二人の緊張になど気づかずティリアは楽しげな笑い声を上げていた。メイブとの会見が楽しくてたまらないと。 「メイブ女王、お聞きになりましたか? このアケルの歌は本当に素晴らしかったのですけれど」 「アケル、ですか? なるほど――。えぇ、聞いたことがありますよ」 いまではなく、ここでもなく。メイブの声にアケルは冷や汗をかく。だがティリアは気づいた様子もなく鈴のように笑った。 「わたくしの婚儀で、弾いてくれましたの。まるで女神のように飾ってくれたわ」 「世界の歌い手がですが? えぇ、彼ならばそのようなことも可能でしょうね。お慶び申し上げますよ、ティリア女王」 ありがとう、とティリアが微笑んで頭を下げる。何事もないかのよう、メレザンドもそれに倣う。戦士と吟遊詩人はただひたすらに悪寒が止まらなかった。 「女王。話してくれる気があるのか?」 ぼそりとした苦い声。それなのにアケルは唖然とする。ラウルスの声の中に潜んだもの、興味。それだけではない、朗らかなもの。 いったいこの状況で彼は何を考えているのか。否、考えることができる余裕はどこから来るのか。 「アケル」 一言、名を呼んだだけ。ラウルスの声に答えを聞いた。いまこの瞬間、ラウルスは真実を口にのぼせることはできない。たとえ忘れられるのだとしても、ティリアとメレザンドがいる。説明を求められても解説しようがない事実。だからラウルスは名を呼ぶ。たった一言、その中に思考と感情のすべてをこめて。世界を歌う導き手ならばそれで理解が足るとばかりに。 「……えぇ」 実際アケルは理解してしまった。余裕があるわけでも楽しんでいるのでもないと。ラウルスの、王としての習性がいまの彼の態度を作っていると。わかってしまったからには、うなずかざるを得なかった。 「それで、女王?」 ティリアははじめて違和感に気づく。目の前の戦士のありようが不可解だった。一介の戦士が妖精の女王と対等に会話をしているこの不思議。 「この世界は不思議に満ちていると思いませんか、ティリア女王」 にこり、メイブが微笑んだ。それで、ティリアの問いは封じられたも同然。わずかに悔しくも思う。王冠を得たとはいえ、いまだ若い一人の女に過ぎない自分。長く続いたアルハイド王家歴代の王が、かつてただのひとりも妖精の女王の代替わりを知らないという。敵うはずもなかった。 「わたくしは羨ましく思いますよ、ティリア女王。あなたの持つ瑞々しさ、華やぐ生命、それらはわたくしにはないものですから」 不意にティリアは言葉を失った。なぜかはわからない。顔も姿も声音も違う。それなのにメイブに亡き母の姿を見た。そんな気がした。 「わたくしは遍く存在する命の母なるものの具現でもありますもの」 遠い母の声を聞いた気がした。信用していい、否、メイブを信じられなくて何を信じるというのか。そう問いかけてくるかの声を。 「ティリア女王!」 「あなた様はあなた様であるだけで素晴らしい。あなた様が心に描くのはいまは亡き王妃様ではなく、行方の知れないお父上様でもなく、あなた様ひとりを頼りと生きる人々のこと。ティリア女王、目を開いてください。世界はここにある」 ラウルスの呼び声、そしてアケルの語りかける言葉。語りかけられているのに、ティリアには音楽に聞こえた。 知らず閉じていた目を開く。メレザンドがいた。娘時代から愛してきた男がいた。窓の外へと目を向ければ。 「あぁ……世界はこんなにも美しいのですね」 呟き声。アケルはほっと息をつく。そして申し訳ないとばかりメイブに頭を下げた。 「女王、どうかここにいるのは人間だということをご理解ください。あなたの誘惑に耐え得るほど強くはないのです」 「迂闊でしたね、わたくしが。うっかりあなたがいるものですから。そうでしょう、世界の歌い手?」 それはもしかしたら再会を喜んだ言葉であったのかもしれない。ようやくアケルは気づいてラウルスを見やる。彼はこれ以上ない渋面だった。 「大概にしてもらおうか、女王。肝が冷えたぞ」 「失礼。あなたの――」 「女王。何か言いたいことがおありかな?」 ラウルスの目が、猛禽の色合いをした彼の目が正にそのとおり、獲物を見つけた猛禽のごとく輝く。メイブですら息を飲むほどに。 「お詫び申し上げましょう、鷲の方」 「詫びられたいんじゃない、気をつけてくれればそれでいいさ」 肩をすくめたラウルスに、アケルは緊張を解く。そして体に痛みを覚えるほど、強張っていたのを知った。 「さっきから同じことを繰り返している気がしなくもないですが、女王。なぜですか?」 自分たちに会いたいと望んだ理由。そして何よりなぜ彼女の記憶に自分たちがあるのか。アケルの刺々しい声にティリアが笑った。 「不思議ね、なぜかしら。あなたのその口調、とても懐かしい気がするの」 ひくり、アケルの肩が動く。ラウルスは息を飲み、メイブはただ微笑んでいた。ティリアは不自然なことを言ったつもりはないのだろう。だから礼を言って笑って頭を下げなければならない。アケルには体から、ぎしぎしと音が聞こえそうな気がした。 「ありがとう存じます、女王陛下。恐縮です」 「まぁ、ご丁寧に」 くすりと笑ったから、冗談なのだろう。アケルはいま、彼の耳をもってしても何も聞き取ることができないほど惑乱していた。 「場所を移しましょうか、鷲の方?」 アケルの戸惑いを見るに忍びない、そう思ってくれたのだろうか。メイブの提案にラウルスは一も二もなくうなずいていた。 「まぁ。わたくしたちを除け者になさるのね。メイブ女王」 「ごめんなさいね、ティリア女王。これはわたくしと鷲の方の約束なのよ」 「……約束なんぞした覚えは微塵もないんだがな」 ぼそりとしたラウルスの声にアケルは背筋が震えた。この素晴らしい緊張感のなさはいったい彼のどこから沸きあがってくるものなのだろう。呆気にとられるより感嘆する。 「お忘れですか、鷲の方。約束いたしましたよ」 「なにをだ、なにを」 「礼はいずれ取り立てる、そう申し上げたでしょう? いまこそお礼をしていただきたく思います」 艶然と笑う女王メイブ。飄々と受け流す戦士ラウルス。それなのに、アケルの目にはアウデンティース王がそこにいた。 「悪いな、アケル」 「いいえ? けっこう今更ですからね」 「まーな」 言いたいことを幾千万言飲み込んだならば彼のような声になる。そう思ってアケルは密やかに微笑んだ。微笑んで、やっと呼吸が整う。 「女王、どちらに?」 場所を移すのならばさっさとして欲しい。そんなアケルの要求をメイブは咎めなかった。それどころか小さく笑いさえした。 「けっこう、参りましょう。えぇ、もちろんわたくしの国にですよ」 「案の定ですね」 「……だな」 うなずきあう二人の流れ者を、女王夫妻は咎めない。かえって寂しげに見えるほど。なぜ、と考える間もなくティリアが口を開く。 「アケルにラウルス。メイブ女王の御用が済んだら、またおいでなさいね。楽しみにしています。そのときにはきっと、メイブ女王の歌も作っているのでしょうね。聞かせていただくのを楽しみにしていますよ」 女王としてのあるべき言葉。それなのに本音が聞こえていた。裏も表もない。まっすぐなティリアの言葉だった。 「ありがとう存じます、陛下。必ず御前に参ります」 すらりと立ち上がり、アケルは礼をした。その横で、ラウルスまで倣っているのをメイブが楽しげに見やっている。 「よろしいかしら?」 良いも悪いも言う暇もない。メイブが軽く片手を上げた。はっとするほど鮮やかな芦笛の音。くすくすとした笑い声。楽しげに踊る足音。 「おいでなさい」 メイブの声とともに。王宮の一室が異界の華やぎを帯びた。 「まぁ、可愛らしい」 ティリアの声がもう遠い。そこに現れた者にアケルは目を奪われていた。愛らしい子供の姿。獣の足。笑い踊るサティーたち。 「うふふ、お久しぶりなの。会いたかったの。ずうっと来てくれないんだもの、だから来ちゃったの、ね? 王様のお客様?」 くるり、まわって覗き込んでくるのはピーノ。 「いやん、ずっと会いに来てくれなかったのなの、寂しかったのなの。忘れちゃったの、赤毛のお客様?」 まとわりつくのに踊り狂うのはキノ。いずれ懐かしい顔だった。くるくるまわるサティーの足元。きらきら輝く輪ができる。 「参りますよ、お二方」 微笑んでメイブが輪に足踏み入れた。続こうとしてアケルは振り返る。 「必ずですよ、アケル。ラウルスも」 名残惜しげに見送るティリアがいた。メレザンドが少年のよう手を振っていた。無言で頭を下げる。他に、何も言えなかった。そしてアケルとラウルスは輪に踏み込む。 「うふふー。到着ぅ」 そして一歩を踏み出したとき。そこはすで王宮ではなく、人の世ですらなく。このアルハイドにありながら、別世界。人は言う、妖精郷と。 「やん、ピーノなんにもしてないのなの。ずるいのなの」 「したのしたの、ずるいのはキノだもん」 「二人とも、ご苦労でしたね」 きゃっきゃとじゃれあうサティーの手に何かを握らせる。ラウルスは甘い菓子だろうと見当をつけた。 「いかん。あまりにも普通じゃないことが起こりすぎて、なに見ても当たり前のような気がしてきたぞ」 「……あなたのその図太い神経を僕にも分けて欲しいです」 「やろうか?」 「どうやってですか! いい加減なこと言わないでください!」 怒鳴って怒鳴らされてアケルは息をつく。仕方のない人たちだと苦笑するメイブより、してやったりとばかり笑ったラウルスに腹が立ち、同じほど愛しかった。 |