声の持ち主を、アケルは呆然と見上げていた。リュートを持つ手すら危ういほど震える。背中を守るよう佇んだラウルスがぼそりと呟いた。 「……育て方を間違ったかな?」 まったくもって同意したくてたまらないアケルだった。声の持ち主。ティリア女王だった。このようなところにいるはずもない高貴の人。なぜこんなところに。 「女王陛下である」 付き従う侍従が重々しく言うより先、周囲の人々のほうが先に気づいたと見え、あちらこちらで女王様だ、ティリア様だと声が上がっていた。 「素晴らしい音楽でした。名は?」 「は――」 名乗っていいものか、と言うより名乗ることに問題はないはず。カーソンだとて気づかなかった、忘れられた名前。 問題は、そこではないとアケルは思う。どうしてこんな、庶民が集う広場に、たとえ王城前の広場とは言え、女王がいるのか。混乱して言葉が出なかった。 「吟遊詩人、名は」 幸い、侍従が促してくれた。そもそも女王に直答する、と言うのが間違っているのだ。ラウルスが背後で苦笑している気配がした。 「――アケル、と申します」 名乗った途端だった。ティリアの顔が輝く。乙女のように愛らしく胸の前で手を打ち鳴らし、目をきらきらとさせていた。 「まぁ。ぴったりだわ。ご覧になったら、パセル? この見事な紅葉のような赤毛。本当に、燃えるようだもの」 慌てて飛んできたのだろうか、メレザンドが現れた。アケルは慌ててきた、と思ったがラウルスは違う。悠揚迫らざる足取りは、ティリアの散歩に慣れたものに違いない。 「……まったく」 王家の人間は民に親しむべし。それはアルハイド王家の家訓とも言える。だが婚儀を控えた花嫁がふらふらと出歩く、と言うのはいかがなものか。父としてはメレザンドによろしく頼むと頭のひとつも下げなくてはならない気がしてきた。 「えぇ、本当に素晴らしいですね」 侍従がつ、と下がってメレザンドに場所を譲る。当たり前の顔をしてティリアの横に立つメレザンドは一別以来、落ち着きを増していた。 「どうかしら?」 まるでその一言で伝わるとでも言うような言葉。アケルはそっとうつむいて笑みを噛み殺す。父と娘の相似に浮かんでしまった笑みを。 「えぇ、姫様の良いように」 「姫様はよしてちょうだい、わたくしは――」 「偉大な父君の跡を継がれた立派な女王陛下であらせられますよ、姫様」 にこりとするメレザンドだった。人前で君主をからかうな、と言うべきかそれとも強くなったと褒めるべきか迷ってラウルスは空に視線を流す。いずれ、何一つ言えない身だった。 「アケルでしたね。王宮に招きたいと思います。あなたがよろしかったら、ですけど。いかが?」 「王宮に、ですか」 驚いて声を上げたアケルに女王もメレザンドも微笑むばかり。咎められても当然のところをそうしないのはさすがアウデンティースの娘。思ったところで正気づく。 「お心ありがたく。ですが、連れがおりますので――」 「あら、そちらの戦士さんかしら? 護衛をつれた吟遊詩人、と言うのは珍しいのではないかしら」 「その……護衛、ではなく」 ぽ、と赤らんだアケルの頬にティリアは声を上げて笑った。貶めるのではなく、純粋な喜びの声。これでは怒るに怒れない。 以前も、そうだった。さんざんに言われ、手出しをされ、怒り狂ってもいいはずなのに、どこか気が抜けてしまう。気づけば、彼女に信頼と言う名の心を寄せている。ティリアは、そういう女性だった。 「では二人とも招きましょう」 女王にそこまで言われては一介の流れ者。断れるはずもない。一応それらしく歓喜の表情を浮かべて見せるものの、アケルは浮かなかった。 「では、こちらに」 女王が、皆さんの楽しみを奪ってしまったかしら、などと庶民に話しかけている声を後ろに侍従が二人を導いた。 いい声といい歌だった、ぜひ婚儀の吟遊詩人に、と民が喜び勇んでティリアに薦めている。ラウルスは、そっと気づけば握っていた手を開く。 「――悪くないな」 ぽつりと呟いた声にこめられた意味はアケルにだけ、伝わる。忘れられてしまった娘だけれど、幸福の姿。あれは婚儀を控えた花嫁ではなく、民を気遣う女王の姿。 「さすがですね」 あなたの娘だ。言外に言えばラウルスが顰め面をした。他意はないのに、と思えばアケルは知らず笑ってしまう。 「別に僕は亡き方のことをどうこう言ったつもりはないんですけどね」 侍従に案内されたのは、どう考えても来賓用の客室。召使の棟に通されるものと思い込んでいたラウルスは呆気にとられる。 「まぁ、誤解だってのはわかっちゃいるがな」 「別にあなたと亡き方の間に生まれた最愛のお嬢様、だなんて言ってないじゃないですか」 「いま言ってるだろうが、今!」 「物の喩えって言葉を知らないんですか、あなたは! 僕はそうは言ってはいないって言ってるんです。あなたの娘だなぁって感心して、賛嘆して、感動して! 本当に……なんて方だろう」 最後は呆然とした声だった。ラウルス同様、色々と思うところがありすぎて、どこに驚けばいいものかアケルにもわからないらしい。 「まず、どこだ?」 「どうしてふらふらしてるんですか。危ないじゃないですか」 「だよな」 いくら民に愛される君主であろうとも、どこにでも危険な人物、と言うのはいる。庶民にも、貴族にも。人混みの中を護衛もつけず侍従だけを連れに出歩くなど常軌を逸している。少なくとも、アケルはそう思う。 「まぁ、実のところ俺もそう思ったがな」 「違うんですか? 僕の目から隠れられる護衛がいたとも思えませんけど」 いまでこそ吟遊詩人。だが彼は訓練を積んだ熟練の狩人。それも人をも狩る、禁断の山の狩人。アケルの言葉を疑うことなどそれこそありえず、ラウルスは苦笑して首を振る。 「そうじゃない。あれは、危険は覚悟で出歩いてるのさ」 まだまだ混沌の恐怖の去らない民の間に自らを晒すことで幾許なりとも不安をなだめようと。笑顔で、祝祭の気分を盛り上げ、自分は民とともにある、そう示すティリア。ラウルスには、それがわかる。自らの手で育てた娘なのだから。一時は最も王冠に近いと誰にも言わしめた王女なのだから。 「それにしても……危ないですよ、本当に」 「ありがとうな、アケル」 「……な、なにがですか!」 「いや、俺の娘を案じてくれる今の恋人ってのは中々に貴重だと思ってな」 にやりと笑えば、アケルがクッションを投げつけてきた。そしてどれほど高価なものだったのか、そもそも王宮の備品だということを思い出して青くなるアケルにラウルスは声を上げて笑う。 「お前がいてくれて、俺は幸せだな」 娘がいなくとも。誰もいなくとも。ラウルスの声にあった意味にアケルは顔を顰める。 「僕は――」 「俺は、諦めてたよ、アケル。あれの花嫁姿なんざァ見られないもんだと思ってた。お前のおかげで、近くで拝めるかもな?」 近いだけ。花嫁の手を取って花婿に渡すことはない父。それでも、ラウルスは充分だと思う。娘の幸福をこの目で近々と確かめられた。それで充分だと。 「……ところで。おかしくないですか、ラウルス?」 「ん、何がだ?」 「僕らは姫様と会ってますよ?」 「それはそうだが――」 ふ、とラウルスの声が途切れて考え込む。真剣な表情にアケルは苦笑する。どことなくアウデンティースを思わせる顔。かつて、あれほど嫌った王だと言うのにいまは好ましいと思う事実。 「崩壊した、ハイドリンの城で――会ってるよな?」 「えぇ、そうです。僕らが呪詛を実感した瞬間でしたから」 「そうだった。確かに、会ってる……。なぜだ?」 「よく考えたら、吟遊詩人とその連れの戦士に再会した人って、いないんですよね」 「……ん?」 「ですからね、ラウルス。この呪詛は僕らそのものに働くのであって、アウデンティース王とアクィリフェルに働いてるわけじゃないんじゃないかと思うんです」 「王と狩人を忘れた、んじゃなく俺たちの存在そのものが忘れられるってこと、か。いや……それであってるな」 「そうですか?」 「実際、村人なんかは再会してるぞ。あのときも覚えてなかった」 旅のあいだ、手助けをしてきた人々。どれほど力を尽くそうと、別れた一瞬後に二人は忘れられている。 わかっていたことではないか、とラウルスは思う。いまここでアケルが何を言おうとしているのか。不意に気づいて微笑んだ。 「……そうか」 娘だった。ティリアだった。彼女の心に父がいないはずがない。ハイドリンの城で一度はまみえた父と娘。それでもなお、彼女は父を覚えてはいないのか。 アケルは、期待していたのかもしれない。願っていたのかもしれない。覚えていて欲しいと。自分のためではなく、ラウルスのために。 「お前の赤毛くらいは、覚えていてもよさそうなもんだけどな?」 「特徴的ですしね」 一房つまんでアケルは笑う。まるでそれは覚えていられなかったティリアを責めてはくれるなと言ってでもいるようだった。 彼の心の鮮やかさに救われた。そんな気がしてラウルスは笑って手を伸ばす。腕の中にすっぽりと納まるアケルの赤毛に顔を埋めれば、胸の中から笑い声。 「なんだよ?」 「実は、父娘そろって赤毛が好み、なんてことはないですよね?」 「……ない、はずだがな」 「あなたも赤毛が好みなわけじゃないって、確か姫様に伺ったんだっけな」 悪戯のように言うアケルにラウルスは返すべき言葉がみつからなかった。亡き王妃は確かに赤毛ではなかったし、アケルに会うまで彼女を愛し続けていたのも事実。 「……ラウルス。黙ると冗談になりませんから!」 「わかりにくい冗談を言うな!」 怒鳴ってくれてほっとした。ほっとしたことで気づく。やはりティリアの姿を目にし、そして王宮にまで招かれた事件とも言い得る事態に緊張しているのだと。 |