すがりついては投げ飛ばされ、また戻ってはへばりつく。当然、また投げられる。その繰り返しにサティーは倦むことがなかった。引き剥がす二人のほうが疲れかねない。 だが唐突にサティーはことり、と眠りに落ちた。まるで遊び疲れた人間の子供のように。その思いにラウルスが懐かしげに目を細め、けれどアケルは青ざめた。 「アクィリフェルには、聞こえているようですね」 女王の声にも滲む疲労。疲れではないのかもしれない。生きていくために必要な根源の欠乏。 「なにがだ、女王?」 ふと思いが我が子に流れたのをアケルに知られたくないとでも言うようラウルスは咳払いをする。それならば一切あらゆる声を出さなければいいのに、とアケルは苦笑した。 「えぇ、聞こえています。サティーたちが遊び疲れたのではないことくらいは」 「なに。そう……なのか。なるほどな。これが、彼らに生きる力が足らん、と言うこと、なのか?」 アケルの言葉を先どるようラウルスは言い、顎先に指を持ってくる。真剣な王の顔だった。この二年と言うものあまり見た覚えのない王者の顔。 「えぇ、そういうことです。あなたがたに会い、魔王の剣をもってすらサティーは起き続けることができません」 「それだ、魔王の剣がどうしてなんだ?」 サティーに精気を分け与えることができる。あるいは魔王の剣ならばそのような不思議もあってもいいのかもしれない。だが黒き御使いに授けられて以来、ほとんどラウルスは側から離したことがない。魔族のサティーに及ぼす力があるのならば、人間の自分に異変があってもおかしくはない、そのような気がしなくもない。 「魔王の剣ですよ、アルハイド王。それは混沌の塊のようなもの」 「な――」 「混沌の塊で混沌を討った。それが不思議ですか? 充分にありえることですよ。いわば純度の違いとでも言いましょうか」 「わかった。まったくわからんことが良くわかったから、それはそれで置く。サティーは……あぁ、なるほどな。魔族だから、混沌が足らん。魔王の剣は混沌の塊。そういうことか」 納得してうなずくラウルスにアケルは溜息をつきたくなってくる。もう少し驚くようなことではないだろうか、これは。そして甦る言葉。以前、魔王の剣について似たようなことを言われた覚えがあった。腰の小袋に手が伸びかけ、止まった。 「ティルナノーグの女王。伺ってもいいですか? 僕の記憶が間違いでなければ、そしてあれが幻覚でないのならば。この地にはもっと大勢のサティーがいたように覚えています」 倒れた自分をラウルスが運んでくれたあのとき。ぎゅうぎゅう詰めにまわりをサティーが囲んでいた。あの時の楽しげなきらきらとした彼らの目。 「えぇ、おりますよ。いまは……眠っていますけれど」 「この子たちのように、ですか?」 「いいえ? キノとピーノは起きている時間があります。ですが、他のものはほぼ恒久的に眠っています」 「それは――!」 ラウルスの驚愕の叫び。恒久的な眠り。それを人間は死と呼ぶのではないのか。顔色を失くしたラウルスに、アケルは知らず見惚れていた。そのような場合ではないと重々承知していてすら。それはあまりにも力強い王の姿。 「あなたがご想像なさったようなことではありませんよ、アルハイド王。本当に、眠っているだけです。あるいは眠り続けているだけです。もっとも、このままでは本当に永遠の眠りになりますが。いまのところはまだ、そうですね、人間風に言えば仮死状態とでも言いましょうか」 「それはかなり切羽詰っている、と言わないか?」 「言いますね」 「女王! ならばなぜもっと早く呼んでくれん! いくらでも手は貸したぞ!」 ラウルスの怒号に、けれどメイブはうっとりと微笑んだ。ゆっくりとうなずいて、軽く目を閉じる。その目を開いたとき浮かぶのはこの上もない安堵。 「あなたは人間ですよ、アルハイド王。呪いによって時の箍を外されたとはいえ、人間です。対してサティーは魔族です。わたくしは彼らの女王としてあなたをご信頼申し上げられるのか。考える時間が必要だったとは思ってくださらないのですか」 「それは否定はせん。が、物には限度というものがある! 考えるのはけっこうだが、考え続けるのは君主として褒められた行いではないぞ、女王」 「面白いものですね。このわたくしが人間に叱責されるとは」 「怒ったか?」 「いいえ? 大変興味深く感じました。えぇ、そうです。この方にならば、あなたがた、アルハイド王と世界の歌い手にならば、サティーを、わたくしの民を預けられます」 高らかな、まるで歌のような声。それはもしかしたらこの妖精郷の歌う歌声であったのかもしれない。目の前にいる女は、女王なのだから。この妖精郷の主にしてその体現。彼女こそ、女王メイブ。 「せめてもう少し早く知らせて欲しかったがな。いくつか潰してしまったぞ」 まだ文句を言うラウルスの声がアケルの耳に届き、妖精郷の歌声が遠ざかる。彼の声を現実と言う。 「あれは手痛い失敗でしたね。もう少し早く知っていれば、禁断の山に巣食っていた混沌を潰さなかったんですが。あれは中々大きかったから、サティーも一息つけたでしょうに」 いかにも残念そうに言うアケルの声だった。だがラウルスの耳には違う音に聞こえた。まるで世界の歌い手の耳を持ったかのように。アケルの痛みが、故郷を喪失した、そして汚された無念がいまも聞こえる。 「探してはいたのですよ、実際は。ですがあなたがたは本当にあちらこちらとどこに行くのかわからなくて。もう少し計画性を持っていただきたいものです」 「それを妖精に言われるとは思ってもみなかったぞ」 にやりとラウルスが笑った。つられるようアケルの口元も緩む。それでも視界の端には眠るサティーが入り続けた。 「ですから、あなたがたがシーラに現れたのは幸いでした」 ラウルスの言葉をまるきり無視して女王は続けた。痛いところを突かれたのか、それとも冗談だったのか、アケルの耳をしてわかり得ないことだった。 「わたくしはあなたと交流があったよう、三人の君主とも交流を持っていますからね。ティリア女王の婚儀を祝うのは当然のこと。本当に、幸いでした」 「ならば、あれは我々を探していて見つけたから現れた、と言うわけではないんだな?」 「疑いますか、アルハイド王?」 「可愛い一人娘の結婚だぞ。純に祝ってやりたいと思わん父親がどこにいる」 政治がらみではなく、世界の崩壊も関わりなく。ただひたすらに幸福であれとの祈り。アケルはふと思いつく。 「そうだ、ラウルス。落ち着いたら、と言うか旅の途中でかまいませんけど。王妃様の墓参りに行きませんか」 もっとも、王家の墓所となれば簡単に墓参りなどできるような場所ではないことくらい、アケルも心得ている。そもそも大異変にアルハイド王家の霊廟は崩壊を免れたのか。そのようなはずもない。 「おい! お前な、急に、何を……!」 突然のことに慌てだしたラウルスにアケルは微笑む。他意はない、けれど疑うのかと。先ほどの女王の繰り返しのようだった。 「疑うんだったら別にいいですけど! 僕は姫様がお幸せになったのが心から嬉しいんです。だから、姫様のお母上様もきっと知りたいだろうと思って。それだけだったんですけどね!」 「いや、それは……」 「僕があなたの奥方に何を言うと思ったんですか、我が王よ?」 からかわれているのは充分に理解していても、言葉を返せない事実というものがある。 「僕が王妃様ご健在のうちにあなたを奪い取ったとか言うならもう少し申し訳なく思ったり、姫様を憎んだりするものなのかもしれませんけど。違うでしょう、ラウルス?」 「まぁな」 「それとも――」 まだ王妃があなたの心には住んでいるのか、愛する人として。亡き人への温かい思いではなく。 からかいとしてそれを口にしようしたアケルの言葉が止まる。ラウルスの目だった。彼の猛禽の目が自分を見ていた。 「それ以上言ったら、ぶん殴るぞ」 冗談めいた言葉に透ける本気。目は和んでいるのに、光だけは鋭かった。不意に吹きぬける風。否、女王の笑い声。 「本当に仲がよろしくてよいこと。アルハイド王、あなたは幸福ですね」 「私はそう思っているがどうにもアケルはそう思っていない節があるようでな」 「なんてこと言うんですか! 僕があなたを愛していないとでも言うんですか、それともあなたの愛を疑っているとでも!? そこのところをはっきりさせてもらおうじゃないですか!」 「はっきりさせるのはいいが、ここでか? さすがに俺も人目が気になるが」 「ちょっと待ってください! あなたはいったいどういう方法で証明しようとしているんですか!」 悲鳴じみたアケルの声にラウルスが高らかと笑った。この世の不幸すべてを吹き飛ばすような笑い声。アケルの耳に届いたとき、それは世界の歌ともなっていた。 「いえ、そんなことはとりあえず今はどうでもいいんです! そうですよね、ラウルス!? 違うなんて言ったら別れますから! 現状、重要なのはサティーです。要するに混沌です! そうですよね!?」 あまりにも幸福な歌に聞き惚れそうになり、アケルは声を荒らげる。その彼をメイブが微笑みをもって見つめていた。彼女にはこの歌が聞こえるのかもしれない、アケルは思う。歌としてではなく、違う形で。けれど同じ現象として。それを思うのは二度目だった。 「世界の歌い手の言うとおりですよ、アルハイド王。自重なさいませ」 「待て、私のせいか?」 「他にどなたが?」 にっこりと笑う女王にラウルスは溜息をこらえる。そしてアケルをしみじみと見つめた。 「禁断の山は、妖精族と交流があったんだよな?」 「ありましたけど?」 「いや、お前の先祖に実は妖精がいたとか言われても驚かない自分がいると思ってな」 「……ラウルス。それってティルナノーグの女王と僕が似てるっていう意味ですか。女王に失礼ですよ。だいたい、今のって僕の言葉の焼き直しじゃないですか、覚えてるでしょうね、ラウルス!」 かつて友と王、二人して自分をからかっていたあのときの言葉。懐かしい痛みに胸を刺され、アケルは気づく。友の存在のあり方に。 |