アケルは腰の小さな袋に手を添える。知らず袋の上から中身を握り締めていた。硬く小さな感触。あれから二年。けれど変わってしまった二年。 「女王、伺いたいことがあるのですが。いえ、ほとんど余談なんですけど」 かすかに震えたアケルの声にラウルスは眉を顰める。彼の声がこのような形で感情をあらわにするのは珍しくなっていた。 「なんですか、アクィリフェル。わたくしに答えられることならば何なりとお答えいたしましょう」 ゆったりと微笑む女王の姿に不意に母を見た。ティリアの前で女王は言った、自分はあらゆるものの母なる存在の具現だと。あながち間違いや冗談ではなかったのかもしれない。 「ティルナノーグの女王――」 呼びかけて、アケルの声が止まる。問いたくて、問えない。それは恐怖と言う。もしも望むものとは違う答えが返ってきたなら。このまま漠然とした希望を抱いているほうがずっといい。 「アケル。まず俺に言ってみたらどうだ?」 すっと入り込んでくるラウルスの声だった。アケルの耳に一切の波風を立てず、それでいて遠くまで奥深くまで染み込む。 だからこそ、決心がついた。ぎこちない動きでラウルスを見つめ、音がしそうなほど不自然にうなずく。大丈夫だと。 「女王にお尋ねします。――我が友は、健在でしょうか。我が友、ヘルムカヤールは、今どこにいるか、ご存知でしょうか」 あの美しかったヌベスカステルム、雲の城。その名のままに美々しい城の主。偉大で、この上なく優しかった竜。 あのヌベスカステルムは、大異変で姿を消してしまった。混沌の襲来ではなく、大地の激動で、微塵に壊れてしまった。 ならば、あの竜は。問うたのにもかかわらず、答えを聞くのを拒むよう、アケルは目を閉じる。それでも耳だけは閉ざせない。 「ヘルムカヤール、ですか」 女王の溜息のような声音にびくりとすくんだ。もういい、答えなくていい。言いかけたはずが、声は喉に張りついて出なかった。 「美しいドラゴンでしたね。あなたもご存知ですか、アルハイド王」 「無論。我が目には、この世界そのもののように見えたよ」 「本当に……。この世界にはまだ美しいものが充分にあるのだと、そう思わされる、ドラゴン――」 女王の声が風に消えかける。遠く流れて、あるいはヘルムカヤールのところまで届けといわんばかりに。そして遠くのどこかになど届かないと知っているかに。 「ティルナノーグの女王……」 もういい、彼のことはもういい。言いたいのに、アケルはどうしてもその一言がいえない。うっすらと、閉じた瞼の隙間に涙が滲む。 「アケル……!」 ラウルスの腕を感じた。きつく抱きしめてくれる腕。見えてなどいないのに、聞こえる。彼が女王を強く睨み据えていることが。なぜ正直に話したのだと問い詰めている眼差しが。 「妖精とはそういうものだと知らんのかね、ちっこいのたち」 だが。風が巻き起こる。はっとして目を開け、見上げればそこに。 「ヘルムカヤール!」 竜がいた。翼を風になびかせるよう操り、優雅に降り立つ空色の竜。ひどく澄んだ青空を、今の竜はその身に映していた。 「あなたは――!」 「なんだ、小さいの。我が死んだと思ったか、うん?」 「だって、ヌベスカステルムは!」 「あれはのぉ、気に入りの巣だったんだがなぁ。まったく、酷い目にあったものよ」 長い首を揺らめかせ、うんうんとうなずいている。滑稽で、気品に満ちた奇妙な姿。アケルは言葉をなくし、ラウルスの腕を振り払う。 「ヘルムカヤール」 立ち上がり、竜の元へと歩み寄る。まるでその姿は自らの動きにこの夢が覚めてしまいはしないかと怯えるかのよう。 「ヘルムカヤール」 元気だったのかでも、無事でよかったでもない。何も言えない。ただアケルはその巨体に手を伸ばす。伸ばした腕を精一杯、竜の首に絡める。そして思い切り抱きしめた。 「なんだ小さいの、どうした、うん? 我は元気でやってるよ。妖精の女王がここに招いてくれたからな、なんの心配も要らんよ、小さいの」 戸惑うのか、それとも案ずるのか。優しい竜の声だった。アケルは自分の涙が竜の肌を濡らしていくのをただ感じていた。その襟首が突如として引かれた。 「そろそろいいか?」 「ちょっと、ラウルス! いきなりなにするんですか、痛いです!」 「いや、まぁな」 困り顔で頬の辺りなどかいていた。アケルとしては別の意味で言葉がない。 「なんだちっこいの。妬いたか」 「悪いか、でっかいの」 言い合う彼らに、ふと時間が戻った気がした。流れ流れて戻りようのない時の流れ。それでもこの手に取り戻すことはできる。ほんの些細なことであろうとも。あるいは、本当に大切なものだけは。 「女王、感謝します」 「おや、なにがですか?」 「友人をこの地に招いてくださったことに」 毅然としたアケルの言葉にラウルスは顔を顰める。確かにありがたいことではある。否、それはまぎれもなく感謝すべきこと。だがしかし。 「女王、少し伺いたいが、いいか? 結構。ではお尋ねしよう。先ほどのあの口調、私にはヘルムカヤールが死んだ追憶のようにしか聞こえなかったんだがな」 「そのように聞こえましたか。残念ですね、とても」 にっこりと笑うメイブにラウルスは溜息をつく。まったくもってヘルムカヤールの言うとおり。妖精とは、こういうもの。時と場所を選ばない冗談好きで手に負えない。 「ヘルムカヤール、体の具合はどうですか。サティーは、大変なことになっているようですが」 「まぁな。よいとは言わんよ。ただ、サティーたちより体力はあるからの」 肩をすくめたとでも言うような仕種。アケルはだから、言葉より明確にわかる。耳を待つまでもない。万全とは程遠いと。 「では、ラウルス」 「あぁ。そうしよう。混沌収集は友人たちのための急務だ。一刻も早く――」 「どうしたんです。まさか」 「ちょっと待て、とにかく食って掛かる癖はなんとかしろ! まったく、少しは大人になれよ!」 そのままで済ませればいいものを、ラウルスはにたりとして付け加えた。他の部分は大人になったのに、と。だからよけいにアケルが怒るのだ。もっとも、いまは竜との再会がよほど嬉しかったものと見える。普段よりいっそう手の込んだ罵声だった。 「なんだ、短い間でずいぶんと性格が悪くなったんじゃないかね、小さいの」 「それは間違いなくラウルスのせいです!」 「否定はせんが話題がずれてるぞ。女王に聞きたいことがある。集めるのに同意したところまで話が進んだはずだったな?」 「えぇ、そうですよ」 竜とじゃれる二人の人間と竜の巨体を前にしてメイブはまるで午後の茶でも楽しんでいるかの風情。立派なものだとラウルスですら半ば呆れる。 「だったら、集める方法だ。それを教えてもらわんことには身動きが取れん。魔王の剣を使う。それは聞いたがな。それとも、キノとピーノを連れて歩いたほうがいいか?」 すぐさまその検討に入ったのだろう、ラウルスの表情が真剣そのものになる。小さな体とは言え、人間の子供ほどはある。起きている間はいいが、眠ってしまうとなると中々の荷物だ。 「いいえ、アルハイド王」 にこりとメイブが笑った。だがその笑み。いままでのものと似て非なる笑みだった。母のような、もしくは純粋な乙女のような。アケルは聞く。そこにあるのは信頼だと。 「二人のためを思ってくださる、いえ、サティーたちのことを思ってくださるあなたがたの心は実に尊いものですね。感嘆いたしますよ、アルハイド王」 「褒め言葉よりいまは教示をいただきたいな、女王」 にやり、ラウルスが笑っていなした。アケルは小さくくつりと笑う。わずかに横目で竜を見やれば、ヘルムカヤールがぱちりと片目をつぶって見せた。 「照れてるの」 「それ、口に出さないほうがいいですよ、怒るから」 「なんの、我とちっこいのの仲だ、怒りはせんよこのくらい。な、ちっこいの?」 「ここで怒ったら俺は馬鹿だろうが。いいから二人ともちょっと黙ってろ!」 話が進まないとぶつぶつ言うラウルスにアケルは大きく笑った。ヘルムカヤールに寄り添えば固い鱗の感触。ちらりとラウルスの剣を見やる。あの鞘は、ヘルムカヤールの鱗。だがいまここで生きて煌く鱗のほうがずっとずっと美しい、そう思う。 「世界の歌い手が歌う、そして剣を使っていただく。そこまでは説明したと思いますが?」 「むしろそこまでしか説明されてないぞ」 「だいたいそれで終わりですからね」 言ってメイブは肩をすくめた。まるで似つかわしくない悪戯な仕種だった。それなのにしっくりとはまってもいる。更に問い質そうとするラウルスを軽く手で制した。 「魔王の剣は混沌の塊。それも申し上げましたね? ですから、少々の混沌ならば、吸い寄せるとでも言うのでしょうか。その剣身と化さしめることができるはずです。どうですか、アクィリフェル」 言われたアケルが溜息をつく。そういうことはもう少し早く言ってほしいと思ったものの、いずれ遅かろうが早かろうが実行するのは自分だった。 無言でラウルスに手を伸ばせば、こちらも黙って剣を渡してくれた。すう、とヘルムカヤールが静かに息を吸う。大きな音だった。それを背景にアケルは耳を澄ます。それからこくりとうなずいた。 「えぇ、できると思います。後はそうですね、その場で本人に聞いたほうが早いかな」 「本人!?」 「別に剣に人格があるとか言うわけじゃないですけど、ただの物体としては存在の仕方が明確なんですよ、これ」 困ったように言うアケルにラウルスは呆れる。ごく当たり前のことを語っているようで、ありえないことを言っているのだと理解しているのだろうか彼は。 「一応、非常識なことを言ってる程度の自覚はありますからね!」 「よかった。実に安心したよ。あぁよかった本当に」 「ラウルス!」 怒鳴られてラウルスこそがほっとした。呆然として緩んだ心を引き締める。そしてメイブにうなずいて見せた。 |