、アケルの横に立つ。
 そしてそのまま、アケルがリュートを奏ではじめた。あのときと同じ、混沌を引き寄せる音色。ラウルスはもう悟っていた。何も感じない。けれど世界の歌い手には感じられる混沌の瘴気。
「なんて……」
 精一杯の努力の結果なのだろう。それでも充分に装ったとは言い切れない花嫁だった。その頬が紅潮する。何者にも勝る美を添える。
「あぁ、綺麗だね」
 花婿が彼女に寄り添った。大異変の日から、その前から、長くずっと共にあった二人だった。ひとつ違いの幼馴染。村の誰もがいずれ一緒になる二人だと思っていたからこそ、反発したこともあった。けれど大異変を越え。生き残った二人ははじめてそこに互いを見出した。そしてある今日。
「こんな素敵な歌、聞いたことない」
 アケルの歌声が、二人の思い出を語る。まったく違う歌詞だった。それでも二人は思い出す、共通の懐かしい思い出を。幼い日の悪戯。少年の日の些細な喧嘩。ほんの少し大人びて見えた相手に感じた胸のときめきをも。
「違うよ、君が。綺麗だなって」
 花婿の囁きに花嫁が頬を染める。それすらもが歌となっていた。いまこの瞬間を切り取った、幸福の歌。
「なんだか、この世界全部が祝福の歌を歌ってくれてるみたい」
 乗り越えてきた日々を思えば、楽しいことばかりではなかった。大変なこと、つらいことのほうが数多かった。それでもまた生きていく。そのために、互いがそこにいる。
 歌の言葉に耳を傾け、新婚の二人は目を閉じる。これからだとて、苦労のほうがずっと多いだろう。けれど二人でしか味わえない幸福も、きっとある。そう語りかける歌に知らず二人はうなずいていた。
 リュートの音色が静かに消え、とっくに歌声は果てていた。それでもしわぶきひとつ上がらない。はじめに我に返ったのは、花嫁。はっと顔を上げ、思い切り手を叩く。手のほうが痛くなるのではないかと思う勢いの拍手だった。つられるようひとつ、ふたつ。最後には全員揃っての大音声。
 アケルは優雅に一礼し、嬉しそうに微笑んでいる。旅の吟遊詩人らしく。ラウルスは、それでも彼の歌は忘れられるその切なさから目をそらし、息を吸う。仕事は別にまだあった。
「皆様方には更なる贈物を。これなる戦士の持つ剣――」
 すらりとアケルの手が伸びてラウルスを指し示す。ただの吟遊詩人の連れだとしか思っていなかった村人の視線を全身に浴びて、ラウルスは居心地悪そうに身じろいだ。が、手のほうはまるで決まっていたことのよう、剣を抜き放つ。
「さる御使いより授けられし祝福された剣にして、悪しきものを絶つと伝えられし剣。……と、言われておりますよ」
 にやりと笑ったアケルに村人がどっと沸く。吟遊詩人と言うよりは大道芸人のやり口めいていたが、受けたことに違いはない。
 ラウルスは内心で呆れればいいのかどうか、迷っていた。アケルの言っていることは、あながち間違いでもない。完全な誤解を招く表現ではあるが、大筋で嘘はついていないのだから。
 ――まったく、いつの間にこんな嘘をつくようになったんだか。
 溜息と共に思えば、ほんのりと笑ったアケルがこちらを向いた。が、目が笑っていない。仕事があるでしょう、とたしなめられてラウルスは小さく笑う。
「ご新婚のお二人に、そして皆様に悪運が降りかからないよう、ここで剣舞のご披露と参りましょう」
 ちょっと待て。ラウルスは危うく叫ぶところだった。そんなことはまったく聞いていない。それどころか匂わせてすらいなかったではないか。
「どうしたんです、ラウルス? 早くはじめてくださいよ」
 にっこり笑ってアケルが新しい曲を奏ではじめた。いまはラウルスにも感じられた。混沌の小さな塊が近づきつつあるのが。
「つまり、踊りながらやれってことか?」
 剣身に混沌を吸い寄せろ、とアケルが言っているのは理解した。理解はしたが、なぜか釈然としない思いを抱えたまま自棄になってラウルスは踊りはじめた。




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