冗談のようだった。本当に、ティリア女王は初対面の一庶民、どころか流れ者の吟遊詩人を婚儀の吟遊詩人に指名した。 「いいんですか、本当に?」 アケルは婚儀を影からそっと見守っていた。当然、側には護衛するようラウルスがつく。 「いいんじゃないのか?」 「だって僕の歌、忘れられますよ?」 それも、経験してきたことだった。誰が聞いても初めての歌。何度となく同じ場所で歌っても、初めての歌。二人にかかった呪詛。 「少しは……残ってるさ」 歌の名残のその欠片くらいは。人の心に響いて残る。ラウルスはそう言うけれど、アケルとしては気が気ではない。 婚儀の吟遊詩人は儀式に花を添えるのが役目ではない。どのような儀式が行われ、どのような祝福を受け、いかにして女王が結ばれたか。それを歌として記録することこそが役目。 「そもそも、あっち見てみな。記録官はちゃんといる」 二人がいるのとは反対の場所に、官吏がいた。手元に急いで書き付け、手が疲れたころには別の人間と交代する。 「それなら、いいですけど」 ぼそりと呟いて、アケルは儀式に目を戻す。見たかった。見たくはなかった。ティリアの美しい幸福の姿。アクィリフェルとして祝福できたならば、どれほど嬉しかったことだろう。 けれどここにいるのはアケルと言う吟遊詩人。そして父ではなく、ラウルスがいる。手も届かない娘の姿をラウルスに見せている、その事実にアケルはいまでもまだ悩んでいた。 「ありがたいよ、本当に」 「でも――」 「目にすることすらないと思ってた。見られるだけで、嬉しい」 曖昧な言葉。だからこそラウルスの心に響くものがわかってしまう。 「あぁ、本当に綺麗だな」 儀式にぱっと熱気が広がった。王宮の程近くの神殿だった、ここは。神々の祭壇の前、花婿たるメレザンドが待っている。緊張を隠せず、けれど目を輝かせ。そこに現れた花嫁は正に光だった。 若い女性の持つ溌剌とした華やぎ、そして愛する男の手をとる喜び。そして一瞬の影。ティリアを花婿の元まで導いていたのは、父ではなく。 「カーソンか」 いい選択だ、とでも言うようラウルスが満足げにうなずいた。自分が列席できないのならば、ティリアが父代わりに選ぶ人材としては上等だとばかりに。 儀式の前、二人は自らの予想の結果を目の当たりにしていた。別れたばかりだったカーソン。二人とは繋がりも多く、そして戦士であるラウルスを気に入っていたカーソン。それでも彼は二人がわからなかった。 「……本当は」 アケルが呟いた声。彼の声ではなく、自分の声の代弁だとラウルスは気づく。漏れ出てしまった言葉に驚いたよう、アケルがうつむいた。 「あぁ、そうだな。本当は、少し、いや、かなり羨ましいな」 本音を言えば、心に残る淀みが薄れた。妻亡き後、誰よりも慈しんできた娘だった。 「ここで僕は嫉妬のひとつもするべきなんでしょうけどね。姫様があんまり綺麗なんで、いまは止めておきますよ」 「……そうしてくれると助かるな」 冗談交じりの本音にラウルスが肩をすくめた。こうやって、受け入れていく。受け流していく。悪魔は言った。なすべきことをなすまで死は訪れない、と。それまでの時間が長いのか、それとも短いのか。いずれにせよ、こうしてすごして行くのだけが確かだった。 そのことを苦痛に思わないと言えば嘘になる。楽しいかと問われれば、諾と答える。どちらも嘘でどちらも本当。 「僕ららしいと、思いませんか?」 アウデンティースでありラウルスである彼と、アクィリフェルでありアケルである自分。そもそもが二面性を秘めていたものならば、こうなるのも当然だとアケルは嘯いて、笑った。 「まぁな」 笑われて、どれほど心が軽くなるものかラウルスは知る。この自分でしかありえない。けれどこの自分でいいと言ってくれる人が側にいる。これほどありがたいことはない、そう思う。 「あ――」 カーソンに導かれたティリアの花嫁衣裳。顔の前、まるで霞のようにかかった繊細なベールをメレザンドがそっと持ち上げた。 「目をそらしてもいいか?」 「だめに決まってるじゃないですか。ちゃんと見るのも義務ですよ」 父として。ここまで育て上げた娘の門出に。言われなかった言葉にラウルスは喉の奥でうなる。幸い、誓いのくちづけは上品なものだった。ほっと息をつくのをアケルが隣で小さく笑った。 「女王陛下の父君に成り代わりこのカーソン、花婿に一言申し上げる」 さすがアルハイド全軍を指揮した将軍だった。神殿の中がびりびりと震えるほどの声。 「カーソンも緊張しているらしいな」 くすりと笑い、ラウルスは彼らを見つめる。そしていま笑った自分に、驚いた。楽しげな、幸福そうな笑い声だった。たとえ小さなものだったとしても。 「謹んで承りましょう」 ティリアの手をとったまま、メレザンドは微笑んだ。悪くないな、とラウルスは思う。元々あの娘に相応しい男と思っていたのだ。実現してみればやはり、素直に嬉しいと思える。 「……娘を頼む」 小声だった。そのはずだった。それなのに、神殿中に響く大音声。蒼白になったラウルスの袖をアケルがとった。 「あなたじゃないです」 言われて、ようやく理解する。今のはカーソンの声だったかと。 「同じこと、言ってましたね。さすがだな」 アウデンティース王の股肱の臣だった人だから。アケルの微笑に迂闊にも目が潤みそうでラウルスはそっぽを向いた。 「行きますよ、馬車まで先回りします」 そんな彼の手を、珍しくアケルからとった。繋がれた手の温かさにまた喉が詰まりそうになってラウルスは無言でアケルの横を歩く。まるで彼らこそが幸福な新婚夫婦ででもあるかのように、手を取り合いつつ。 「いま、笑いませんでしたか?」 「自分の想像がおかしくて、つい」 「……いい加減、僕の耳がどういう作りになってるか、あなたは理解したほうがいいですよ!」 辺りをはばかって小声ではあった。が押し殺された怒鳴り声に危うくラウルスは吹き出しかける。否、笑い声はこぼれてしまった。 「もう、知りません!」 勢いよく言い、アケルは手を振りほどく。だがすぐさまラウルスはその手を繋ぎなおした。 「いいだろ?」 「悪いなんて言ってませんけど?」 「嫌がったような……」 呟けば、それこそ何か言ったかといわんばかりに睨まれた。くつくつと笑いラウルスは歩いていく。神殿前は一目、女王の花嫁姿を見ようと押しかけた民衆でいっぱいだった。横手から出てきた二人はその熱気に当てられて一瞬立ち尽くす。 「素晴らしい、陛下なんですね」 これほど民に愛されている。若い女王として立ちながら、立派にこの地を治めている。 「領地経営は苦手だと思ってたんだがな」 かつて言った。きちんと領地を見てご覧、と。彼女は答えた。ちゃんとしているわ、と。本当だったのか、とラウルスは苦笑する。 「意外と子供の事ってのはわからないものだな」 「そう言うものなんじゃないですか? 親子だなんだって言わなくっても、人間同士で完全な相互理解なんて、難しいものじゃないですか」 「……いまお前、なんか怒ってるよな?」 「怒ってません!」 さすがにそれは嘘だろう、とラウルスは思う。だから繋いでいた手を離した。すぐさま指を絡めて繋ぎなおす。どことなくほっとした気配。 「……妬いたか、アケル?」 「だから、僕がどうして! 姫様相手に妬くんですか!」 「いや、そっちじゃなくてな」 「……あなたが言うと洒落にならないんです! 僕が冗談にするならともかく、あなたは言わないでください!」 これを真顔で言われたならばラウルスとて考えを改める。だがアケルは心から笑っていた。作られたものではなく、本当にただの冗談としてこれを言った。 「それはそれでどうかと思うがな」 「なにか言いましたか?」 「いいや? ほれ、きたぞ」 追及されるより先ラウルスは話題を変えた。ラウルスが指し示した先、神殿の正面から花嫁花婿が現れた。 「……切ないな」 ぽつり、ラウルスが呟いた。これから二人は王宮まで、民の祝福と歓呼に応えて馬車で進む。その馬車の寂しさ。 六頭立てでもまだ寂しいほどなのに、たった二頭の馬が繋がれているだけ。無蓋の馬車はよく磨かれた木目こそ美しいものの金箔は一片すらない。彩りもない。花嫁衣裳だとて、そうだった。どこまでも華麗に装うことが可能であるはずなのに、質素と言っていいほど単純な衣装だった。宝石など、ひとつもついていないに違いない。 「どんな衣装が望みでしたか」 民のためだった。復興を第一に考えるべき女王として、自分の身の回りのことなど二の次三の次。だからこそのあの姿。 「夜空の星のすべてを飾ってやりたかったよ。この世に咲く花のすべてで飾ってやりたかったよ」 簡素な衣装をまとっていても美しい娘だった。それでもあたう限りで送り出してやりたいと願うのは親だから。 「姫様に絢爛豪華は似合わないと思いますけどね」 小さく笑いつつ、アケルがリュートを爪弾いた。その瞬間。すべての人が幻視した。鮮やかに着飾ったティリア女王を。眩いばかりに輝くその人を。夜空の星々この世の花々が女王を祝福するかのよう輝くのを。 「アケル……」 小さな声でアケルが歌っていた。本来あるべきであった王家の娘の婚儀を、彼は歌っていた。あるいはそれはシャルマークの民の希望。光り輝く女王に導かれ、この先必ず復興を遂げるとの民の希望。 けれどラウルスは思う。確かにそれも間違いではない。けれどこれは。 「優しい男だよ、お前は」 ティリアに寄せる彼の思い。精一杯の祝福。そしてラウルスへの。恋ではなく、愛ですらなく。名付けることのできない思いへの、彼の歌だった。 |