妖精郷は、変わっていて、変わっていなかった。アケルは胸いっぱいに息を吸い込む。それで少しはなんとか落ち着いた、気がした。 「で。女王。聞きたいことがいくらでもあるんだがな」 その場に腰を下ろせば草の匂い。香り立つそれにラウルスは心を慰める。大異変を経ても妖精郷は美しかった。 「えぇ、そうでしょうね」 うっとりとメイブが微笑む。ただそれに誤魔化されるほどラウルスは彼女との付き合いが浅くはなかった。 「まぁ、怖い顔をなさること。――冗談はこのくらいにいたしましょうか? アルハイド王、何をお尋ねになりたいのですか」 「――王、か」 わずかばかり苦いラウルスの声にアケルは体を硬くする。たとえ相手が妖精の女王であれ、ラウルスを悲しませるものならば許さないとばかりに。 「世界の歌い手、アクィリフェル。感じませんか。この方はたとえ王国を失おうとも王たらんと努め、王の責務を放棄はなさらない方。その方を王と呼んではいけませんか」 「……僕に異存はありません。ですが、まず本人が望むかどうかを尋ねてからにしてくれませんか、女王」 「あぁ、そうでしたね。うっかりしていました。どうお呼びしましょうか?」 軽やかな笑い声とともにそれを言うのだから始末に負えない。ラウルスは苦笑して好きにしろと言うよう手を振った。 「それよりまず聞きたいのは、だ。どうして我々を記憶している?」 誰からも忘れられた自分たち。吟遊詩人と戦士としても覚えていてはもらえない自分たち。悪魔の呪詛。アルハイドを救った代償。この二年、痛いほど目の当たりにした事実。 「簡単なことですよ、アルハイド王」 「女王には自明のことであれ、私にはさっぱり理解できん。ご説明いただけるとありがたいんだがな」 アケルはそっと呼吸をする。今ここに、アウデンティースが帰ってきた。ラウルスではなく、アウデンティースがここにいる。 嫌ではない。かつてのよう、毛嫌いしたりはしない。ただ、違和感があるのみだ。それだけ二人きりの旅に馴染んだ、と言うことなのかもしれなかった。 「あなた方にかかっている呪詛をあえて言葉にすればこういうことでしょう。遍く人々の記憶に残らない、と」 「あぁ、そうだ。だから――」 「だからですよ、アルハイド王」 メイブの言葉にアケルは息を飲む。あっと驚いた声を飲み込みきれず音さえ漏れた。そして流れ来るメイブの視線。 「わかったようですね、アクィリフェル」 「えぇ、わかりました。そうか……! だからだったんですか。なるほど、ね。中々、質が悪い。そう言ってよければ、ですけど!」 「よろしいのではなくて? あなたがたを呪ったのはわたくしではありませんからね」 「……ちょっと待て、二人とも。どっちでもいいから説明してくれ!」 悲鳴を上げたラウルスに、アケルはにやりと笑って見せる。だが、本心は笑みからは程遠かった。どのような呪詛であれ、ラウルスが親しい人から忘れられた事実まで変わるものではない。そしてそれを覆す術も。 「問題は、あらゆる人々に、と言うところです。わかりますか、ラウルス。要するに、ですよ。妖精って、人間ですか?」 「な……あ、なるほど……?」 「納得してませんね、それ?」 「いや、あのな、アケル。妖精は確かに人間族ではない。だがな、人に違いはなくないか?」 同じように生き、愛し悲しみ苦労する。生を謳歌し死を嘆く。妖精と人間、どこが違うのかとラウルスは問う。 「あなたって人は……」 アケルの眼差しが和らいで、笑みが浮かんだ。もしもこの場にメイブがいなかったのならば、ラウルスを抱きしめていたかもしれない。 「大変に立派で美しいお心ですけれどね、アルハイド王。それならば言い直しましょうか。遍く人間の記憶に、と?」 「まぁ、つらい事実ではあるが、そのほうが納得はいくな。なるほどな。だからあなたは私がわかる、と言うわけか」 「もちろんですよ、アルハイド王。あなたもアクィリフェルも。わたくしたちは忘れてなどいませんよ」 ただの言葉だった。それなのになぜこれほどまでに胸を打つ。人の記憶に残らない。それが今更つらいと思い知る。 「……覚えていてくださって、本当に嬉しく思います。女王」 リュートの弦に手を置いた。そのまま爪弾く。アケルはそのまま歌うつもりだった。が、止めたのは女王メイブ。 「後にしていただきましょう、アクィリフェル。まずは用事を済ませてしまいませんとね」 にっこりと笑われて、アケルはほんのりと頬を染めた。それすらも愛でるようメイブが笑みを深めるのにラウルスが嫌な顔をする。 「ラウルス」 たしなめれば、それもまた女王の心に適ったのか。ころころと音楽のような笑い声。これは黙って女王のしたいままにさせるが得策とばかりアケルは無言になった。 「礼を取り立てる、と言っていたな?」 アルハイド存亡の危機において、妖精の女王の助力を二人は得ていた。そのときの約束を言っているのだろう。 「えぇ、助けていただきたく思います、お二人に」 すう、と気温が下がったような錯覚。アケルは辺りを見回す。何も変わっていない。そして変わっていた。 「世界の歌い手。あなたは妖精郷をどう聞きますか」 メイブの声に、そして妖精郷に、そこに暮らすすべての妖精たちに耳を澄ませば。アケルの体から熱が失われていく心地。 「おい!」 くらりと傾いだ体をラウルスに支えられた。咄嗟にすがってしまったラウルスの腕の熱。それにぬくもりが戻っていく。 「すみません……ちょっと、飲まれそうになった。違うかな、異常ですよね、女王?」 「異変が起こっているから助けていただきたいのですよ、アクィリフェル。あなたの耳にはどう聞こえましたか」 何事もないかのような女王の表情。否、声音にはじめて憔悴を聞く。妖精の女王からはっきりとした感情を聞き取ったのは、アケルにして初めてのことだった。 「何、とはっきりわかりません。ただ、なんというか、平衡が崩れているような、眩暈のような、都の喧騒のように騒がしくて、同時に墓場もかくやと静かです」 「あぁ、的確ですね、それは」 うなずいたメイブにラウルスは視線を据えた。頼みがあるのならばはっきり言えと。拒む自分たちではないのだからと。それを受け取ったのだろう、メイブは。ゆっくりとうなずいて見せ、そしてサティーを招きよせた。 「おいでなさい、二人とも」 女王の声に従って、姿を消していたピーノとキノがやってくる。弾む足取り、踊り狂う二人。くすくす笑いに甘い声。アケルはふと眉を顰めた。 「わかりますか、アクィリフェル?」 サティーたちはまだ踊っていた。互いに言い合う声と声。草踏みしだく足取りの軽やかさ。変わっていないのに、決定的に違う。 「混沌の影響ですよ」 「な――!」 ラウルスが驚愕の声を放った。だが、言われてみればそのとおりかもしれない。異変は人間世界のみならず、妖精すらも襲った。だからこそ助力を惜しまなかったメイブ。 「……混沌の欠片が、いまだ世界各地に散っている。我々の、討ち漏らしだ。申し訳なく思っている。最善を尽くして駆逐する所存」 毅然とした王の声。メイブが言っていたことは間違いなく正しい、アケルに染み込んでいく。アルハイド王国と言う形を失ったとて、彼は王。ただ一人、民のためあらゆるものに立ち向かう王。 ラウルスの手が、腰に佩かれた魔王の剣を握り締める。黒き御使いより授けられた混沌を討つための魔王の佩剣。漆黒にして銀の剣。これであの日、混沌を討ったものを。 「いいえ。そうしていただいては困るのです。ですから、お呼びしました」 「……何?」 「ピーノ、キノ。いらっしゃい」 ラウルスの問いには直接答えず、メイブはサティーを側近く呼ぶ。狂ったよう踊るサティーは息ひとつ切らしていない、目はきらきらと輝きを増したかのよう。 「……ピーノ、僕がわかる、よね?」 忍び込むアケルの声にピーノが高らかと笑った。それだけでおかしいとアケルは気づく。彼は常に忍びやかに笑っていたものを。 「うふふ、どうしたの、赤毛のお客様? わからないなんて、思ったりしちゃいやなの。こんなに会いたかったのに、ね?」 煌く目をしたまま、ピーノが側にぺたりと座り、アケルの腕に自らのそれを絡ませる。 「ずるいずるいのなの、だったらこっちのお客様はもらうのなの。ね、いいでしょ、王様のお客様? いやだなんていっても、聞いてあげないのなの」 くつくつと笑うキノに腕を取られ、さすがのラウルスも呆気にとられる。おかしいと、初めて気づいた。 「あなたのせいですよ、おかげ、と言うべきでしょうか。アルハイド王」 「なにがだ、女王! まず、彼らを何とかしてくれ、これでは話ができん!」 「そうは言いますけれど、ではこのサティーたちが精気なくぐったりと死んだようになってもかまわないと?」 「ちょっと待て、どうしてそういう話になる!」 「ですからあなたのせい、と言っています。正確には、あなたの持つ魔王の剣がサティーに精気を与えているのですよ、アルハイド王」 キノをなんとか引き剥がしたラウルスは女王の言葉に息を止めた。その間にまたキノが絡みついてくる。 「混沌の襲来。天の御使いの降臨。アルハイドの大地は揺らいでいます。目には見えない部分で。アクィリフェルならば聞こえていることでしょう」 「聖性と瘴気の、神々と悪魔が及ぼす力の均衡が揺らいでいる――そう聞こえます」 「そのとおりです。我々妖精族は、その均衡に人間より敏感です。ですが、サティーは別の形で苦痛を味わっています。天の御使いの降臨により、この地には聖性が以前よりあふれている。魔族のサティーは、つらいでしょうね」 メイブの溜息。確かにそれは自らが治める民への懸念と愛だった。だがしかし、二人は息をするのも忘れていた。メイブは確かに言った、サティーは魔族、と。 |