しばらくは他愛ない話ばかりをしていた。王宮の居心地はどうかだの、思うままに楽器を奏でるというのはどんな気分なのかだの。 だからこそ、二人は悟る。ティリアには、本題があると。なにか用事があったからこそ、呼びつけたのだと。そして同時に不安にも思う。余人を排した理由は、と。 「ところで、婚儀の日のことを覚えていますか?」 ティリアがさりげなく言った。さてはじまったか、と身を硬くするアケルに比べ、ラウルスは悠然たるものだった。 「もちろんです。本当に素晴らしくお美しかった――。一生の宝です」 「まぁ、ありがとう。でもそのことではないのよ。わたくしの身に奇跡が起きた、と言われていますね?」 「えぇ、神々の恩寵が女王陛下の上にありますように」 殊勝に頭を下げて見せるアケルにラウルスは吹き出さない用心を。ここで笑ってしまってはあとがいくらなんでも恐ろしい。 「あの奇跡は、本当に神々の起こしたものなのでしょうか。あなた、ご存知なのではなくて?」 アケルは実に二呼吸分、確実に動きを止めた。唖然としたとも呆気にとられたとも違う。言うなればさすがティリアと。 「わたくしの耳には、楽の音が響きました。天上の音などではなく、この地上そのものの。まるでこの世界が歌い奏で、わたくしたちを祝福してくれているかのような」 うっとりと軽く目を閉じティリアは言った。戸惑ったふりをしてアケルはメレザンドを見やる。彼はゆったりと微笑んでいた。だからメレザンドにもそう聞こえていたのだと知る。 「あなただったのではなくて、アケル?」 「私は――、いえ。その」 「いいの、答えなくても。わたくしたちは、あなたの音楽だったと知っています。それで充分だわ。そうね、パセル?」 「えぇ、姫様の仰るとおり。あれは、君の祝福だった。他の誰が何を言おうとも、私たちはそう思っているよ」 戸惑いが深まったふりをして、ラウルスを見た。黙って笑みを刻んだ顔。それなのに、呼吸の響きに苦痛が滲む。同じほど、喜びが。忘れていても、聞き分けてくれた娘。夫となった男も彼女と同じものを共有してくれている事実。静かに息を吐き出せば、アケルの懸念の眼差し。 「そう言えば、あなた。名前を聞いていなかった気がするわ」 にこりとティリア女王が言う。この話はここまでだ、とでも言うように。言われてみてはじめてラウルスも名乗っていないことに気づいた。もっとも、役人には当然、告げてあるのだが。 「ラウルス、と」 カーソンならば懐かしげな目をした。ティリアならどうするか。彼女は驚いて息を飲み、半ば腰を浮かす。そしてそんな自分を恥じたのか、精一杯の女王の威厳を取り繕って笑みを浮かべた。 「……懐かしい名です」 「そうなのですか?」 「えぇ。わたくしの父が、ラウルスと言いました」 ティリアの目は、まるで目の前の男、一介の戦士に父の面影を見つけようとでも言うかのよう鋭かった。 「陛下のお父上はアウデンティース王では?」 ごく普通に知られた話として、ラウルスは言う。アケルはそんな彼の姿に思い出す。王の名など、普通は知らないものなのだと。かつての自分のように。 「アウデンティースは即位名です。個人名はラウルス、と言いました」 そしてティリアはそっと目を閉じる。アケルには聞こえた。彼女がいま何を思うのかが。混沌との決戦において、自分は人質にとられていた。そこから先の記憶がない。そして気づいたとき、父の姿はなかった。 「あの日。お父様は混沌に倒れられたのかもしれません。違うのかもしれません。もしかしたら、と思います」 「なにをですか、陛下」 ラウルスの声にアケルがそっと彼を睨んだ。尊称の発音に、昔の自分を見たのだろう。 「お父様には、愛する方がありました」 ラウルスを睨んだまま、アケルは動きを止めた。おかしい。すぐさま思う。自分と言う存在は、どこにも記憶されていないはずなのに。 「お父様は、王冠に付随する義務を何より大切になさっていた方。義務と恋人、秤にかけて選べない方。ですから、思うのです。お父様には三人の子がありました。わたくしと弟たち、立派に民を任せるに足る、そう思ってくださったのかもしれないと」 「それで……?」 「あの日、混沌に立ち向かったのはお父様一人ではありませんでしたもの。恋人とご一緒だったのだもの。戦い果てた後、もしかしたら二人でそっと姿を消してしまわれたのではないかしら。そんな風にも思うのよ」 死んだとは認めたくない。その思いが言わせる言葉ではあった。それをアケルは聞き分ける。だがその空想のなんと正確なことか。驚きに舌を巻くアケルをよそにラウルスは笑う。 「アウデンティース王に恋人が? 初耳です。寵姫がいらしたんですか? それにしても、戦いの場に女性を同伴するとは、中々すごいことをなさる王ですな」 からかいの声音の中にティリアは何を聞くのだろう。アケルには、驚くほど何も聞こえなかった。感情を排したラウルスの思いばかりが索漠と聞こえる。 「あら、寵姫ではなくてよ。赤毛も鮮やかな美しい方、でも男性よ。ですから、お父様とご一緒に戦ったのかもしれないわ」 アケルははじめてほっとした、忘れられていると言う事実に。今までは痛みばかりを呼び起こすものだったはずが。さすがに恋人の娘に真顔で語られては、身の置き所がなくなりそうだった。 同時に、ティリアも完全に覚えているわけではないのだと知る。むしろ、記憶の辻褄あわせ、と言うところなのかもしれない。王宮に滞在していた父の恋人の存在までを記憶からは消せなかったのか。だから彼女が覚えているのは禁断の山の狩人アクィリフェルではなく、よく知らない父の恋人。 それでいい。なぜかアケルはそう思う。これから彼女は新しい道を歩いていく。彼女の治世が続いていく。ならば、昔のことなどもう済んだことだと。ただ懐かしい思い出として、父とその恋人のことを覚えていてくれれば、それで充分だ、とアケルは思う。 「あなたが、お父様と同じ名だからかしら?」 「いかがなされました、女王陛下」 「不思議ね、あなたが陛下と口にするととても冷たい響きがするわ」 「これは不明の至り」 にやりと不遜に笑いラウルスは頭を下げるふりをする。ティリアは怒らないだろうと思ってしたこと。案の定ティリアは笑っていた。 「お父様と同じ名だから、呼ぶように言われたのかしら、と思っていたのよ」 アケルは気づく。これが本題だと。いままでの長い話は単なる雑談。すう、とラウルスの目が細められた。 「女王陛下。なんのお話ですか」 気配を変えた男にメレザンドが驚いた顔をした。あるいは女王に危険が、と思ったのかもしれない、アケルはそう感じたものの、すぐさま勘違いだと気づく。純粋に、驚いていた。 「ご存知かしら? アルハイド王家は古くから妖精の女王とお付き合いがあります。あなたがた、妖精をご存知?」 「それは、まぁ。知らなくはない、と言うところですが」 ここで完全に否定はできなかった。いやな予感がひしひしとしていた、ラウルスは。ちらりとアケルを見ればうなずいている。 「でしたら、だからなのかしら? わたくしにもわからないのだけれど。実はあなたがたを王宮に招いたのはわたくしの意思ではありません」 ごめんなさいね、とでも言うようティリアは頭を下げて見せた。同じよう、メレザンドも礼をしている。驚いたのは、二人こそだった。君主にそれをされてしまっては、なにもできない。 「――女王陛下、どうぞ頭を上げてください。私たちは陛下の前で演奏ができたことを感謝しこそすれ、詫びられるなど!」 一瞬のアケルの言葉の乱れはラウルスだけが聞いた。彼は言いかけたのだ、姫様と。以前のようにそう呼びかけそうになったのだと、ラウルスだけが気づいた。 「そう言ってもらえると、嬉しいけれど。謀ったことはやはり、詫びたいと思います。ごめんなさいね。でも、あなたの演奏は本当に素晴らしかったわ」 「こちらこそ感謝申し上げます」 「――それで。女王陛下。妖精の女王、と言うのは?」 互いにいつまでも詫びたり感謝したりしていそうな二人にラウルスがそっと口を挟む。メレザンドがわずかに目をむいた。自分がしようとしていたことを一介の戦士がした。女王の呼吸をいつ彼は掴んだのか、と。だが不快そうな顔ではなかった。 「妖精の女王が、あなたがたを見たのでしょう。それで――」 呼ぶように言った、と言いかけたのだろうと想像する。が、言葉は途切れた。どこからともなく芦笛の音。アウデンティースにはいやになるほど聞き覚えがある音。 「えぇ、それでお会いしたいと言ったのですよ、わたくしが」 そこに妖精の女王メイブが立っていた。艶然として、清純な乙女のような笑み。ありえない二面性でありながら、同居する。アケルは知らず芦笛の音に合わせるよう、リュートを爪弾く。 「久しいですね、世界の歌い手」 にっこりと女王メイブは笑った。礼を返そうとして、アケルは愕然とする。なぜ彼女は。 「そして、あなたはなんとお呼びしましょうか? 鷲のお方? 鷲にちなんでアクィラと呼びましょうか」 「よしてくれ、紛らわしい」 「えぇ、確かに紛らわしくもありますね」 手を振って退けてから、ラウルスも気づいた。いったい彼女は何と何が紛らわしいと知っている。ラウルスは言った。アケルの本名、アクィリフェルと紛らわしいと。だがその名を知っている者はこの世で自分たちだけ。そのはず。だが。 「やはりこの二人をご存知でしたの、メイブ女王?」 「えぇ、こちらの……鷲の方とは実に古い馴染みですよ、ティリア女王」 笑顔で言葉を交わす二人の女王に、アケルは眩暈がした。できることならば今すぐこの場で叫び出したい。いったい何がどうなっていると問い質したい。 「色々と疑問があるようですね、世界の歌い手」 ちらりとメイブの眼差しがこちらを向いたのにアケルはうなずく。いま口を開けば本当に叫んでしまう。それを知ってか知らずかメイブは実に楽しげにころころと笑い声を上げた。ラウルスは気づく。その声の響きに釣鐘草の音色がないことに。ならば、少なくとも敵意はない、そう思っていいのかもしれないと。 |