腕に絡みついたピーノを見つめる。まじまじと、それこそ体の裏まで見通そうと言うように。アケルのその眼差しに気づかないはずもないのに、サティーはくすくすと笑い続けていた。異様な狂騒状態。これが魔王の剣が起こしている事態。背筋を冷えさせながらもアケルは見つめ続ける。あるいは、聞き続ける。 「……ラウルス」 「なんだ」 「僕、変なんでしょうか」 「なにがだよ」 淡々とした言葉のやり取りに、互いの呆然とした思いが行き来するかのよう。アケルはもう一度耳を澄ませ、そしてうなずく。 「ピーノが。悪いなんて思えない。キノも」 魔族、悪魔の一族。ならばそれは人間に害なすもの。御伽噺の中で語られているだけの悪魔にいま出会っているのだとアケルは思う。 不思議だった。神々はこの世にあって、ごく当たり前に信仰されている。居る居ないを論ずるものではない。それなのになぜか悪魔は、存在すら疑われていた。子供を躾けるときに曖昧に語られるのみ。それなのに。 御伽噺の中の、あるいは躾けの中で語られた悪魔とサティーが同じものだと、メイブは言うのか。アケルの耳にはどうしてもそうは聞こえなかった。 「人間の悪い癖ですよ、アクィリフェル」 静かな女王の声。いつにない現実味のある声にアケルは瞬きをする。そして浮かんだ苦笑。呆気にとられて思考すら遠い自分を改めて感じた。 「どういう意味ですか、女王?」 「そうですね、人間はあまりにも大雑把、と言いましょうか」 楽しげな、普段の女王が選ぶとは思いがたい雑な言葉にアケルは自失から立ち直る。すう、と息を吸えばくすくす笑いが耳につく。それでももうアケルは自分の耳を疑わなかった。この耳にそう聞こえているのならば、それが正しいと。 「人間にとって、多少行き過ぎようとも悪戯をするものが妖精、害なすものを悪魔、と呼びますね? 我々妖精族には多くの種族があり、人間の目に映らないものも人間とは関わらないと決めているものもいます」 「サティーは」 「彼らは、いわば客人、でしょうか。一族あげての客と言うのも稀なことではありますが」 「すべてのサティーがここにいるのですか?」 「いいえ? わたくしは種族をあげて、とは言いませんでしたよ」 楽しげなメイブの声に、ラウルスが身震いをした。一度両手で自分の頬を叩く。気合を入れなおす仕種にアケルは微笑み、ようやく自由な呼吸ができた、と感じた。 「サティーは魔界から我が地を訪れた客人です」 メイブははっきりと言った。だからサティーは悪魔なのだと。アケルはピーノの腕を取る。まだ自分に絡んでいる腕だった。ほっそりとして、子供のように未熟な腕。可憐でへし折りたくなるほど可愛らしい腕。 「ピーノは悪魔なの?」 「うふふ。そうだよ? 知らなかったの、お客様。おかしなことを言うね。ピーノ、言わなかったかな?」 「……そうだね、聞いてなかった気がするよ」 がくりとアケルの肩が落ちた。ピーノにとっては隠すことでもなく、単に自明の差、というものなのだろう。妖精郷にいるのだから妖精、と頭から思い込んでいた。 「なぁ、アケル」 ぼそりとラウルスが呟くように呼んだ。こういうときには決まって天地がひっくり返るようなことを言うのだ、この男は。だからアケルは身構える。 「ちょっと、とんでもないことを思い出したんだがな」 「なんですか。はっきり言ってください、はっきり!」 「黒き御使いから剣をいただいたときのことだ。見当、ついたか?」 さっとアケルの顔が青ざめる。それなのに、アケル自身にはまだわからなかった。理解が及ばないのに、反応のほうが早い。それがアケルを更に恐れさせた。 「黒き御使いの言葉だ。お前がちょっと融通してくれって言ったよな?」 禁断の山の掟を破ってラウルスを追ったアケル。剣の呪いを共に受けた二人なのだから、狩人の長に咎められないよう一言欲しい、そう願った記憶。 「あのとき御使いは言った。従者の一族が世話になった、と。覚えてるか?」 「……いま必死で忘れようとしているところです!」 黒き御使いは二人の顔を、あるいは髪と目を見てそう言った。ラウルスの手になる玩具の馬。ピーノとキノが馬に息を吹き込んだ。 「と言うことは、だ。最低限その二人は黒き御使いの従者の一族、と言うことにならんか?」 「どう考えたってそうなるじゃないですか! なるほどね、僕が愚かでしたよ! だからサティーは御使いの剣を予言したんだ。一族の主人が関わっているから。そうですよね、女王!」 ついに混乱が呼んだ苛立ちはメイブにまで牙をむく。が、メイブはころころと笑うだけだった。そのことにほっとラウルスは安堵する。申し訳ないと目顔で語れば気にしていないと視線が返す。 「サティーの主人だからではありませんよ、世界の歌い手。サティーはそもそも予言を歌う種族。それだけのことです」 そしてメイブは一転、溜息をついた。二人とも、ようやく気づく。論点はそこではない。問題は、混沌。 「混沌の襲来は、サティーに大いなる精気を与えました。だからこそ、その打破は大きな衝撃です。わたくしも、混沌が打ち破られるまで気づきませんでしたが」 妖精族ではなく魔族であるのだから。自らの種族でない客のことだからこそ、手が遅れた。客だと言い、同族ではないと言う。それなのにメイブは自らの民を案じていた。まるでラウルスだ、彼と同じだとアケルは思う。 「ですから、アルハイド王。あなたがたに混沌を隅々まで滅ぼされてはサティーは生きていけません」 「だが……」 ならば、人間は。混沌が残っていればいるだけ、人間世界に影響が残る。討ち漏らしのほんの少しですら、大地は病むものを。 「ですから、ご相談です」 メイブが笑った。この上なく見事な笑みにアケルは見惚れる。そしてラウルスに目を移す。今ここに、二人の王がいる。民にして民ではないものを案ずる女王と、自らの民ではなくなってしまった人々のため、あらゆるものに立ち向かう王が。 「混沌を集めてくださいませ、アルハイド王」 あたりの気温が下がる心地。アケルはそれを耳で聞く。世界の音ではなく、自らの心臓の音だった。混沌を蒐集して、どうなるのか。また、あの時の二の舞なのか。 「いいえ、アクィリフェル。違いますよ。サティーが生きていくに足るものを集めていただきたいのです。そうね、あなたには例え話でも通じるでしょう」 ゆっくりと目を閉じ、女王は息をつく。ふ、とアケルは違和感を聞いた。妖精郷の違和感と聞こえていたものが女王のそれとはじめて気づく。黙ってリュートを手に取り爪弾いた。 「あぁ、心地良い。感謝しますよ、世界の歌い手。わたくしも、世界の均衡が破れて弱っています。わたくしが健在であるのならば自らなすこと。ですがいまはあなたがたの手をお借りしましょう。――サティーのため、この妖精郷に湖を作るようなものです。ただし水ではなく混沌で。サティーは魔族ではありますが、そもそもこのアルハイドの大地で暮らすことができるほど、瘴気は少なくて済みます。ならば、この妖精郷に。わたくしたちにとっても、必要なものでもありますからね」 ラウルスには想像するしかなかった例え話だった。だがアケルの耳は更に具体的な案としてそれを聞く。ちらりとラウルスの剣へと視線が流れた。 「えぇ、そうですよ、アクィリフェル。あなたの歌で、混沌を探して欲しい。そしてアルハイド王には魔王の剣をもって、混沌を集めていただきたいの」 「だが、女王。集めると言われてもだな。討つことはできても私にはどうしたらいいのかさっぱりわからんぞ」 だから方法を教えろとラウルスは言う。集めることそのものに異存はないのだと。ゆっくりとメイブがラウルスを見つめた。 「これが、わたくしがお願いする返礼です。アルハイド王、ひとつお聞きしてよろしい?」 「けっこう。どうぞお尋ねあれ」 「では遠慮なく聞きましょう。王はサティーを救うのですか。確かにこれはわたくしが礼として要求することです。ですが王は人間の王。人間を守る王が、魔族のサティーを救うというのですか。悪魔ですよ、彼らは」 ラウルスはすぐさま笑い飛ばしたりはしなかった。アケルには、答えなど知れていたけれど。何度も引き剥がそうと格闘し結局諦めた、腕に絡んだピーノを見る。喉の奥で笑い、きらきらとした眼差しで見上げてくる魔族を。ラウルスは知る。無邪気とは、邪気の裏返し、どちらから見るかの差でしかないのだと。 そしてアケルの言葉を思い出す。神々は善、悪魔は悪、そう決めるのは所詮人間の基準でしかないと。ラウルスが思い出した瞬間、アケルもまたそれを思い出しては自らを恥じていた。単なる頭の理解であったものが体に染み込んで智慧となる。 「メイブ女王。見くびってもらっては、困るな」 苦笑して、キノの頭に手を置いた。それだけでうっとりとするような、あるいは後でアケルに妬かれそうな笑い声。 「あの日。混沌との決戦においてサティーが、殊にキノとピーノがどれほど我々を助けてくれたか知らん私ではない。その彼らが手助けを必要としているのならば我が腕は彼らにも伸ばされる。それだけのことだ」 「当然ですね。堅苦しく言うことなんかじゃないです。ピーノもキノも僕の友達です。友達のためにできることがあるならするべきでは?」 言葉にした瞬間思い出す。否、忘れたことなどない。それでも意識しないよう努めてきた面影。腰につけた小さな袋の中身を意識した。 「――あなたがたならば、そう言うのではないかと思っていましたよ」 「当然だ。アケルの言葉ではないがな」 にやりと笑い、ラウルスは勢いよくキノを引き剥がす。王国随一との呼び名も高い剣士の手だ。さすがに本気になられてはキノも敵わない。 「いやんなの! もっと引っついてたいのなの。王様のお客様、気持ちいいのなの。いやんなの!」 「うふふー。赤毛のお客様は焼きもち? でも痛いの。もうちょっと手加減してよ! でも……うふふ、それも気持ちいいの」 ラウルスがキノを投げ出した途端、アケルの手も自然に動いていた。思わず全力で狩人の技を発揮してしまったけれど、投げ出されたピーノに怪我はない。そのことに息をつく。 「ごめん、怪我はないみたいだけど」 「してないけど。うふふ。だったらもっと引っついててもいい?」 「キノもキノも! キノももーっとぺったりするのなの!」 口々に言うサティーを互いに一瞥。そして同時に口を開けば言葉が重なる。 「駄目!」 拗ねて喚きだしたサティーを見る女王の目がはじめて柔らかに和んだ。 |