ラウルスは不機嫌だった。原因は婚儀の奇跡にある。あの一瞬、アケルが奏でた歌による幻視。何より美しく、誰より幸福そうだったティリアの姿。 「あれが、神々の奇跡だってのが、納得がいかん」 与えられた室内でうろうろと、行ったり来たりを繰り返すのだからアケルのほうこそ苛々とする。いままで手遊びに爪弾いていたリュートの弦をぱしりと弾く。驚いたよう、ラウルスが立ち止まった。 「いい加減にしてください!」 リュートの胴まで叩きかねない有様で、ラウルスはうっかりと気圧されてしまった。そんな自分に苦笑が浮かび、どれほど腹立たしい思いを抱えていたのか自ら知る。 「だがな、アケル――」 「ラウルス! 重要なことはなんですか!」 「なにって……」 叩きつけられた言葉にしばし戸惑い、そして溜息をつく。ゆっくりと天井を仰いでもう一度溜息を。これでどれほど納得のいかない思いでいるのか、彼にはわかってもらえるだろう。 「大事なことは、姫様が幸せである、それだけじゃないんですか。それとも違うんですか。違うなんて言ったら、その場で今すぐきっぱりと別れてやる!」 「おい、アケル」 「……なにを笑ってるんですか!」 たしなめたつもりの顔はにやにやと笑っていて、自分でそれに気づいてしまったものだからラウルスの笑みは更に深くなる。険しい顔のアケルも思わずつられたよう、口許が緩んでいた。 「だってなぁ? お前がそういうこと言うのは実に珍しいからな」 睦言を決して言わない、とまでは言わないが彼の場合、睦言は常に怒声を伴っていて、そうでないときはひどく自分が落ち込んででもいるとき。だからこそいまの発言は充分に睦言として通用する。 「あなたって人は!」 「別にからかってはいないぞ?」 「どこがですか、どこが!」 「どこ、と言われてもなぁ。まぁ、全面的に、だな」 調子のいいだけの言葉。それなのに声には真実がある。器用と言うより無茶苦茶だ、とアケルは思って溜息をついた。あるいはそれが和解の合図。 「だからな、アケル。俺が納得が行かない理由、ちゃんと聞くか?」 「……拝聴いたしますよ」 むつりと言って、再びアケルはリュートを爪弾き始める。遊びなのか必要に迫られてなのか、ラウルスに区別はつかない。ただ、楽しそうだなとは思った。 「なぜだ? お前が歌うのを聞いていたはず。リュートを弾くのを見ていたはず。それなのにどこでどうして神々なんて話になる?」 ラウルスにとって、否、アウデンティースにとって神々は遺恨のある相手。最愛のアケルのしたことが神々の手柄と言われてしまっては、腹が立つのも当然かもしれない。 「辻褄あわせってものじゃないですか?」 「なんだ、それは」 「僕だってわかりませんよ! ただ、僕らは記憶に残らない。だったら最初から神々のしたこと、と思ってたほうが都合がいいかなって」 想像の根拠を語れば、ラウルスが鼻を鳴らした。納得してもらえると思って話したことではないだけにアケルとしても続く言葉がなかった。 「本当に、気に食わん。なんとかならんのか。せめて、歌だけでも。俺たちが忘れられる。それはアルハイドを救った代償として納得しよう。だがな、アケル。お前の歌はどうなんだ? なぜ歌まで忘れられる?」 ラウルスの言葉にアケルは微笑んだ。黙ってただ微笑んだ。それほどまでに買ってくれている音。世界を救う音など、ラウルスにとってはもしかしたら二の次なのかもしれない。彼にとって素晴らしい、この上もない音楽がここにある。それなのに、忘れられる。手柄がどうのなど、実のところ関係はないのかもしれなかった。 「僕は、あなたが聞いてくれる。それだけで充分ですよ」 「だが――」 「ラウルス。聞きますか?」 つい、と手があがり、リュートの弦に添えられた。甘い微笑にアケルが隠したものはなんだろうか。やはり、聞いて欲しいのかもしれないとラウルスは思う。できることならば、覚えていて欲しいと願うのかもしれない。 だが吟遊詩人ではない。だから、アケルの望みは歌を覚えていてもらうこととは似て非なるもの。ラウルスはそこまで思い、心を引き締める。 「あぁ、頼む」 にこり、アケルが微笑んだ。アケルの望み。それはこの世界を記憶していてもらうこと。美しく、そして同じほどに醜いこの世界のありのままを歌い、その歌をできれば覚えていて欲しい。彼はそう願うのだろう。 混沌に痛めつけられひび割れ歪んだ世界。それを復興しようと立ち働く明日を臨む人々の眼差し。希望などと言う生ぬるいものではなく、それ以上であり、別のものでもある。 アケルが歌うのは、そんな世界だった。奏でるのは、人の心とよく似て違う、この世界だった。どれほど奏でても奏でても忘れられていく、アケルの歌だった。 「……ほんの少し、残っていればいい。そう思いますよ。欠片でいい。いつかどこかで僕の歌が甦ることがあるかもしれない。僕の歌とは知らず、この世界の在り様として。僕には――世界の代弁者としてこの世を歌う僕には、それで充分です」 語っているようで、それすらもが歌だった。ラウルスはじっと耳を傾け続ける。ラウルスはアケルではない。彼のよう、何者をも聞き取る耳を持ってはいない。けれど、アケルの音ならば理解ができる。そうも思う。 「お前は――」 何を言うべきか、わからない。それでいて、その瞬間にすべてが明らかだった。不意にアケルと視線が絡み合う。それでいいとばかり、アケルは口許に笑みを浮かべていた。 「それでも――」 奇跡のどうのは納得が行かない。言い募ろうとしたラウルスの声が止まった。アケルの耳を持っていなくとも、戦士としての勘は扉の前の何者かを捉える。そしてそれは間違いではなかった。控えめに侍従の到来が告げられた。 それより先、侍従が扉を開ける前にアケルは小声で歌っている。ラウルスが腰に下げた剣を隠すように。隠す、というよりは認識できなくする、のほうが正しいかもしれない。手放すわけにはいかない剣。だが帯剣したまま女王の御前に出ることができるはずもないのもまた事実。致し方ない場合にアケルがとる、通常の手段だった。 「女王陛下と王配殿下がお茶にお招きしたいとの仰せです」 礼儀に適った姿勢で侍従が頭を下げる。その侍従の態度にラウルスは内心でそっと微笑む。ティリアが使う人間らしい、とつくづく思った。 「ありがたくお受けいたします」 吟遊詩人の一礼に、ラウルスは目許だけに笑みを浮かべる。余人ならば気づかないそれであっても、アケルは気づいた。わずかに睨んでくるのに、ラウルスは視線を流す。そちらに侍従がいるぞ、とばかりに。 「ではこちらにおいでください」 穏やかな声音ながら毅然とした態度の侍従に、ティリアの統治者としての気質を見た思いだった。いい国になるのかもしれない、ふとラウルスは思う。 「もしかして――」 ぽつり、アケルが言いそして言葉を切る。侍従の耳をはばかった声。だからこそラウルスにも彼の言いたいことがわかった。 「いや、それはないだろう」 「そう言い切れますか?」 「期待はしないことにしているよ」 侍従には、褒賞のことで噂をしている、とでも聞こえたことだろう。だが、違った。二人の懸念。あるいは期待。それは表裏一体となって二人の頭上にわだかまっていた。 新婚の女王夫妻のみが、茶の時間に招いてくれたこと。他人を交えず何を話したいと女王は望むのか。 そう思ったとき、浮かぶのはただひとつ。かつての王宮。ハイドリンにあり歴代アルハイド王が住み暮らした城の威容。その城で行われた混沌との決戦。巻き込まれたティリア。そして記憶をなくしたティリア。呪われた、二人。 「そう、ですよね……」 いまだかつて二人を覚えていた人はいない。もしかしたらティリアならば。期待はしてしまう。 「過度な期待は、身を滅ぼすぞ」 「なんですか、それは」 「こうしてくれるかもしれない、こう思ってくれるかもしれない。そんなのは所詮、幻想だ。他人に求めるのが、間違っている。ありえない期待をするから、憎んだり恨んだりもする。違うか?」 「全面的に違う、とは言いにくいですね」 「なら、部分的には?」 反論があるのならば承ろう。ラウルスの声はそう言う。けれど仕種が別の音を響かせていた。アケルはそっと笑い、上目遣いに彼を見上げる。 「僕のことも理解なんかできない――って思ってるんですか、と責めるところなんでしょうけど」 言葉を切り、アケルは侍従の背中を見つめていた。そうでもしていないと吹き出してしまうと言いたげに。 「あんまり期待されると、ちょっと怒鳴りにくいんですよね」 「おい」 「そんな変態的な趣味に付き合うつもり、ないですから」 にっこりとアケルはラウルスを見てあでやかに笑った。ラウルスは見抜かれていたか、と肩をすくめて答えない。 そんな二人を導く侍従はさすがに立派なものだった。二人の他愛ない口論にも動じずひたすらに前を見たまま案内を続ける。その足が緩んだのだから、たぶんついたのだった。 「こちらでございます」 扉を大きく開け放てば、本当に女王夫妻だけが席についていた。笑顔で、例えて言うのならば庶民階級の家に、親戚が訪れたかのようなもてなしの表情。 「お招きに預かり――」 礼儀正しい一礼をティリアは止めはしなかった。それでも目の色に浮かんだもの。必要ない、心安いのだから。そんな淡い色だった。 「どうぞ、お茶はいかがかしら?」 言いつつティリアがポットを取る。アケルはそのことに驚いていた。ここには主客四人がいるばかり。ならば茶菓の仕度はどうするのか。 思い悩む暇などなかった。手早くティリアが焼きたての菓子を皿に綺麗に盛り付けなおす。配置が気に入らなかったのだろう。そしてメレザンドこそが驚きだった。 「僕がいたします、殿下はどうぞ」 有力な貴族であったメレザンドは殿下の称号を得て王家の一人として名を連ねることとなっていた。そのメレザンドが、茶の支度をしていた。 「気にしなくていいよ、好きですることだからね。姫様のくつろぎの時間だから」 言ったメレザンドにティリアが唇を尖らせて見せる。子供っぽい態度。ラウルスには見覚えのある仕種だった。かつては父にだけ見せていたその顔を、ティリアは夫にも見せることにしたのか、と。温かいようなくすぐったいような、それでいて寂しくもある心持ちになるのが新鮮だった。 |