シャルマークの王都シーラ。王城前の最も華やかな広場は祝祭の熱気に沸いていた。否、それだけではない。現に屋台を見るがいい。手持ち無沙汰な店主が一点を見つめている。大道芸人を見るがいい。芸も忘れて一点を見ている。
 音が流れていた。甘く悲しく、柔らかな音色。男のものにしては澄んだ歌声。豊かで、たとえようもない楽の色。アケルだった。
 二人は結局、カーソンの言葉に従った形になった。もっとも、ラウルスとしてはそのつもりはなかっただろう。
 メディナを出て旅を続けたのは当然。道々、ラウルスの勘やアケルの耳、あるいは神殿の跡地など、聖性がある、あるいは混沌が集まり得ると思しき場所へと赴いてきた。空振りであったり、すでに混沌の害があったり。
 そうしてこのまま大陸中をまた経巡るのだ、とラウルスは思っていたのだ。だが、アケルは。彼の足は確信を持って進んでいく。
「どこか、当てはあるのか?」
 不思議そうに言うラウルスに、アケルは憤然と言ったものだった。
「当たり前じゃないですか。僕はシーラに向かってるんです!」
 何か悪いか、と言わんばかりの表情に、ラウルスは困り顔を作って見せた。本心は、違う。シーラへの旅は、ラウルスの望みでもあった。だがこの時に自らを優先するなど、とても。
「僕は姫様の結婚をお祝いしたいんです! えぇ、もちろん影ながらですよ。姫様にとって僕は見ず知らずの他人ですから。それでも遠目にでも花嫁衣裳を着た姫様が見たいんです! どんなに綺麗だろう、なんて思っちゃいけないんですか!? 僕が行きたいんです、あなたのことなんて知ったことじゃない。僕がシーラに行きたいんです!」
 怒鳴られれば怒鳴られるほどラウルスの口許が緩んでいく。ついには眼差しを伏せ、黙ってアケルの手をとった。
「……なんですか」
「いや。その、な」
「ラウルス! だから!」
「だから、人が何か言う前に怒鳴るな! いい加減にその癖は直せ!」
「直そうと努力して直るものだったらとっくにやってます!」
 本当か、と疑いもあらわな目つきで見やれば、アケルがにやりと笑った。それなのに、目の色にだけ不安があった。
「悪いな、アケル。気を使わせた」
「だから――」
「綺麗なお姫様でも眺めに行くか。たまには息抜きも悪くない、な?」
 にっと笑い返してラウルスは遠くを見やった。見たくないはずがない。最愛の娘の佳き日。それなのに父としては在れず、ただの民として、女王の結婚を祝福するよりない。
「そうですよ、最近は綺麗なもの見てないですからね」
「そうでもないぞ?」
 ラウルスの心情を慮るがゆえ、アケルはシーラ行きを望んだ。だが同じほど彼を思うゆえにシーラへの旅をためらう。祝福したいラウルスだから。遠くから眺めるしかないラウルスだから。
「そうでしたっけ? 僕は記憶にないですけど」
 気楽な態度を望むならばそのように、とばかりアケルは軽口に付き合う。それに心の中でどれほどの感謝を捧げているか。ラウルスは口に出せない己と共に、聞き取ってくれるありがたさをも噛みしめる。
「俺はお前眺めてるだけで満足だけどなぁ」
「……ラウルス」
「褒めたのになんで怒るんだよ!」
「戯言にしか聞こえないからです!」
「人の好意は素直に受け取れよ! 愛してるよ、アケル。可愛いよ、アケル。お前だけだよ、アケル」
「滔々と流れるように棒読みしないでください! あなたは存在そのものが嘘くさいんです! そんな風に言ったら嘘か冗談にしか聞こえない!」
「最愛の恋人の全存在を否定するお前ってのも中々どうかと思うがな」
「うるさいですよ!」
 ぷりぷりと怒りながら、アケルは楽しそうだった。怒鳴っていても怒っていても、生き生きとしたアケル。精気の塊のようだ、とラウルスは思う。それこそ彼の存在に、どれほど救われていることか。それなのに、自分は。何よりアケルをこの運命に巻き込んだのは誰か。
「……僕は、あなたがいないと困りますから」
「なんだよ、急に?」
「いまちょっと、不穏なこと、考えましたよね、ラウルス?」
「いや、その……なぁ?」
 困り顔で顎先をかくラウルスに、アケルは目もくれない。まっすぐに前だけを見て歩いていた。その足取りにためらいを見て取ったのはラウルスならでは、だった。
「僕はね、ラウルス。あなたがいないと死んじゃう――」
「おい、ちょっと待て!」
「人の話をちゃんと聞けと言ったのはどこのどなたですか!? 最後まで聞いてください! だから、僕はそんなことはさすがに思いませんけど! あなたがいなきゃ生きてる意味がないなくらいは思うんです!」
「お前――」
「なんですか? それでも僕をあなたは放り出すつもりですか。後悔するつもりですか。誤解してるようですけど、あなたが僕を手に入れたんじゃない、僕があなたを捕まえたんです! それなのに放り出す? そうですか、あなたは僕に死ねと言うつもりですか!?」
「お前なぁ……。よくぞまぁ、そこまでぽんぽんと怒鳴れるもんだ」
「悪いですか、文句がありますか!」
「いいや? だがなぁ」
 言葉を切ってラウルスはにんまりと笑う。後悔がないわけではない。ならばどの時点でアケルを思い切れば、こんなことに巻き込まずに済んだのか。思い返してもわからない。出逢ってしまった、その時その瞬間に今が決まってしまった、そんな気がする。ならば、後悔するだけ無駄なのかもしれない。そしてどれほど後悔しても、アケルを思い切れるはずもなかったとも思う。だからラウルスは高らかと笑う。
「怒鳴ってようが怒ってようが、つまるところは熱烈な愛の告白だったよな、アケル? いやはや、こんな態度で言われても舞い上がるほど嬉しいってのはなぁ。しみじみと俺の趣味はどうかしてると思うよ」
「僕はそんなことしてません!」
 だが赤くなっていては威力も半減、否、それ以下。ラウルスがにやにやとした笑みで見つめているうちに、更一層にアケルの頬が赤みを増す。
「――愛してるよ、俺のアケル」
 アケルに聞こえないはずがなかった。すぐ隣を歩いている。それだけではなく。彼の耳に、世界を歌う導き手の耳に、ラウルスの思いが聞こえないはずはなかった。
「あなたは――」
 何を言いたいのか、わからなくなる。わかっては、いた。方法がわからない。どれほどこの思いを伝えたくとも、伝わりきらない。
「僕には、僕の心をどうしたらあなたにわかってもらえるのか、わかりません。せめて欠片でも伝わるはず、と思って繰り返すしかないのかな。いつかどこかで、僕の気持ちがあなたの心に蘇るはずと願って」
「伝わってるよ、とは言わん」
「言ったら本気で殴りますよ?」
 禁断の山の狩人の本気とは中々に恐ろしかった。澄んだ笑みを見せているものだからラウルスとしては苦笑するしかない。
「アケル」
 伝わっている。伝わらない。わかっている。わかって欲しい。つまるところ二人してどれほど互いを思っているか言い合っているだけ。ラウルスは知っていた事実。アケルは気づいているのかどうか。
「歌ってくれよ」
 アケルの顔がぱっと輝く。どれほど言葉を尽くしても伝わらない心。アケルならば、アケルの声と歌ならば、ラウルスには伝わる、その自信。
 あるいは願いかもしれない、とラウルスは思う。それですら完全な相互理解が可能だという保証はどこにもない。だからそれはアケルの願いであり、ラウルスの祈りでもあった。
 アケルの指がリュートの弦を爪弾いた。流れるよう聞こえてくるのは彼の歌声。甘く切なく狂おしい。それなのに、どこまでも澄んだ歌。
 これで思いが伝わらないと悩むなどアケルはどうかしているのではないかとラウルスはからかいたくなってくる。それほど、純で無垢な歌だった。だからこそ、ラウルスも正直になる。
「ティリアの結婚、嬉しく思ってるよ」
 アケルの歌声に忍び込ませるよう、ラウルスは言った。目顔で彼はそのまま話し続けて、と伝えてくる。リュートの音色の中、ラウルスは呟くよう話し続けた。
「前に、お前に言ったよな? 王の結婚は、つまりは政略だ。それ以外の何物でもない。だから愛した男と結ばれるティリアを心から祝福する」
 それでも政略結婚に違いはない、とラウルスは言い切る。歌声に、不満がまじりラウルスはティリアのため喜んだ。
「メレザンドはいい男だよ。だが、有力な家系の当主でもある。本来なら、ティリアは王家の男を選ばなきゃならないはずだが」
 だがしかしあの大異変。亡くなった人々の中には当然王族も含まれた。そしてラウルスとしては、最愛の娘に相応しい男はメレザンド以外にいなかった。
「メレザンドとの結婚しかり、この時期しかり」
「――時期も、なんですか?」
 音色をリュートに任せ、アケルは尋ねる。歌声がもっと聞いていたかったのに、と不満顔のラウルスをなだめて微笑みかけた。
「まぁ、この時期が最適だろうな。さすが俺の娘、と言いたいところだ。あの日――大異変と言ってるらしいがな、あの日から二年が経つ。これより前じゃ祝福する気にはなれん。あまり遅くなると、復興に結びつかん」
「あぁ、結婚の祝祭気分で盛り上げて、一致団結して乗り切ろう、と?」
「まぁ、そんなものだろうな」
 民を纏め上げる手段だ、とラウルスは言う。それが民のためになるのならば王の私生活などないも同然。それが当然で、なすべき義務だと。
「それでも、やっぱり姫様が幸せになるのは、嬉しいですよ、僕も」
 アウデンティース王との諍いの激しさに傍若無人であった狩人の自分。ティリアだけは心から気遣って親しんでくれた。
 だから、王都シーラに二人はいる。結婚の祝祭に参加しようと訪れた吟遊詩人とその連れとして。王城前の広場で演奏をしていたアケル。すべての人々の目と耳がアケルに注がれるほど見事な音色。アケルは人の耳を今だけは気にしていなかった。届いて欲しいのは、ティリア女王ただ一人。城の中、聞こえていないはずの彼女にだけ届けたい祝福。
「なんて素晴らしい音楽かしら。胸が詰まるのに、心が躍るわ」
 アケルが歌を収めたその瞬間、毅然として華麗な声が聞こえた。




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